いざ、救出へ
貧困に喘ぐバチェの街の地下。そこに反体制派の住民たちによる広大な隠れ家があった。網のように複雑に張り巡らされた隠れ家には、圧政から逃れてきた者や、親を失った子供などが溢れているのだ。彼らの最終的な目的はただ一つ。現在バチェに君臨するバルバストルの一族と腰巾着である支配階級の貴族たちを追放して、やがては自分たちの手で街を、いや国を治めることだった、
けれども、それは言うまでもなく容易なことではない。戦乱の時代において、一般市民たちが自由を勝ち取ることは至難の技だ。もっとも、下剋上の時代でもあるからチャンスがどこにも無いというわけではないが。
そうした下剋上を目指して、地下に潜った悪魔たちは皆驚きに目を見開いていた。何せ、彼女だけはと逃がした少女が舞い戻って来てしまったのだから。しかも、見知らぬ者を引き連れて。
彼らには、その謎の人物がか弱い女にしか見えなかった。背中にまで伸びる長髪などは、まさに女のそれだ。けれど、胸を隠そうとする様子が全く無いことから、男のようにも思える。とにかく不思議だった。
少女はその不可思議な人物が自分たちの救世主だと言った。悪魔たちは一斉に首を傾げ、困惑する。どう見たって、その救世主は人間にしか見えなかったから。悪魔族特有の角も、翼も、尻尾さえも見当たらない。容姿は人間離れした美しさだが、やはりどこからどう見ても人間だ。少なくとも悪魔族ではない。
得体の知れない部外者を前にして、悪魔たちがざわつき始める。恐怖と混乱が辺りを包む。初めは小さかった囁きがどんどん大きくなってきた時、再びリリアーヌが高く叫んだ。
「皆、聞いてよ! 彼、本当に凄い魔物なんだから! きっと、びっくりするよ!」
その一言で、一斉にミズガルズに注目が集まった。興味深そうな視線がザクザクと刺さる。逃げ出したくても逃げ出せない少年は、その場に座り込んだ。裸の男を見ることがそんなに楽しいのか? 少年はそう叫びたいくらいだった。
一人の悪魔が見かねたように、どこからか長い布切れを持って来た。お世辞にも上物とは言えないだろう。生地の色は、高級感など微塵も感じられないくすんだ灰色。その上、所々穴が開いていたり、糸がほつれていた。それでもミズガルズは文句を言わずに、身体に巻き付けた。ざらざらとした生地が肌を撫でた。
「いまいち状況が分からないが……。リリアーヌ、その方を客室までお連れしてあげなさい。私も後で行く」
布切れを持って来てくれた男性悪魔の言葉に頷いたリリアーヌは、「行こう」と言うなり、ミズガルズの腕を掴んで、客室へと向かって行った。
◇◇◇◇◇
蟻の巣の如く広がる市民たちの地下の隠れ家。その一角に設けられた小さな客室にリリアーヌとミズガルズはいた。客室の壁は土が剥き出しで、部屋の真ん中に簡素な木製の机と椅子がある。実に物寂しい部屋だ。
扉も何も付いていない部屋の入り口に先程の男性悪魔が現れた。今は既に暖かい服で身を包んでいるミズガルズに長い布切れを渡してくれた悪魔である。なかなか男前であり、温かみのある茶褐色の髪を短く切り揃えていた。
彼はリリアーヌを見て笑いかけた後に、今度はミズガルズの方に顔を向けた。悪魔とは思えぬ程に優しさ溢れる瞳だ。
「私はヨアン。ここの代表者を任されています。……あなたの名前を聞いてもよろしいですか?」
少年はわずかに迷いを見せたが、黙っていても仕方のないことなので、小さく答えた。
「えーと、俺の名前はミズガルズって言います……知っているかもしれませんが」
おずおずとヨアンの顔を伺う。悪魔は目をぱちぱちさせて、心底驚いているようだった。小声で何やら呟いている。
「まさか、かつて時の魔王を打ち倒し、魔界を統べた蛇神様で……? しかし、何故今になって姿をお見せに? もしや、この大陸を再び統治されるつもりですか?」
「いや、そんな目的はなくて。まぁ、ただのちょっとした事故みたいなものかな、ここに来たのは」
魔界の統治だの何だのと、ヨアンはだいぶ勘違いをしていたので、ミズガルズは下手くそな言い訳を並べて急いで訂正した。あくまで目的はリリアーヌの母親を助け出してあげることだ。魔王の座に就くことではない。大体、ミズガルズに国の統治や政治など出来るはずもなかった。
微妙な雰囲気になったその場に、元気溢れるリリアーヌが割り込んできた。ヨアンにミズガルズと出会った時のことを、それはもう楽しげな様子で熱弁していた。よほど興奮しているのだろう。瞳はきらきらと輝き、頬は薄く朱に染まっている。
「でねっ! ミズガルズ様、超優しいんだよ! あたしのママを助け出してくれるって!」
ヨアンが目を見開いた。銀髪の少年は思わず苦笑する。ヨアンの驚きぶりは致し方ないものだろう。リリアーヌの母親を救い出すということは、強制収容所を襲撃するということだ。それはバチェを支配するバルバストル家や貴族たちに宣戦布告を叩き付けるのと同じである。
「まぁ、ササッとやって来るよ。一度中に入ったら、あとは油断してる頭を倒すだけだから」
そういうわけだから、収容所の近くまで送ってくれと言う少年のことを、ヨアンは唖然として見つめていた。これは夢なのではないかと彼は思っていた。可愛がっていた淫魔の少女が連れて来たのは、伝説の魔物を名乗る少年で、更には圧政に苦しむ自分たちの仲間を助けてくれると言うのだ。まさに夢のような話だった。
ヨアンは身体が汗をかき始めているのを感じながら生唾を飲み込んだ。妙に緊張してしまい、喉がいつも以上に乾くのが分かった。それでも、彼に選択肢は残されていない。ここで目の前の少年に賭ける以外には、この地獄にも例えられる状況から抜けるチャンスは無いだろうから。このままズルズルと地下で生活を続けていたところで、何も変わりはしない。
「……承知しました。私がお送りします」
◇◇◇◇◇
バチェの街の沖合いに小島が浮かんでいる。街とは長い石橋で結ばれており、行き来することが可能だ。けれども、その島に自ら渡ろうとする者は、わずかな例外を除けばほとんどいないはずだ。何故なら、島にある強固な建物こそが、悪名高い強制収容所なのだから。
その石橋の中程に二人の少年少女が佇んでいる。妖艶さを醸し出すワインレッドの髪を指でいじっている方が、淫魔の少女リリアーヌ、白銀の長髪を潮風にたなびかせているのはミズガルズだ。
「……にしても。ヨアンのヤツ、すんなりと俺のこと信用してくれたな。今の俺はどう見たって人間なのに」
「んー、少なくとも人間とは思われなかったんじゃない? だって、魔界に人間なんて元々いないし」
軽く答えるリリアーヌは少し震えている。見据える先にあるのは、自らの母親が囚われている強制収容所。複雑な思いに違いない。気が気でないはずだ。
「……恐かったら、外で待ってて良いんだよ? 俺、一人で……」
「嫌よ! あたしだって、一緒に行く!」
力強く返してきたリリアーヌに、ミズガルズは一瞬気圧された。そして、蛇神は笑いながら言うのだった。
「……よし。じゃあ、皆を助けに行かないとな!」




