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邂逅

 とある日、いつもと何も変わらない日々が流れる王城で、まだ幼い姫君がある貴重な花を欲しいと言い始めた。王国の自然を学んでいる時に図鑑でその存在を知ったらしく、それからというもの国王である父にはもちろん、使用人や騎士団の人間にまで取ってきてくれるように頼み込み出した。だが、城の皆は小さな王女の気紛れなど相手にしなかった。国王は忙しいから、の一言。他の者も、それは貴重な植物だからとの理由でやんわりと断った。そこでバルタニア王国の小さな王女が最終的に頼ったのは……。


「お姉ちゃん……。皆ね、わたしのお願い聞いてくれないの。しっし、って追い払われちゃうの。お姉ちゃんなら、このお花取ってこられる?」


「うむ! 私に任せるといい!」


 歳の離れた姉、第二王女のエルシリアだった。元々、運動神経が良く活発的な彼女にとって、妹のそんな頼み事を聞くのは朝飯前なことだった。花が生えている場所は王都から程近い。個人的に行動する時におあつらえ向きな、二人の信用できる部下もいる。それにこの依頼は、エルシリアにとって願ってもないものだった。溺愛している妹の願いを叶えてあげられるのだ。嬉しくないはずがなかった。


 もしもの時の為に、王国騎士団の副団長であるヒルベルトと、王国魔道師団の若きホープであるダミアンを呼び出し、彼ら二人を強引に丸め込んでエルシリアは出発した。目的地は早朝に城を出れば、夜には帰って来ることの出来る場所だ。それに魔物があまり現れない地域でもあった。エルシリアにとって躊躇する要素はまるで見当たらなかった。



◇◇◇◇◇



 照りつける陽光の下、エルシリアたちはただただ固まっていた。目に映る光景が信じられず、まるで想定していなかった事態に彼女らはおおいに焦り始めた。なにせ、まさに今から降りようとしている場所に、巨大な蛇がいるのだから。それも半端な大きさではない。滝壺のほとりでとぐろを巻くその姿は、凄まじい存在感を見せつけていた。三人はただただ圧倒されて、言葉も出せなかった。


「姫様、どうするんですか?」


「……何を?」


 静かに答えながらも、エルシリアには分かっていた。ダミアンが言っているのは、花を取りに下に降りるのか、やめるのかということだ。もちろん、引き返した方が良いのだろう。あのような大きな蛇を万が一起こして争いになったところで勝てるはずがなかった。たった三人の脆弱な人間など、尻尾に弾き飛ばされて終わりだ。地面に強く打ち付けられれば、人間は死ぬのだ。呆気ないぐらい簡単に。


「……私は取りに行くぞ。エミリアの期待に応えてあげたいのだ。起こさなければ、起こさなければ大丈夫だろう……」


 それでもエルシリアは止まらなかった。慕ってくれている小さな妹に任せろと言った以上、後には引けなかった。今から自分がしようとしていることが場合によっては妹を悲しませる結果になるかもしれないと王女は薄々分かっていたが、彼女の意地が正常な判断を邪魔した。愚か以外の何物でもないだろう。しかし、良くも悪くも彼女は真っ直ぐな性格で、一度決めたら物事をなかなか曲げられなかった。


「ひ、姫様ぁ! 危ないですって!」


「エルシリア様! 一旦、引き返し……」


「いいからっ!」


 心の内では馬鹿だと自覚しながら部下の言葉を無理矢理に遮って、エルシリアは縄梯子を握り崖の縁に立つ。下から風が吹き上げ、彼女の頬を冷たく撫でた。大きく息を吸い、エルシリアは静かに目を閉じた。言うまでもなく、心を落ち着けるためだ。


 ダミアンとヒルベルトの制止の声を無視し、彼女は少しずつ縄梯子を降りていく。もちろん、生身ひとつで飛び降りれば命に係わる大怪我をするだろうが、縄梯子さえ使えばそれほど降りるのが困難な崖ではない。……そこに想定外の大蛇さえいなければ、だ。窪地の底で眠りにつく白蛇は、大蛇という表現が陳腐に聞こえるほどの大きさだった。その迫力たるや、動かずにただじっとそこにいるだけで、ひしひしと迫り来るものがあった。


 ――大丈夫だ。落ち着いて一歩ずつ降りていけば、何も問題はない。静かに行って、花を摘んで帰ってくればいいんだ。


 縄梯子を握る手が小刻みに震える。重い鎧も、彼女の体力を奪う。どうして脱いでから降りなかったのかと、自らの過ちにエルシリアは唇を噛んだ。今更、そんなことを考えても仕方がなかった。心臓は早鐘を打ち、手には汗が浮く。それでも、一度決めたことは絶対に最後まで貫き通す。エルシリアはそういう性格だった。特にそれが家族のことであれば尚更だった。


 その時だった。一匹の大きな羽虫が、岸壁を覆う苔の中から這い出て羽を広げて飛び立った。低く重い音を響かせながら、羽虫は丁度エルシリアの顔のすぐ前を飛んだ。縄梯子を降りている最中のエルシリアの目の前を、だ。その羽虫は大型だが毒も無く噛むこともない大人しい生き物だったが、エルシリアはいきなりのことに驚いてしまった。あっ、と思った時にはもう遅い。彼女の両手は縄から離れ、焦りのあまり両足も外れてしまう。不幸なことに、まだ地表からかなりの高さがある場所だった。地面に身を押し付けたヒルベルトがとっさに太い腕を伸ばしたが、王女がそれを掴むことは出来なかった。


 ただ、落ちていく。背中から、頭から……。エルシリアは恐怖のあまり、叫ぶことも出来なかった。宝石のような涙の粒が目尻からこぼれていった。大切な妹に、花を持って行ってやることが出来なかった。それどころか悲しませることになってしまった。彼女が死ぬことで、ヒルベルトもダミアンも重い処分を下されることになるだろう。王女は今更ながら己の軽率さを呪い、悔やんだ。エルシリアの心中に後悔の渦が生まれて、全てが飲み込まれていく。全てが……。



◇◇◇◇◇



 エルシリアが空中に投げ出されたその時、動き出した者がいた。ヒルベルトでもダミアンでもない。ミズガルズだ。彼が偶然目を覚ましたのは、エルシリアにとって奇跡に近い幸運だった。今のミズガルズの中身は……一般的な倫理観を持つ元人間だ。昼寝から目を覚まして気づいたら、人間が崖から落っこちようとしていた。そんな状況に出くわせば、自然と助けなければと思ってしまうもの。事実、蛇神の身体は頭で考えるよりも先に動いていた。


 虹色にきらめく白銀色の胴が空を切った。本能の動きか、大蛇が獲物を締め上げる時の様に、ミズガルズはエルシリアのそばまで素早く身体を伸ばし、くねらせたその身体で彼女を上手く受け止めた。王女は少し身体を打ったようだったが、地面に激突することだけは避けられた。


「けほっ、げほっ」


 苦しげな咳き込みが少女の口から漏れた。蛇神は慌てて地面に身体を滑らせ、すぐにエルシリアをそっと優しく降ろした。彼女は地面にへたり込み、騒々しい音を出しながら銀色に輝く鎧を次々と外していった。それでもまだ、苦しそうに咳を続けていた。


『……悪かった。その、上手く出来なかったかも……』


 申し訳なさそうに身体を揺らす蛇神を見て、エルシリアは何も言えなかった。ただただ、その姿に改めて見惚れていたのだった。

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