女神
やけに静かだ。ミズガルズはバチェの城内に入ってから、ずっとそう感じていた。城は広く、もっと悪魔たちの姿があっても良さそうなものだが、おかしなことに誰も見当たらない。偶然なのだろうか。そう思いたくとも、疑わざるを得なくなる程、不思議を通り越して不気味であった。ミズガルズのすぐ後ろを歩くリリアーヌも気味が悪いのか、周りをきょろきょろと見回しては落ち着きが無かった。
物が散乱する廊下。深い傷のついた壁。引き裂かれた絵画。あちこちに見受けられる血痕。そんなものばかりを見ていると、焦る気持ちに拍車が掛かった。言葉では言い表せない、重くて冷たい嫌な予感。頭の中で警鐘が鳴り喚き、知らず知らずのうちに動悸は早くなった。
出来るならば、本能が告げてくるものから逃れたい。目に入れたくもない。理解したくない。きっと、それは悪いことだから。胸を締め付けられるような、悪夢だろうから。根拠など無い。漠然とした、単なる直感。けれども、それはきっと。
「……え」
間の抜けた、リリアーヌの声。彼女の視線は眼前に広がる城の中庭に釘付けになっていた。もちろん、ミズガルズも同じだった。少年はぎりりと、唇を噛む。溢れる痛み。気付かない内に彼の唇から血が滴り落ちていた。
見たくなかった。けれども、彼は見てしまった。知りたくなかった。なのに、知ってしまった。……友は傷つけられた。勇壮な赤竜は敗れ去ったのだ。だから、陽光の下であんなに血を流している。あの強靭な翼も畳み、力無くうずくまっている。憎々しいまでに悪趣味な剣で貫かれて。
気付けば、ミズガルズは走っていた。白銀色が目映い、癖の無い長髪がたなびいた。弱りきった親友の顔のすぐ近くにひざまずき、彼は必死になって呼びかける。それでも、炎竜イグニスは応えてくれない。微かに息をしているので、死んではいないのだろう。けれども覚める様子の無い深い深い昏睡状態に陥っているようだった。
ミズガルズの視界がぼやける。堪えきれず、少年は涙を流した。次から次へと雫はこぼれ落ち、とどまることを知らない。ただ、純粋に悲しい。胸が張り裂けそうだ。誰かが傷付くというのは、こんなにも辛いことなのか。竜を前にして少年が感じていた痛みは今まで味わったどんな苦痛よりも鋭く、激しいものだった。
「……ミズガルズ……」
弱々しく掠れた女の声がすぐそばで聞こえた。涙で顔を濡らしたまま、ミズガルズは振り返った。そこには、頭から爪先まで、どこもかしこもぼろぼろのサネルマが立っていた。髪は乱れ、額からは血を流し、杖を支えにして辛うじて地に足をつけている。酷い有り様だった。彼女も激しく痛め付けられたのだろう。
悲しみが、苦しみが、怒りが、そして後悔が渦巻く。何が蛇神、蛇の神。誰もが羨む力を持っている癖に、何も出来なかった。大切な友人たちの助けになれなかった。自らへの怒りが蛇神の心を支配した。彼はただただ自分自身を許せなかった。
「……サネルマ。お前とイグニスを傷付けたヤツは絶対に見つけてやる。俺が見つけて叩き潰してやる! 絶対に許さない!」
激昂し、闘志を露にするミズガルズ。だが、しかし。
「……無理だよ、ミズガルズ」
サネルマの信じられない一言に、蛇神は硬直する。今、彼女は何と言ったのか。理解が追いつかない。
「イグニスが……私が知る限りこの世界で最強の竜が手も足も出せなかったんだぞ! まるで、赤子扱いだ! イグニスで駄目なら……例え、誰が行ったところで、全員なぶり殺しにされる!」
いつでも快活だったサネルマが地面に崩れ落ち、しきりに咽び泣いていた。彼女の心は完全に折れていた。そんな彼女の姿を見たくなくて、ミズガルズは明後日の方向に目を逸らした。
許せなかった。どこのどいつだかは知らないが、そいつはエルフの身体だけでは満足せず、心にも深い傷を負わせて行ったのだ。魔物を放ち、人々を殺し、イグニスとサネルマを傷付けた者……。そいつは魔王……魔物の王なんかじゃない。王を名乗る資格など、全く無い。ただのクズだ。それ以外に、どうやって言い表せば良いと言うのか蛇神には分からなかった。
(無理だなんて決めつけたくない。絶対に諦めたくない)
いや、違う。諦めたいとか、諦めたくないとかではなく、諦めてはいけないのだ。もし、全てを放棄したならば、この世界の全てが終わる。きっと、大地は荒れ果て、水は汚され、人間や弱い亜人たちは虐げられ、やがては殺されるだろう。今もティルサにいる仲間たちも例外ではない。
先輩冒険者のカルロス、間の抜けた貴族の青年アレハンドロ、アロンソたちヘタレ警備兵三人組、それに宿屋のアンディ老人とアンジェラや、憎めない悪党であるケネス。水竜のリューディアと魔狼のフェリルも。皆、死んでしまうかもしれない。ここで引きこもって何もしなかったら、誰も残らない。そう、麗しい王女エルシリアだって。
決断を迫られる。進むのか、退くのか。もちろん、答えなど決まっている。正しい選択は一つだけ。進むしかないのだ。他に道は無い。先に進まねば、未来は存在しないであろう。……だが、怖いのだ。イグニスに致命傷を叩き込むことが出来る程の敵だ。十中八九、無傷で済むことは無い。今の自分が立ち向かって、確実に勝利出来ると言えるだろうか。その保証はどこにも無い。もし、返り討ちに遭ったら? ……そうなれば、結局何も守れない。少年は震え、動けなかった。
「恐れているのですね」
女の声がした。耳にはっきりと残る、凛とした響きを持つ声だ。サネルマのものではない。ましてや、イグニスが目を覚ましたわけでもない。ミズガルズはゆっくりと振り返った。
淡い紫色に染まる、流れるような長髪。雲一つ無い空の色を写し取ったかのような瞳。どこか不思議な雰囲気を醸し出した、美しい女性であった。その美貌は麗しいを通り越して、神秘的であるとさえ言えた。魔王の手で痛め付けられ、あちこちに傷を晒していたが、それでも身に纏う気高さは消えていなかった。
そこでミズガルズは何となく分かってしまった。この女性は人間ではない。ヒトから遠く離れた、何か別の存在だ。ミズガルズ自身もそうだが、女は浮世離れした雰囲気を持っていた。
「あなたは……」
その先をミズガルズは言えない。一体、何者なのだろう、彼女は。意志の強さが見て取れる瞳、凛とした神聖な空気、人間とは思えぬ美貌。ただ者だとは思えなかった。
「私の名はアレティ。遥か天上から世界を見続けてきた者……。言うなれば、神という存在でした。……つい最近までは」
アレティと名乗った女神は、自嘲するかのように寂しく笑った。ミズガルズは思わず押し黙った。彼女が纏う悲壮な空気に当てられてしまった。側に佇むむサネルマも、何を言えば良いのか分からないようだ。
「……こうなったのは、全て私の責任。最後に女神であった者として、あの男を止めなければなりません」
「あの男? それが誰なのかは別として……どうやって……?」
疑問を呈したミズガルズに、アレティはふんわりと微笑みかける。何故だか分からないが、見ていると安心を覚える笑顔だ。ミズガルズは何となく、そう感じた。
「疑問を抱かれるのも無理はありませんね。今の私は無力です。……魔王を自称する、あの男に力を奪われましたから」
けれど、彼は詰めが甘かった。
女神のその一言に、ミズガルズは訝しげな表情を見せた。彼とは、魔王のことであろう。だが、詰めが甘いというのは、一体どういうことなのか。ミズガルズにはいくら考えても、見当がつかなかった。
「……あの男が望んでいるのは、永遠の命です。きっと、それを求めて今も不死の秘草などという、眉唾物を探しているはずです」
「え、眉唾物……?」
不死の秘草。なんと懐かしく感じられる言葉だろう。それは白蛇が異界の少年に己の身体を託した時、教えてくれたもの。今のミズガルズには、あの日のことがずっと昔にあった出来事のように思える。
けれど、過去の回想に耽っている暇は無かった。何しろ、本物の女神が眉唾物だと、秘草を切り捨てたのだ。ならば、そんなものは初めから、この世界には存在していないのか。実際には在る筈の無い代物を少年は探そうとしていたのだ。
「永遠の命を得ることの出来る植物など、在りはしませんよ。不死に憧れた人間たちが長い長い時の中で生み出した幻想に尾鰭がついたものに過ぎないのです。けれど、あの男……魔王に勝つ為には……」
「勝つ為には?」
女神は頷く。そして、言うのだ。不死の秘草などは世に存在しない。だが、魔王を討ち滅ぼし、世界を救いたいのなら、本当に不死の身体にならなければいけない。永遠に続く命を手にしなくてはならない。魔王の力はそれほどまでに強大だから。世界を見守る神の力を、根こそぎ奪取して、全てを破壊する魔の力に変容させてしまったから。
そうして、かつての神は続ける。今のままのミズガルズでは、魔王に殺されてしまうだろう、と。もちろん、傷を負わせることは可能だ。けれども、敗北するのはミズガルズ。間違っても勝者になることはない。身体を刺され、千切られ、バラバラにされて、そこいらに捨てられてしまうだろう、と。
魔王には勝てない。ならば、不死の身になるしかない。けれど、不死の秘草など、どこにも存在しない……。だったら、どうしろと言うのだ。ミズガルズは心が絶望に染められていくのを感じた。この世界が魔王などという、訳の分からない存在に蹂躙されるのはもちろん嫌だ。……でも、ミズガルズとて、自分の命はやはり失いたくない。
「そんな顔をしないで下さい。私は不死の秘草は無いと言っただけで、不死になる方法が無いとは言っていません」
「……え……?」
女神は真っ直ぐとミズガルズを見つめる。一切の曇りも見受けられない、青い瞳。そこには強い決意が宿っている。ミズガルズはただただ翻弄されるばかりだ。一体、何を言われるのだろうか。知らず知らずのうちに、身体が硬くなった。
「……蛇の神……、いや、少年よ。世界の安寧を望むなら。永遠の命を望むなら」
言葉を区切るアレティ。何故、彼女は自分の正体を知っているのだろう。そんなどうだっていいことが、ミズガルズの頭に浮かぶ。何もかもがぐちゃぐちゃで、思考が追いつかない脳内。やけにはっきりと聴こえるのは、一向に収まりを感じさせない心臓の鼓動のみ。
「……私の命を、その身に取り込むのです」




