狼との出会い
……それは深い闇の中にいた。周囲は全て、漆黒の闇。光はもちろん、色も匂いも音も無い。どれほど目を見開いても、その視界には何も映らない。最早、自らの身体がどこにあるのか、どうなっているのか。それすらも知ることは叶わないのだ。
咆哮を上げたくて、その者は口を精一杯広げた。けれども、何の声も出て来ない。まるで、身を包む忌まわしい闇に吸い取られてしまったかのように。
自慢であった雄叫びさえ上げることが叶わない。だが、その者は落胆はしなかった。落胆などという感情は、とっくのとうにどこか遠い場所へと消えていた。既に何百、何千回と試したことなのだから。
もどかしい、もどかしくて、どうかしてしまいそうだった。どうにも出来ないことは分かっていたが、その者は必死になって身を捩る。忌まわしき封印から逃れたかった。逃れなければならなかった。己を封じた人間共への復讐が目的ではない。そんな愚かしく、下らないことなど、もはやどうだって良いのだ。
きっと、人間共は分かっていない。もうすぐ世界に異変が起こることを。それは崩壊の始まりだ。世界は闇に包まれる。悪意が満ちた、裏切りと憎悪の蔓延る世界に変わってしまうだろう。そこに楽園は無い。少なくとも人間たちにとっては地獄と同義の場所だ。
長く見積もっても、あと一年。早ければ残された猶予は半年。いや、もしかしたらそれよりもずっと、ずっと短いかもしれない。世界が地獄へと変貌するまで、残りの時間は少ない。
囚われし者にとって、人間などはどうだっていい存在だった。どうなろうとも構わない。死に絶えてしまおうが、生き延びようが、どっちでもいい。ただ、闇の中でもがくその者にも、世話になった者たちがいる。エルフや妖精の一族、その他諸々の魔物たち。彼らもまだ気付いていないかもしれない。ならば、伝えなければ。そうしないと、全てが手遅れになってしまう……。
(……この忌々しい封印さえ、無ければ……!)
もう数え切れないほど思い、望んできたこと。今までに無いぐらい、その思いが強く強く沸き上がってくる。脱け出したい、外に出たい、もう一度真っ青な大空の下を駆けたい……! こんな暗黒の中で、命が尽きるのを待つなど嫌だ!
(…………! これは……?)
その時、闇に閉じ込められた者は確かに感じた。凄まじく大きい力だ。今まで、このような強い魔力を感じ取ったことはない。思わず身震いしてしまいそうな、巨大な力だ。いったい何者なのか。
恐怖と同時に、一筋の希望が現れる。どんな魔物なのか分からないが、この力の持ち主ならば、封印を解くことが出来るのではないか。束縛された状況の中、僅かに残った力を振り絞って、その者はどこの誰とも知れない魔物へと叫びを放った。
……ここから! この戒めから解き放ってくれ!
◇◇◇◇◇
白い砂漠の上、魔物同士の情報交換が行われていた。片や伝説の炎竜、片や年老いた大サソリである。
相変わらず尻尾を地面にくっつけているサソリ……イスマエルは興味深そうにイグニスの話に耳を傾けていた。彼は生まれてからほとんどの時間を広大な洞窟内で過ごしてきたので、外界の事情は知らないのだった。
反対にイグニスは洞窟の成り立ちやら、今までやって来た冒険者たちの話を聞いていた。すぐ近くで大人しくしていたカルロスとリューディアが空気同然になるぐらいには会話に夢中になっていた炎竜だったが、突如動きを止めてしまった。
訝しげにするイスマエル。試しに炎竜の足を突いてみるが、何の反応も返って来ない。さすがに黙っていられなくなったイスマエルが口を開こうとした時だった。
『我を……戒めから解き放って……くれ』
鈴の音のように響いた声。リィン……と余韻を残し、空間に溶けるかのように消えてしまった。本当に短い間の出来事だったが、その場にいた者たちを混乱させるのには十分だった。
カルロスは、目に見えて驚いていた。両の瞳を見開き、手は既に剣に触れている。リューディアに至っては、恐怖心からか涙目になって、オロオロしている。仮にも竜なのに。
「な、なに? い、今の何なの!?」
怯えたリューディアがカルロスの後ろに回り、ぴったりくっついた。男とは明らかに違う柔らかい身体の感触に、三十路一歩手前の冒険者の胸は高鳴った。
(落ち着け! 落ち着くんだ、俺!)
必死に無表情を保つ。鉄の仮面を被るのだ。相手は年端もいかない幼女で、しかも水竜で、欲情するなんて有り得ない。あってはならないことだ。そう、あってはならな……。
「……こんな状況で我慢なんて無理だああああああああああ!」
「え、ええ!?」
そのような空気の中、ただ一匹、イスマエルだけが落ち着いていた。取り乱す様子は全く無い。じっと動かず、何かを考えているようだ。首を傾げたイグニスが尋ねる前に、大サソリが一際高く叫んだ。
『今のは、まさか……フェリル様が呼び掛けてきたのか……?!』
唐突に飛び出したフェリルという名前。リューディアとカルロスには聞き覚えが無く、「誰、それ?」とでも言いたげに、きょとんとしていた。一方で炎竜はその名を知っていたようだ。
『フェリル……? その名は確か、かつてこの島を治めていた魔狼族の女王のものじゃないか? 何故、そんな大物がこんな洞窟にいるんだ?』
自らもかなりの大物であることは棚に上げておき、炎竜は大サソリに詰め寄った。暑いらしく、大サソリは一歩引き下がった。端から見ると、竜が格下の魔物を苛め倒しているようだった。
『話すから、そんな迫らんでくだされい』
オホンと咳払いを一つしてから、イスマエルは静かに語り出した。
◇◇◇◇◇
事の始まりは今から四百年ほど前。ミグリア島を根城にして、勢力を誇っていた魔物の一族がいた。闇を思わせる漆黒の毛並みをした、美しい狼の魔物……魔狼族だ。一族のほとんどの者が好戦的な性格で、人間をも獲物の一つとして見ていた彼ら。
当時のミグリアの王は大変苦労し、ついには強国アスキアの騎士たちの力を頼った。そうしなければ、自分たちが魔狼族に討ち滅ぼされ、ミグリア島が魔物の楽園になってしまうからである。それは当時のミグリアの王も黙っていられない問題だった。
アスキアの騎士たちは剣の腕も魔法の技術も素晴らしく、激しく抵抗する凶暴な狼たちを次々に打ち倒していった。元々、魔狼族は絶対数が少なく、ミグリア島に一族のほとんどの者が集まっていたので、全滅は時間の問題だった。
そんな絶望的な状況の中、最後まで孤軍奮闘の戦いぶりを見せていたのが、魔狼族の長、女王フェリルである。
他の仲間たちより身体が大きく、魔力も豊富だった彼女は、アスキアの騎士相手に奮戦した。が、それも虚しく、彼女は帰らずの洞窟の奥深くに未来永劫封印されてしまったのだ。
それが今からおよそ四百年前の出来事。帰らずの洞窟の魔物たちも、魔狼族の女王を助けようと、果敢に騎士たちに襲い掛かったが……大体が良い所無く敗れ去っていった。まず第一に、魔狼族たちでさえ敗れた騎士たち相手に、魔狼族よりも弱い洞窟の魔物たちが勝てるはずがなかったのだが。
『……なるほど。そんなことがあったんだな。で、イスマエルも人間と戦ったのか?』
『え、ワシですか?』
ビクッと震えた大サソリは忙しなく身体を揺らした。しばらくそうしていたが、不審げに見つめてくる炎竜の瞳に耐えられなくなったのか、開き直り始めた。
『ほ、ほら! ワシは頭脳派というヤツでしてな! この優れた頭を使って、懸命に応援してたのですぞ!』
自分は頑張りましたよ……的なアピールなのだろうか。精一杯尻尾を振り、二つのハサミをカチカチと鳴らし、老いたサソリが必死で愛嬌ある動作を繰り返している。
頭脳派なのに応援しかしなかったのか……。そんなごもっともな突っ込みは、あえて言わないでおき、炎竜は辺りを見回した。これからどうしようか……。仲間とはぐれたり、服を無くしたり、挙句の果てには封印された魔狼族の女王が助けを求めてきたり。
(助けに行きたくないわけじゃない。だが、ミズガルズとははぐれたままだし、この先どれだけ進まなくてはならないのか……)
イグニスの心の中を見透かしたかのように、イスマエルが言った。
『貴方ほどの強大な竜様なら、信用出来ます。フェリル様の所へ今すぐ案内して差し上げまする』
突拍子も無く、あっさりと放たれた一言に全員が驚いた。他の魔物たちが戦っていた最中、脇から応援をしていたような、自称頭脳派のよぼよぼサソリに、道案内などが出来るのだろうか。それ以前に、道案内など任せて良いのか? イグニスはともかく、リューディアとカルロスは胡散臭げな表情を作っている。
『皆の衆、聞いて驚くのじゃ!』
ハサミと尻尾をピーンと張り、何やら得意気な様子の大サソリが、しゃがれた声で叫んだ。
『ワシは! 転移魔法が使えるのじゃ!』
砂漠に沈黙が降りる。そりゃそうだろう。サソリの魔物がそんな繊細な魔法を使えるなんて、そう簡単には信じられない。
漂う微妙な空気を察したイスマエルが、昔、妖精族に教わったのじゃ、と昔話を披露してくれたが、やっぱり彼以外の全員は信じられない様子だった。
『ならば、実際にお連れしよう!』
そう言って、大サソリは呪文を紡ぎ始めた。相変わらず、年老いたしゃがれ声だ。すると、目を疑うことに、冒険者たちの足元に光り輝く魔方陣が広がり始めた。大サソリの唱える呪文が終わりに近付くにつれ、その輝きも増していく。心配になったカルロスが口を開こうとした瞬間、一際強い光が彼らを包み消した。
◇◇◇◇◇
炎竜が瞳を開けた時、そこに飛び込んできたのは虹色の輝きを放つ氷柱だった。首を動かして周囲一帯が氷で覆われていのを認識すると同時に、段々と辺りに漂う冷気を感じ始める。炎の竜にとっては、なかなか場違いな場所だ。
『炎竜様、あそこですぞ』
大サソリのイスマエルがハサミで指し示す方向、その先に大きな氷の台があり、一本の細いものが刺さっていた。イグニスは慎重に近寄っていく。そうすると次第にそれが何なのかが分かった。
……剣だ。氷の台座の上に古びた一振りの剣が刺さっている。物言わないそれは、確かな存在感を発していた。
『ワシでは力が弱すぎて、その剣を抜くどころか触れることも出来ませぬ。ですが炎竜様ならば……』
イスマエルの言葉を受け、炎竜は前足で剣に触れようとした。刹那、剣の周囲を結界が覆った。紫電が音を鳴らし宙を走るが、炎竜は無視して剣を掴んだ。結界の放つ紫電と炎竜が纏う火炎がぶつかり合う。強く抵抗するかのように激しく明滅する結界だったが、ぶつかり合いを制したのは炎竜の方。
一際高く竜の咆哮が響き、所々刃の欠けた剣が引き抜かれる。乾いた音を立てて、古き剣は氷の台座から落ちていく。静寂が辺りを包んだかと思うと、まさにその氷の台座に幾つもの筋が入り……澄んだ音と共に砕け散った。
『……長かった。久方ぶりの外だ……』
燦めく氷の破片の中から現れた者、それは闇色を着た美しい魔狼。大雑把に見ても、普通の狼の三、四倍はあるだろう。毛並みは良く、艶々と光り輝いていた。気怠げに辺りを見回した魔狼の鋭い双眸が、炎竜の姿を捉えた。そこに驚きが生まれる。
『……そうか。貴方が封印を解いてくれたのか。……礼を言う』
美しい黒色の巨狼が頭を下げる。意外と照れ屋な竜はゆるゆると首を振って誤魔化した。魔狼族の女王フェリルはそれを見て笑い、実に穏やかな声音で尋ねた。
『私はフェリル。かつて魔狼族の長だった者だ。貴方の名は?』
『イグニス。見ての通り竜族だ。よろしく、魔狼の女王よ』
ほう、と、魔狼の長は感嘆の溜め息を漏らした。黄金色の瞳が大きく見開かれた。ヒゲがピクピクと跳ね、大きな尾が忙しなく揺れる。興奮を隠せないらしい。
『……何と。予想以上に大物だったな。貴方のことは私ももちろん知っているぞ、炎竜イグニス』
改めて頭を下げたフェリルとイグニスの間に、カルロスが割って入った。とりあえず彼としては早く洞窟から抜けたかったのだ。魔物にとっては平気でも、人間には寒すぎる。
それに人間でなく魔物同士だとしても、男女が穏やかな雰囲気の中で話しているのを見ていると、どうも胸の中にもやもやした気持ちが溜まってきて仕方無いのだ。しばらく女性と縁の無いカルロスである。もやもやがイライラに変わる前に、早く地上に出てしまいたい。そこで渋い表情を作って炎竜に催促するが、返ってくる返事ははっきりしないものだった。
『まだ、相棒を残しちゃってるからなぁ……』
確かにそれもそうだった。未だに離れ離れになっているミズガルズとアレハンドロ、それにフランカの居場所が分からない。彼らを置いて帰ることなど、とてもではないがイグニスには出来なかった。特にミズガルズだけは置いて行けない。単なる友人としても、戦いの相棒としても、蛇神の代わりを務めることの出来る者などいないはずだ。少なくとも、イグニスはそう信じていた。
どうしたものかと悩んでいた時、炎竜の耳に聞き覚えのある声が届いた。若い男の声だ。向こうの方から、徐々に近付いてくるようだ。その場にいた全員が、そちらへと顔を向ける。すると、くすんだ金髪頭が走ってくる。瞳の色は珍しいグレー。顔だけ見れば美男子なのに、垂れた鼻水のせいで台無しになっていた。
そのアレハンドロからやや遅れて現れた者たちを見たイグニスは安堵した。余程のことが無い限りは心配も無いだろうとは思っていたが、やはり実際に元気でいるところを見ると心の底から安心することが出来る。
『ミズガルズ! 無事で良かった!』
名を呼ばれた蛇の神は、『おう』と短く返事を返した。いささか疲れているようだ。全身が濡れている……きっと色々あったのだろう。炎竜は今は深く聞かないことにした。
『役者が揃ったようですな! それでは、ワシが皆さんを外にお連れしましょう!』
大サソリのイスマエルが、しわがれた声で高らかに叫ぶ。自然と皆が彼の周りに集まった。達成感溢れる炎竜、解き放たれた魔狼、まだ年若い水竜、安堵の溜め息をつく冒険者、鼻水を垂らした貴族の青年、疲労困憊の様子の蛇神。……そして、相変わらずうつむいたままの少女。彼ら全員を目も眩むような光が包み、そして消えていった。誰もいない大洞窟の最奥に残されたもの、それは最早役目の無い古びた剣だけであった。




