王国の姫君
深く、緑豊かな森の中を三人の男女が突き進んでいた。先頭を行くのは甲冑を身に付けた金髪の少女。十代中頃と思しき、なかなかの美人だった。彼女の後ろを付いて行くのは二人の男たち。一人はまだ年若く、フード付きの黒いローブを着込み、右手には杖を持っていた。中性的な顔立ちで、薄茶色の髪は長い。彼の隣を歩くのは、威圧感溢れる騎士だ。黒の短髪に、刀傷のついた厳つい顔立ちをしており、まさに猛者といった雰囲気だった。腰に差された剣は幅広く、剣帯に付いた細かな傷が年代物であることを語っていた。
「姫様、目的地はまだなんですかぁ? もうその辺の花で妥協しませんか?」
「いや、駄目だ! ダミアン、お前は分かっていないな。我が妹、エミリアの願いなのだぞ! そこらへんの花で良いはずがなかろう!」
姫様と呼ばれた少女は、ローブの青年ダミアンの提案をきっぱりと拒絶した。青年が密かに溜め息を吐き、騎士がそれを慰めていても、少女は気にする素振りすら見せなかった。鼻息荒く、森の下草に足を取られながらも彼女はズンズンと先を進んで行った。
彼ら三人が歩いている森を含む周囲一帯を国土として治めるのは、バルタニアという王国だ。軍事、学問、文化……あらゆる面で秀でた大国である。金髪の美少女エルシリアはそのバルタニアの第二王女であり、後ろの二人ダミアンと騎士ヒルベルトは彼女の護衛だった。しかし、何故こんな森の中を一国の姫君が歩いているのだろう。例え、魔物がほとんど出ない森だとしても、危ないことに変わりはない。
「いいか、ダミアン、ヒルベルト。この先にエミリアが欲しがっている花の生息地があるからな。深い窪地らしいから縄梯子を用意しておいてくれ」
エルシリアには幼い妹がいる。バルタニアの第三王女であるエミリアだ。好奇心旺盛な年頃の妹姫は城の書物か何かで知った希少な花を姉にねだった。それはこの森の固有種で、その中でも生育している場所が限られていた。数少ない生育地が「蛇神の洞窟」と呼ばれる大洞窟の入り口に当たる窪地だった。蛇神の洞窟の手前は巨大な窪地になっていて、長い梯子を使わなければ降りることができない。だが、森と隔離されたためか、窪地の底には珍しい植物や昆虫が生きていた。それらの珍種を採集して密売しようとする者も中にはいたが、たいていは失敗に終わった。それは森全体がバルタニア王国の保護管理下に置かれているのと、そこが神域とされているからだ。王国では森の密猟者には神罰が下るとまで言われていた。
「そういえば、蛇神の洞窟には言い伝えがありますよね。やばいぐらいデカい怪物がいるって。ねえ、ヒルベルトさん? 聞いたことありますよね?」
「もちろん。この国の人間なら誰でも聞いたことがある。だが、まあ……ただの伝説だろう。見たこともないしな、そんな化け物……って、エルシリア様。歩くのがやけに早いですが、怖いのですかな?」
緊張感の欠片もない二人の部下にエルシリアは振り返った。ガチャガチャと鳴る甲冑はよく見るとサイズが合っていなく、少女は甲冑を着ているというよりむしろ甲冑に着られていると言った方が正しかった。お世辞にも強そうには見えず、何より彼女の膝頭は微妙に震えていた。
「こここ、怖がっているだと! この私がか! そんなもの、い、いい、いるわけないであろうが。よくある作り話に決まっている!」
どうにも説得力が無かったが、ダミアンとヒルベルトはあえて突っ込まなかった。わざわざ話をややこしくする必要はない。実を言えば、二人の護衛は早く用事を済ませて王宮に帰りたかった。もちろん、そんなことを主君には決して言わないのだが。
それ以降、無言になった一行の視界が急に開けた。深い森を出たと思った途端、彼らの目の前に深い崖が広がった。向こうの方には数本の滝が流れ落ちていた。彼らは長いこと歩き、ようやく蛇神の洞窟の手前に着いた。轟々と流れる滝の近くから崖下に降りるのは疑いようなく危険だった。当然、彼女らは水の流れから離れた場所から底に降りることにした。窪地の底までは深く、下に行くには縄梯子が必須だった。とてもではないが人間が生身のまま飛び降りることのできる高さではなかった。
エルシリアはヒルベルトから縄梯子をひったくると、それを崖の際に根付いた木の幹にしっかりと縛り付けた。何回か強く引っ張って、抜けないことを確かめた。そして、いざ崖下に向かって放り入れようとしたところで。
「――――ッ!」
彼女は縄梯子を手にしたまま、ぴしりと硬直してしまった。そんな危ない場所で何をもたついているのかと、ダミアンが面倒臭げに王女に歩み寄った。ヒルベルトも多少面倒そうにしていたが、わがままな主に何を言われるか分からないので、諦めた様子で近くに行った。
「エルシリア様。いったいどうなされたのですかな? ……エルシリア様?」
ヒルベルトはぎょっとした。エルシリアの顔が青ざめていたからだ。額や首筋に汗が浮き出ている。歯の根も合っていない。かちかちと震えている。まさか、森の中で知らぬ間に毒虫に刺されていたのだろうか。そうだとしたら、何故気づけなかったのか! ヒルベルトは己の不注意を呪い、焦りを募らせた。だが、彼の焦燥は姫君の言葉で杞憂に終わった。
「……ヒルベルト、ダミアン。あれは……いったい……?」
エルシリアの震える指が指す方向。そちらを向いて、二人は思わず息を呑んだ。彼らの心を支配したのは恐怖か、それとも驚嘆か。どちらにしろ、心臓を鷲掴みにされたような気分だったに違いない。そこにいたのは、いてはいけないものだった。
「冗談だろ……。なあ、ヒルベルトさん」
ダミアンの渇いた声が漏れる。一行の遥か眼下には白い神が横たわっていた。