平穏を壊す者
魔界の朝は意外と爽やかなものだ。ちゃんと日光が街を照らし、健康的な住民たちが活動し始める。暴動の爪跡はまだあちらこちらに残っているが、時が経つうちに元通りに修繕されていくだろう。
バチェの街並みは、ティルサのそれとあまり変わらない。石畳の道路やら煉瓦造りの家々。居並ぶ屋台の数々……。暮らしている住民たちこそ悪魔族だが、人間が築き上げた街とほとんど同じだ。
そんな街中をミズガルズは歩く。誰も彼が忌まわしい強制収容所を陥落させた張本人とは夢にも思わないだろう。何せ、細身で背丈の低い少年だ。長い銀髪と相まって、ともすれば少女にも見えてしまうほど。一見すると、ただの華奢な人間だった。本人は全く気にしていないが、周囲の悪魔たちは実際のところ、興味津々であった。
密かに注目されているとは知らず、ミズガルズの足はゆっくりと目的地に向かう。行く先はリリアーヌが宿泊しているという宿だ。そこまでの簡単な地図をあらかじめ城の兵士から貰っていたから、案外素直に辿り着けそうだった。
ミズガルズの目指す木漏れ日の宿は、街の外れの方にあるらしい。もう少しの間、一人歩きの時間は続きそうだ。彼の相棒である炎竜イグニスは城内での快適な生活を絶賛お楽しみ中。広い浴場、質と量共に申し分ない食事。それらにはまったみたいだ。
(あいつ、下手に問題起こさないと良いけど……)
ミズガルズがそう思うのには理由がある。城に勤める悪魔族の女たちが、イグニスに夢中なんだとか。事態を一層悪化させているのは、彼女らに対するイグニスの態度。……どうやら、満更でも無いらしい。
おいおい、残してきたリューディアはどうするんだ、このイケメン。そう言ってやりたいが、なかなか難しいのも事実。早朝城内を歩けば、女たちの話題はほとんどがイグニスに関することだった。今度、背中に乗せて飛んで貰うんだとか。別の集団が言うには、一緒に風呂に入りたいだとか。はたまた、キスをしたい……。更に過激になると、「今夜、ベッドに忍び込んで燃えるような熱い夜を過ごす!」だなんて叫ぶアホまで……。馬鹿野郎、本当に燃やされてしまえ。
「俺にはだーれも声掛けねぇんだもんなぁ……」
ついつい本音がこぼれる。相方ばかりが女性に人気というのは、なかなか嫌なものだ。自然に漏れ出る溜め息。ミズガルズはちょっぴり何かに負けたような気分だった。
けれども、世の中、悪いことばかりが続くわけではないらしい。少し沈んだ気分のまま歩いていると、前の方から一人の美しい女性がやって来た。しかも、その彼女はミズガルズと目が合うと、優しく微笑んでくれたのだ。当然ながら、少年の心臓は跳ねた。偶然だろうか、でも何故?
どうしたことか、その女性が近づいてくる。それも真っ直ぐにミズガルズに向かって。彼は脳内の記憶を片っ端から引っ張り出したが、こんな女性には覚えが無い。どこかで見かけたことも、会ったことも、ましてや話したこともない。強いて言えば、ある少女に似ている。鮮烈なワインレッドの毛髪、エメラルドグリーンの瞳。それから常に覗く八重歯。そうだ、リリアーヌにそっくりじゃないか……。
「初めまして」
当然の如く、ミズガルズの目の前にやって来た女。するりと飛び出してきた流麗な響きの声が、耳に心地よい。例えるなら、風鈴のようである。それに全体的に醸し出している雰囲気は、清楚の一言に尽きる。ワインレッドの長髪はストレートに伸ばされ、実に滑らかな輝きを放っている。化粧の類は一切していないようだ。それでも、圧倒的な美しさが人混みの中で際立つ。彼女の周りだけ、光り輝いているかのようでもあった。
「私はアリアーヌと言います。……貴方がミズガルズ様ですよね?」
「俺の名前を知ってるってことは……」
サキュバスのイメージとはおよそかけ離れた、美しい笑顔が咲いた。
「えぇ。私がリリアーヌの母です」
◇◇◇◇◇
街の喧騒から離れた場所に木漏れ日の宿はあった。すぐ裏手は緑が眩しい森となっている。これが木漏れ日の宿という名前の由来だろうか。室内にいても鳥の鳴き声が耳に入る。それだけ自然に恵まれているということだ。緑が好きな少年にとっては少し嬉しかった。
「改めてお礼を言わせて下さい。貴方が助けてくれなかったら、私は娘と再会することは無かったでしょう」
向かい合って座るアリアーヌが頭を下げる。麗しい美女に深い感謝の気持ちを示されて、ミズガルズは少しどころかかなり落ち着かなかった。アリアーヌは絶世の美女と言って差し支え無いだろう。世界中のどんな男だろうと、彼女が声を掛ければ、付いて来ない者はいないのではないか。そう思えてしまう程、アリアーヌの美貌は完璧なものだった。
そんな飛び抜けた大人の美しい女性……しかも淫魔を前にしているわけだから、ミズガルズの胸の高鳴りがなかなか治まらないのも仕方無いかもしれない。彼のみならず世の男性にとって、アリアーヌの前で平静にしていろ……というのは難しい話だ。実に酷である。
「あっ! 来てくれたんだ!?」
恐縮しまくった挙句、次に何と返そうか、言葉に詰まる。そこに騒がしい足音と共に、聞き慣れた声がやって来た。リリアーヌだ。
椅子に腰掛けたミズガルズの上半身にリリアーヌが抱き着いた。また例によって、サキュバスらしい露出度の高い衣服を着ている。そんな際どい服装の上、母親の目の前で男に抱き着くなんて。……アリアーヌは怒っているのではないかと、蛇神はちらっと前を見たり
「こら、リリ。そんなはしたないことをしちゃいけないわ。もっと、落ち着きを持ちなさい」
彼女は全く怒っていなかった。それどころか柔らかな微笑みさえ浮かべていた。とても淫魔とは思えない人だ。一人娘を大切に見守る、人間の母親と大差無い。どこまでも、淫魔のイメージとはかけ離れている。うん、どこかのエルフには見習って欲しいものだ。
リリアーヌは渋々といった様子で少年から離れ、彼の隣の椅子を引き出し、その上に腰掛ける。テーブルに肘をつき、頬杖をする彼女の口から、母親に対する文句が早速飛び出してきた。
「落ち着き、落ち着きって……。ママって本当サキュバスらしくないよ。人間の修道女みたい」
「何言ってるの、リリ。私は修道女にはなれないわよ。だって、神様を信じていないもの」
何故か寂しく微笑んだ母親の態度に訝しげになりながらも、娘は深く理由を聞かなかった。椅子から立ち上がると、外に遊びに行ってくるとだけ残して、その場から飛び出して行ってしまった。
陽射しの差し込む部屋の中に、二人だけが残される。外では小鳥たちの歌声が絶えることなく、響き渡っていた。何の予兆も無く、アリアーヌが笑い声を漏らした。銀髪の少年はわけも分からずに、目をしばたたかせた。
「私が子供の頃から、この大陸は何も変わっていません……。毎日、どこかで争いが起きて、誰かが死んでる。……馬鹿みたいですわ」
何も言うことが出来ない。何を言えば良いのか分からない。そして、彼女は一体、何言おうとしているのだろう。
「……私は神様なんて信じていませんわ。だって、もしいるなら、この世界はとっくに平和なものになっているもの」
ふんわりとした、暖かい微笑み。けれども、その中に一抹の悲しみが確かに宿っているのが感じられた。そうだ、彼女の言っていることは正しい。世界を良い方向に導く者こそが神だ。ならば、世界が乱れに乱れきっている今、ここには神などいないことになる。
でも、だったら。それなら、神を名乗っている自分は何なのだ。少年は分からなくなり、開きかけた口を塞いで、考え込む。長い銀髪が目にかかり、視界を狭くした。だけど、そんな些細なことはどうだって良い。それは今は問題にはなり得ない。
(……俺はこんな、ふらふらしていて良いのかな……?)
ある日、降りかかってきた、奇跡に等しい、いや奇跡など軽く超えるような幸運。たまたま、それを掴み取り、手に入れた、身に余る程の力。今や、少年は何でも出来る。誰もが羨む、無尽蔵の力を備えているのだから。
だけれども、その特権を使って、何かしただろうか。……いや、何もしていないのだ。いつも行き当たりばったりの毎日。遅くまで毛布の中で眠って過ごし、一日三食、好きなものを好きなだけ食べている。これでは、何一つ変わっていない。人間だった頃と大差無い、時間を無駄にするばかりの自堕落な生活……。仮にも、蛇の神であるというのに、だ。
(……けど。何をすれば良いかなんて、分かるわけが無い……)
そうして、結局は答えが出ないまま、時間だけが過ぎていくのだった。
◇◇◇◇◇
街の住民たちは各々の家を修理するために、材木やら工具やらを手にして、一時も休まずに動き続けていた。釘を打ち付けたりする音が、あちこちから響き渡る。誰もが忙しい様子を見せている中、一人だけ暇そうにしている少女が見受けられた。リリアーヌだ。目的地も定めずに、ただふらふらと歩いている。
彼女の頭の中はミズガルズのことでいっぱい。いつも、あの銀髪の少年の横顔が脳裏に浮かぶ。まるで、常に熱病にかかってしまっているかのよう。首を振って忘れようとしても、なかなか忘れることが出来ない。一体、どうしてしまったのだろうか。男をたぶらかすはずのサキュバスが、こんな純粋な恋愛に溺れてしまうだなんて。
「……あー、もう……」
これといった意味も無く、リリアーヌはぶんぶんと首を振る。すっかり、頭が混乱してしまった。一度こうなってしまうと、思考に絡み付いた霧はなかなか取り除けないものだ。何だか胸がすっきりしない。
ヨアンのところにでも、遊びに行こうか? 一瞬、そんな考えが頭をよぎる。けれども、彼も忙しいだろう。いきなり訪ねたところで、まともに相手をしてもらえないかもしれない。だったら、どこに行けば良いのかな……。
「……あれ?」
突然の違和感。リリアーヌはバッと顔を上げる。辺りを見回せば、周囲の同胞たちも同じような顔をしている。皆一様に浮かべているのは困惑の表情。そして次の瞬間には、それが恐怖の表情へと移り変わる。
「何だ、あれはあああああああ!?」
平穏だったはずの街に木霊する、無数の悲鳴。突如起こった騒乱に囲まれるリリアーヌが見つめる先、王族が暮らす宮殿を取り巻くように、幾つものどす黒い竜巻が地中から立ち上る。次第にその数は増していく。
膨大な、あまりに異常な程の魔力の高ぶりがバチェを包み込み、無力な者たちの叫びが空間を絶えず飛び交う。一体、何が起こっているのか。誰があのおぞましい現象を引き起こしているのか。民衆たちにそのようなことが分かるはずもなく、ただ彼らは一様に逃げ惑うだけ。リリアーヌは恐怖に駆られて、動くことが出来ない。その場で硬直したままだ。
黒い竜巻の中から、何か得体の知れないモノが飛び出した。一体や二体ではない。何十体、いや何百体……下手をすれば何千体もの怪物たちが姿を現した。そのどれもが、全て同一種の魔物であるらしかった。人間や悪魔族のような形をしているが、身体は頭頂部から足の先まで、どこもかしこも深い漆黒……闇の色だった。腕は人間のものよりも長く、背中には悪魔族と同じように大きな翼が備わっている。瞳に当たる部分は見受けられず、不気味な白色の眼球がついているだけ。
……そんな気色の悪い怪物の一体が、リリアーヌの目の前に飛んで来て、硬い石畳の上に降り立った。表情の読み取れない、白濁した目玉が少女を睨み付ける。怪物の口はぐわりと裂け、鋭利で恐ろしげな牙が覗いた。少女の周りで聞くのも憚られるような悲鳴が次々と生まれては消えていく。この得体の知れないモノたちが、悪魔族を襲い、幾つもの断末魔を奏でている。
カチカチという妙な音が鳴り始めた。それが自らの歯の震えによって引き起こされていることに、リリアーヌは気付いていない。あまりの恐怖。どうすることも出来ず、ただ死が近づいてくる。
「嫌だぁ……、来ないで……」
リリアーヌの弱々しい頼みを、怪物が聞いてくれるわけがない。
(……どうして? やっと、平和な生活を取り戻せそうだったのに……)
無情にも、怪物は少女へと踊り掛かった。




