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自由への始まり

 島に聳え立つ強制収容所の中、ある一室で男がふんぞり返っていた。でっぷりと肥え太ったその男は、この強制収容所の所長であった。唇は厚ぼったく、頭髪は薄い。どんよりとした両目はまるで死んだ魚を思わせる。

 所長室にはありとあらゆる高級品が並んでいた。磨かれて光沢を発するテーブルも、その上に置かれた純金の灰皿も、とてもではないが一般市民に買えるものではない。改めて見回せば、部屋の壁自体も金で覆われているではないか。ここまで来ると、さすがに成金趣味過ぎて、感性を疑ってしまいそうだ。

 無駄にギラギラと眩し過ぎる部屋のドアを何者かが叩いた。所長は淀んだ目で、そちらに視線を向けると、その容姿に相応しいダミ声で言った。


「……入れ」


 失礼しますと言って、部屋に入ってきた悪魔は所長の部下だ。彼の後ろから現れたのは二人の小柄な人影。そして、その背後に一人のオークが立つ。彼も当然ながら所長の部下である。


「正門の前で何やら騒いでいたガキ共を連れて来ました。どうしましょうか」


 わざとらしくにやけている部下の顔を一瞥した後、所長の目は二人の少女に向かう。すると、彼の顔が醜く歪んだ。実に良い女だ。まだ幼いが、美しい顔立ちをしている。丁度、お楽しみ用の女囚人が少なくなってきたところだ。今日からはしばらく、この二人で遊ぶとしよう。欲望の化身のような所長は下衆な想像に浸り、にやつきを止められなかった。

 自身の欲望に関してはとにかく忠実な所長は、早速行動に移すことにした。ぶくぶく太った身体を揺らし、重い腰を上げる。背後にある扉を開け放ち、部下に命令して、二人の少女を奥の部屋に乱暴に押し込む。バタンと扉が閉ざされ、三人の醜い男たちが少女たちを取り囲んだ。


「ぐふふ。見れば見るほど、美しいな。これなら、この先数年間は他のメス犬共は必要ないかもしれないわい」


「確かに、所長の言う通りでございますなぁ!」


 二人の悪魔が下卑た笑い声を上げる。その間に上司たちの目を盗んで、肥満体のオークがサキュバスの少女に手を触れようとした。その瞬間、甲高く呪文が唱えられる。

 声を発する間もなく、オークの顔面が炎で包まれた。それは下位の魔法だったが、不意を突かれたオークの悲鳴が響き渡る。反射的に顔を手で覆ったために、両腕にも炎が移り、瞬く間に全身が赤く包まれる。


「グオオオオオオオオオオオオオ!」


 悪魔たちがようやく動き出したのは、オークが扉を蹴破って、室外に駆け出して行ってからだった。奴隷に反旗を翻されたことを認識した所長の顔が、茹で蛸のように真っ赤に染まる。


「……このガキぃ! おい、ゲルト! コイツら痛め付けてやれ!」


 とりあえず自分は動きたくないため、横にいる部下に命令を下す所長。しかし、その部下から返事がない。疑問と共に目を向ければ。


「…………ま、こんなもんか?」


 小柄な銀髪の少女が立っている。細い右腕は青く輝く雷鳴を纏い、すぐ側にゲルトが時折痙攣しながら倒れ伏している……ように所長には見えた。けれども、頭が状況を理解するのを拒否していた。

 長い白銀の髪が揺れ、真紅の瞳が所長を射る。たったそれだけのことで、肥えに肥えた所長は床にへたり込んでしまった。自らの体重で腰を痛めてしまったらしく、丸い顔をしかめている。


「よう、おっさん。お前がここの所長か?」


 その言葉に、丸々と太った悪魔はただただ頷くばかり。威厳も何もあったもんじゃない。蛇神は冷笑を浮かべ、所長の襟首を乱暴に掴んで、そのまま揺さぶった。所長から情けない悲鳴が漏れる。


「ガ、ガキが何様のつもりだ! 何をしてるか分かってんの……ぶへあっ!?」


 手始めに小うるさい豚を殴って黙らせる。どうやら、こいつはここまできても状況が分かっていないらしい。上に乗られ、顔面を殴られ続けている今も、隙有らば反撃しようともがいている。


「この豚野郎。質問にも答えねえ癖に、ブヒブヒ鳴いてんじゃねえ。いいか、死にたくなかったら素直に俺の言うことを聞くんだな」


 氷で生み出した短刀を首元に押し当ててやると、それだけで所長は顔を青くして黙り込んだ。ミズガルズは満足そうに頷いた。


「お前は今から全ての牢を開け放って、全ての囚人を解放しろ。出来ないとは言わせねえからな」


 ミズガルズがそう言った途端、所長の顔が醜く歪んだ。唾を飛ばして彼は激昂する。


「なんだと、貴様ぁ! そんなことが出来るわけ……」


 少年は黙って氷の刃をぐっと押し付ける。所長の肌が切れ、鮮血が流れ出る。同時に肌を刺すような冷気が漂い始めた。倒れ伏す巨体の周囲の床が次第に氷に覆われていく。先程からガチガチと鳴り響く音は、所長の震える歯が奏でている。

 蛇神と所長の視線が合う。哀れな悪魔は恐怖に目を見開き、息を飲み込んだ。あまりに冷たく、そして鋭い真紅の双眸。血の色に染まった瞳に睨み据えられ、所長の身体は無意識の内に震え出す。

 ……本当に殺される……。生物としての本能が所長の中で主張し始める。このままでは間違いなく死ぬ。一瞬で殺されてしまう。言う通りにしなければ命は無い……。


「わ、わわ、分かった。だから、こ、殺さないでくれぇ……!」


 結局、所長は恐怖に勝てなかった。



◇◇◇◇◇



 薄暗い闇に包まれた独房。本来は一部屋に一人の囚人を入れるはずだが、何もかもがずさんなこの強制収容所では、一部屋に七、八人の囚人たちが押し込められている。それもほとんどが無実の魔族たちだ。

 虚ろな目をした彼らが牢の中から見つめる先、そこには小麦色の肌の悪魔族の女がいた。彼女は身に付けていた衣服を全て剥ぎ取られ、恐怖と屈辱のために泣き叫んでいる。そんな彼女の頬を叩いて黙らせているのは看守たち。腐りきったバルバストル家の後ろ楯があるのを良いことに、日々好き勝手に振る舞っている外道共だ。

 看守たちは女の髪を掴み、冷たい床に押し倒す。腰に吊り下げた武器さえも放り捨て、外道共が女の身体に群がる。響き渡る下卑た笑い声。薄暗い闇の中、それは途切れること無く、どこまでも反響し続ける。鉄格子の向こうにいる悪魔たちにはどうすることも出来ない。どうにかしたくとも、どうにも出来ないのだ。鉄格子には強力な魔法が掛かっている。無理に抜け出ようとすれば死ぬのだ。だから、彼らには何も出来ない。今日も見るしかない、同胞が腐った獣たちに壊されていくのを。


「……あれ……?」


 その時、一人の悪魔が異変に気付く。自分たちを閉じ込めている鉄格子。それは既に壁の役割を果たしていない。恐る恐る触れる。すると、もうそこには魔法が掛かっていない。

 一体、何が起きたのか? 囚われた悪魔たちは驚きを隠せない。そして、その驚きは次第に怒りの感情へと変換されていく。今や、彼らは自由の身なのだ。今まで蓄積された鬱憤が向かう先は当然……。


「……この糞野郎共がああああ!」


 何の前触れも無い、囚人たちの突然の反乱。武器まで投げ捨てて女に群がっていた看守たちは何一つ抵抗など出来なかった。髪を掴まれ、引き倒される。怒号と蹴りが上から浴びせられ、また別の者は壁際に追いやられて、何度も殴られていた。

 収容所内のありとあらゆる独房の魔法が解除されていく。囚人たちは喜びの雄叫びを上げて、収容所のあちこちへと雪崩れ込んでいく。看守たちも対抗したが、多勢に無勢だ。虐げてきた者たちは虐げられてきた者たちに打ち倒されるばかり。

 普段からたるんでいた看守たちでは、自由へと突き進む元囚人たちを抑えきることは出来なかった。強制収容所陥落の始まりだ。



◇◇◇◇◇



 贅を尽くした所長室では、丸々と太った悪魔が氷の枷によって、壁に張り付けられていた。この豚のような悪魔、名をジャルマーと言う。実に情けない姿を晒しているが、一応この部屋の主である。

 怒りに燃えるジャルマーの瞳が睨む先、余裕の表情を見せるミズガルズがいた。彼がジャルマーを脅しつけ、強制的に全ての独房の魔法を解除させたのだ。ちなみに囚人たちの脱獄を防ぐためのその魔法は所長の許可無しでは解くことが出来ない代物である。

 ジャルマー所長は悔しさのあまり、ぎりりと唇を噛んだ。今頃、収容所内は大変な騒ぎになっているだろう。全ての独房から全ての囚人を解き放ったのだから、きっと看守たちよりも数は多いはずだ。ただでさえ飽和気味だったのだ。囚人の数はそれはもう凄まじいものだろう。この収容所は既に終わりだった。

 今までもこれからも当たり前だと思っていた裕福な生活が失われてしまう。そのことがジャルマーには許せなかった。この許しがたい状況を生み出した原因となった少女……いや少年を思い切り睨み付ける。こいつは一体何者なのか。ジャルマーはあまり良いとは言えない頭を必死に働かせ、眼前の不届き者の正体に迫る。

 少なくとも悪魔族には見えない。角も無ければ、尾も見当たらない。蝙蝠のような羽もどこにも無い。だからと言って、人間とも思えない。そもそも魔界に人間はいないはずである。


(くそっ、さっぱり分からん……ん?)


 歯噛みしていたジャルマーは異変に気付く。自身を拘束している氷の枷が溶け始めて、緩んできているではないか。二人の侵入者はまだ気付いていない。ジャルマーは醜悪な笑みを浮かべ、力任せに枷をぶち壊した。

 拘束から解放されたジャルマーはそのまま室外のベランダへと走り、更にそこから飛び降りる。落ちた先には都合の良いことに池があり、溺れかけた以外にジャルマーにダメージはない。濡れ鼠のようになった彼は急いで池から這い上がると、近くに見える海岸まで猛ダッシュで駆けていった。


「リリアーヌ! ここで待ってろ!」


 呆然としていたミズガルズも、ようやくそこで動き出す。逃がしてなるものか。今まで私腹を肥やしていた豚野郎を放り捨てておけるはずがない。最低でも五発はあの土手っ腹に蹴りを入れてやらないと気が済まない。

 ミズガルズはジャルマーと同じように、池めがけて飛び降りた。飛沫が収まり、視界がはっきりし始めた時には、既にジャルマーは小型の釣り船に乗って、沖へと繰り出していた。進行方向を見るに、本土のバチェの港へと向かっているに違いない。そうはさせるか。


「また、服がおじゃんになるなぁ……」


 憂鬱になりながらも、少年は身体の力をするりと抜いた。目映い光が辺りを飲み込む。今こそ本来の姿に戻る時だ。



◇◇◇◇◇



 必死でオールを漕ぎ、船を動かし続けるジャルマー。彼はただ前だけを見据えて進んだ。前方にはあちこちから黒煙の上がるバチェが見える。あとはあそこへ逃げてしまえば良いだけだ。

 額に汗をかきながらジャルマーはほくそ笑む。生憎、船はこの一隻しか置いていなかったのだ。あの憎たらしい銀髪野郎も生意気なサキュバスも追っては来れまい。自然と笑い声が漏れる。

 彼はどこまでも自分本位で気楽だった。囚人たちが解放されてしまった今、残された収容所の看守たちのことなど知ったことではないし、ましてや囚人たちのことはもっとどうだっていい。富は失ったが、それも一時的なことだ。この戦乱の世、財を築くやり方など腐る程にある。


 そんなことを考えていたせいか、彼は何者かがひっそりと近付いてくるのに気が付かなかった。音も立てずにそれはやって来る。船のすぐそばの海面に大きな影が現れた時には、既に何もかもが遅かった。


『随分とゆっくりなんだな。そんなに余裕があるのか?』


 ざあっと海面が盛り上がる。見上げるような大きさの大蛇が姿を現した。鱗は眩しい白銀色、鋭い瞳は鮮血を思わせる真紅。冷たさを感じさせる程に獰猛な血色の双眸がジャルマーを射抜く。当のジャルマーは最早動くことが出来ない。何か魔法をかけられているわけではない。ただ圧倒的な恐怖がジャルマーの精神を支配する。彼は船を漕ぐことすら忘れていた。


「て、てめえ……まさか、さっきの銀髪のガキ……?」


 大蛇はくつくつと笑う。それだけで震えながら発した問いかけの答えを察するには十分だった。かつてない窮地に追いやられたジャルマーは何も行動に移せなかった。当たり前である。今の今まで、戦闘は全て部下任せ、自分は安全な所で指示を飛ばす生活をずっと送ってきたのだから。戦い方など、まるで知らないのだ。だから、彼が死に際に唯一出来たことは相手に向かって汚い悪態をつくことぐらいだった。


「畜生! よくもやってくれたな……! だがな、俺はただじゃ終わらん! 俺を食いたかったら食ってみろ、このクソ蛇め! 中から貴様の腹を掻き切ってやるわっ!」


 息は荒く、目も異様にぎらついているジャルマー。だが、相対するミズガルズは冷めたものであった。


『何を寝ぼけたこと言ってんだ? お前みたいなほとんど脂肪で出来てるようなヤツなんかカネを貰っても食いたくないわ。俺に腹を壊せって言ってるのか?』


 言うが早いが、蛇神は大剣のごとき尾を振り上げ、小船を真っ二つにした。最早船としての意味を成さない残骸は、当然ながら沈んでいく。板切れにしがみつく肥満体の悪魔は喘ぎながらやけくそ気味に叫ぶ。


「言いやがって、このくそったれが! 殺すなら殺せ! クソ蛇があ!」


『……じゃ、遠慮なく』


 クソクソ言われて、実のところ苛ついていたミズガルズは、プカプカとアホみたいに浮かんでいる脂肪の塊に思い切り噛みついた。鋭利な毒牙が突き刺さる鈍い音、それに鼓膜をつんざくような悲鳴が天に放たれる。

 しばらくの間、噛み続けた後、毒牙を抜く。ジャルマーは巨体をガクガクと痙攣させ、両目を限界まで見開いていた。口の端からは血の混じった泡が垂れ流しになっている。肥満体の悪魔に残された時間はあとわずかだろう。すぐに命の灯火は消えるはずだ。もう聞こえていないだろうが、蛇神は言った。


『……まぁ、革命の始まりみたいなもんだ。俺がいて運が悪かったな、おっさん』


 向こうに見えるバチェの街からは不気味な黒煙といくつもの火柱が立っていた。

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