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白蛇の意思

 世界の安寧を望むなら。永遠の命を望むなら。女神の命を取り込め。


 少年に突き付けられた選択肢は、あまりに、あまりに重い。命を取り込む。それがどういうことなのか、女神の言葉が何を意味するのか。少年は答えに辿り着いていた。分からない筈が無かった。そこまで彼は鈍くない。

 女神は分かっていた。向かい合う銀髪の少年が蛇の魔物であることも。そして、その身に宿るのが、本当はずっとか弱い、人間の精神なのだということも。だから、彼女は続けた。


「私を喰らうのが怖いのでしょう。しかし少年よ、迷っている時間はあまり残ってはいません。今この時も、魔王は世界を壊しています」


「……俺に、あなたを喰い殺せって、言ってるのか……?」


 えぇ、と、短い肯定の言葉が返ってくる。少年は口をつぐんだ。何と言って良いのか、分からなかったのだ。それはサネルマやリリアーヌも同じようで、状況がよく理解出来ていないまま、不安げな顔をしていた。女神アレティはそんな彼らを一通り見回してから、沈んだ口調で言う。


「……本当なら、貴方に押しつけるべきではないのでしょう。……ですが、私には力が無い。時間も無い。誰かに託すしかないのです、情けないことに」


 そう言って、目を伏せるアレティ。居たたまれなくなったミズガルズは、無理矢理話を先に進めた。


「もし、あなたを喰らって、本当に不死になれたなら。俺は、その魔王とかいうのに勝てるのか?」


 不安を拭いきれないミズガルズに、アレティが淀み無く説明をした。


「幾ら力があるとはいえ、魔王は不死ではありません。死ぬことの無い身となった貴方ならば、最後には必ずあの男を滅することが出来るでしょう」


 はっきり言えば、到底信じられる話では無かった。目の前の女性を喰い殺すだけで永遠の命が手に入るだなんて。こうも、物事は上手く進むのだろうか。考えれば考える程、ミズガルズの頭には疑問が湧いた。永遠の命など、そんなに簡単に手にしてしまって良いのだろうかと。

 けれども、同時に残された猶予が僅かであることも理解していた。このまま何もしなければ、このまま足を止め続けるならば、何が起きるのか。……そうだ、倒さなければいけないのだ、魔王を。

 ミズガルズは自分のことを善人だとは思っていない。それは地球という名の世界で、人間の少年として生きていた時も、この異世界で魔物として生きている今も変わらない。どちらかというと、悪の側に寄っているという思いさえあった。自分は他人から崇められるような存在ではない。勇者でも、英雄でもない。人間の心と記憶を持った、けれども、誰かの命を奪うことも時には躊躇しない、ただの蛇の魔物。


 だが、そんな彼でもやはり魔王だけは許せなかった。どうしても、見て見ぬフリは出来なかった。何故、意味の無い殺戮をするのか。敵対しない者までわざわざ殺すのか。きっと、正面からそう尋ねたとしても、無意味なのだろう。ミズガルズには理解出来ない、いや理解したくもなかった。


 いたずらに世界を壊す魔王。自分は善人ではないけれど、少なくともそんな奴とは違う。それだけは声を大にして言える。ミズガルズはそう確信していた。


「俺は……勇者を気取るつもりはないし、英雄になる気もない」


 けれど。


「この世界と仲間を、守りたいっていう気持ちだけは、ある」


 女神の美しい顔に、複雑な表情が浮かんだ。嬉しそうなのに、同時に悲しそうでもある。安堵したように見えるのに、どこか残念そうにも見える。正負の感情が幾つも混ざり合っているようだった。

 何故、彼女がそんな顔をしているのかは分からなかった。どうして悲しげな表情を見せたのか、気になったのは確かだ。それでもミズガルズはあえて聞かなかった。何となく理由を聞けば決心が揺らいでしまう気がしたのだ。今更、少年は躊躇いたくなかった。


「ご友人の前では、色々とやりづらいでしょう? 離れた場所まで移動します……」


 女神がミズガルズの手をそっと掴み、何やら呪文を唱え始める。彼女の白い肌に汗が浮かんでいた。恐らく僅かに残った力を振り絞っているのだ。一言も喋らずに見守るサネルマとリリアーヌ。そんな仲間二人を最後に視界に収め、ミズガルズは神と共に姿を消した。



◇◇◇◇◇



 目を開けた時、そこは四方を岩壁で覆われた洞穴の中だった。広大な空間の中に、穏やかな地底湖が横たわっている。当然であるが陽光は届かず、唯一の光源として、発光性の苔植物が群生しているのみだ。そして、肌に張り付くような冷気が周囲に漂っていた。


「ここは……」


 思わず声を漏らしたミズガルズ。彼にとって、この場所は全ての始まりであった。ここから、この世界における全てが始まったのだ。記憶に残らない筈がない。何故なら、この洞穴は。


「……蛇神の洞窟」


 呆然と呟いた彼の耳に、女の咳き込む音が聞こえた。振り返れば、湖岸の濡れた岩肌に一人の美しい女性が座り込んでいた。さらさらと流れる薄紫色の毛髪、きめ細やかな肌、完璧過ぎるまでに整った顔、それに鮮やかな青の瞳。世界を見守る役目を果たしていた、かつての女神アレティだ。

 ほとんど力を奪われたにも係わらず、彼女はミズガルズのためにほんの少しだけ残っていた力を使ってくれたらしい。どうやら相当体力を削ったようで、今も肩で息をしている。だというのに、彼女は力のこもった目でミズガルズを見上げると、時折途切れながらも言うのだ。


「貴方にとっては……懐かしい場所、でしょう? 今、魔王は貴方もよく知る、ティルサを襲っているようです……。なるべく近くまで送りたかったのですが、ここが、限界でした……」


 小さく呻き、アレティは激しく咳き込んだ。ミズガルズはそんな彼女のもとに駆け寄り、肩を支えた。弱りに弱った女神はそうなっても言葉を紡ぐのをやめなかった。


「私は、貴方に謝らなければ……なりません。尽きることの無い、命などを引き継がせて……しまう、なんて」


 アレティは心の底から申し訳なさそうな表情を見せた。それを見て、ミズガルズはようやく気付いた。どうして彼女が悲しげな顔をしていたのか。その理由が分かってしまった。

 彼女は神。世界を見守る者、世界の理を司り、未来永劫、その秩序を保つ者。彼女に死という概念はない。神は永遠に生きる。いや、永遠に生き続けなければならない。寿命に縛られる者たちからすれば、不死は魅力的な特権に見えるのだろう。だが、当の神にとっては? それは特権と言えるのか?

 終わりの無い、命。死ぬことはなく、永遠に時間が続く。死に束縛されないということは、同時に生から解放されないということ。例え、どんなに疲れても、どんなに心が磨り減っても、死ぬという手段によって安らぎを得ることは叶わないのだ。力を得るには、何らかの犠牲を払う必要があるのと同じ。永遠の命には、苦しみを伴う弊害が含まれるのだ。


 きっと、アレティは疲れてしまったのだ。もう、どうしようもない疲労感に飲み込まれてしまったのだ。一体、彼女がどれだけの年月を生きてきたのかは、ミズガルズには知る由もない。数百年や数千年ではきかないだろう。もしかしたら、数万年、数十万年。いや、下手したら、数千万年や数億年は過ごしてきたのかもしれない。その長い間、彼女はどんな思いで一日一日を歩んできたのだろう。そんなこと、ミズガルズには分かる筈がないのだ。


「……女神様」


 永遠の命に恐怖を覚えたのは確かだ。待ち受ける孤独は怖い。そこにどれほどの激しい寂寥感を抱くのか、少年は想像するだけで背筋が冷え、身体が微かに震えた。


「あなたは頑張ったんだと、思います、凄く。だから、もう休んでも良いんじゃ……ないですか?」


 女神は何も言わない。ただ驚いたように少年を見つめるだけ。


「これはあなたに押し付けられたんじゃない。……俺が自らの意思に従って、選んだ答えだから」


 少年は決めた。英雄にはならない。勇者にもならない。けれど、世界は救ってみせる。怖くないと言ったら、それは嘘。それでも、後戻りはしたくない。前へ進みたい。やっと見つけた居場所を、仲間を、この手で守りたい。その意思に従って。


「俺が、あなたの役目を引き継ぎます。どうか、永遠の命を俺に……与えて下さい」


 静寂が場を支配した。青白い薄明かりに照らされた、神秘の洞窟。その瞬間、そこには確かに音が存在しなかった。地底湖には細波も立たず、まるで時が止まってしまったかの如く。


「…………分かりました」


 アレティは深く頷き、ミズガルズの真紅の瞳を見つめた。彼女にも、ミズガルズにも、もう迷いは無い。去り行く古い神と、新たに生まれる神。二人の思惑は、世界を魔の手から守り抜くという思いはしっかりと一致していた。

 言葉に出すよりも早く、蛇神がその本来の姿を現した。光を浴びて、虹色に煌めく白銀色の巨体。相対した者に絶望を抱かせる、血色の鋭い瞳。竜の如く伸びる角。そして、鈍く輝く毒牙。まさしくそれは蛇の神。圧倒的な存在感とともに大蛇はそこにいた。


「さぁ、古より生きる蛇神、地を這う銀雷、世界蛇ミズガルズよ。いえ、異界の名も知らぬ少年よ。汝に我が全てを授けよう。覚悟は……聞くまでもありませんね?」


 蛇神はあえて何も言わなかった。小さく頷いて、一気に動く。その巨体からは想像も出来ない程の速さで身体を滑らせ、女神を取り囲んだ。既に彼女は目を閉じている。ミズガルズは彼女に巨大な顔を寄せ、背中に牙を突き刺した。一瞬、苦悶の声が上がる。だが、それも長くは続かない。やがて、女神の身体は力を失い、がくりと傾いた。ミズガルズが彼女を意図的に昏睡状態にさせたのだ。


 横たわる女神を大蛇は見下ろした。きっと、最早何の音も耳に届いてはいまい。


『……すまない』


 大蛇の鋭利な牙が、女神の柔らかな肉に突き刺さった。



◇◇◇◇◇



 口内に広がる血の味。ツンとする、この鉄のような臭いも血液のものだろう。それが鼻腔を通るたび、身体が喜んでいるのがミズガルズには分かった。ヒトの形をしたものを貪るということが、これほどの悦楽をもたらすなど彼は思ってもいなかった。だが、彼は魔物なのだ。既に人間ではない。そして彼は今、その魔物でさえもなくなろうとしている。

 前兆は無かった。まさに、突然。半ば本能のままに殺し、喰い漁っていた血肉の塊が、目映い光と共に輝き出した。ミズガルズは堪らず目を閉じる。もし手があったならば、それで視界を覆っていたであろう。

 確かにただの骸でしかなかったのに、そこから激しく光が溢れ出てくる。洞穴の隅から隅まで照らし尽くす、ただただ神々しい純白の光。


『な……?』


 光の粒がふわりと浮き上がり、宙に舞い上がる。まるで、無数の蝶が鱗粉を振り落としながら飛び回っているようだ。巨大な白蛇は圧倒され、何も言葉を出せないまま、翻弄され続ける。なんと神秘的な光景なのだろう。苔の薄明かりに淡く照らされていただけだった洞穴が、今ではうっとりする程に美しい。見渡せば、周囲の空間全てに光の粒子が漂っている。

 幻想的な情景の中、白蛇もまた輝きを放ち始めていた。鼻先から尾の先端まで、余すところなく光に包まれる。白銀色の体躯はますます眩しく煌めいた。

 輝きが強くなっていくと共に、白蛇は己の内で力が増していくのを静かに感じ取っていた。分かるのだ、自らが変わりつつあることが。清い力の奔流が肉体を、精神を駆け巡る。ただの魔物から別の何者かへと変わろうとしていた。

 白蛇は瞳を閉じる。すると、頭の中に様々なものが流れ込んでくる。喰らい、取り込んだ女神アレティの数多の記憶、経験、知識。それらが文字として、あるいは映像となって、白蛇の脳に流入した。後に魔王となる男との些細な触れ合いから、それこそ世界の理を揺るがすような、神のみぞ知る秘密までもが。その量たるや、処理が全く追いつかない程だった。


 そこで、突然の閃光が弾けた。蛇神の真紅の瞳は湖面に映された己の姿を見た。相変わらず信じられないぐらいの巨体。それは変わらないが、外見が以前と少し違っていた。

 白銀色の鱗と同系色だった頭部の四本の角は、鮮やかな青色に変化していた。更に新雪のような白一色だった胴に至っては、その側面に青色と薄紫色の二色で構成された複雑な曲線模様が描かれていた。


(あぁ……これは女神様の色、か)


 自身に新たに加わった、二つの色。かつての神の色。暫し複雑な思いで湖面を見つめた後、白蛇は身体を滑らせ始めた。


 大切なものを、その手で守り抜くために。

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