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水竜と悪党

 ケネス・キャロウ。それはティルサの街に住む大方の人間が耳にしたことのある名前だ。王都の裏社会を取りまとめるその男は今、かつてないほど困っていた。

 大量の幻覚性薬草の取引の際に、第三勢力に襲撃された時よりも。敵対組織が雇った殺し屋に腹を刺された時よりも。真夜中に密輸品の武器を運搬していたら、魔物の群れに襲われた時よりも。過去に経験したどんな修羅場よりも今、ケネスは頭を悩ませていた。


「我は! ……イグニス様のところに戻りたいのだ……ぐすん」


 ケネスが朝起きて居間のカーテンを開けてみたら、屋敷の庭に迷子の女の子……しかも水竜がいたのだ。これには強面のケネスも大変困ってしまった。相手はちびっちゃい子供だ。まさか、怒鳴り散らすわけにはいかない。ただでさえ、半べそをかいているし。


「あ~、良いか? お前、こないだの水竜だよな? あのド田舎村の。……俺のこと覚えてっか?」


 なるべく優しい声音で、ケネスは水竜の少女に尋ねた。入れ墨だらけの大の男が戸惑いながら、小さな幼女を相手にしている様子は何だか……不思議だ。


「……覚えてる。イグニス様の非常食の一人だろう」


 非常食と来やがった、非常食と。思わず口元が歪んだが、ケネスは必死に我慢する。ここでキレてはいけない。怒ったらそれは負けを認めたようなものだ。寛容な大人の態度を見せてやらなければと彼は必死に我慢した。そして王国中に悪名を轟かせる男は全てを許す女神の如く柔和な笑みを作った。


「俺は非常食じゃない。そもそも食い物じゃねぇ。……まぁ、その前に。勝手に俺んちの庭に入ってたよな? 何があった?」


 水竜の少女リューディアは、涙でぐしゃぐしゃの顔を下に向け、意外にも素直に事の顛末を話し始めた……。



◇◇◇◇◇



 蛇神ミズガルズがサネルマに連れ回されて、一日中外出した翌日。朝になっても帰って来ない相棒を心配したイグニスが「探しに行く」と言って、出て行ったのが今朝のこと。

 急ぐ彼に、リューディアは当然付いて行った。宿を飛び出し、あちこちを探し回り、人波に揉まれ……。気付いた時には、リューディアはイグニスを見失っていた。三人ともバラバラになってしまったわけである。

 ここで大人しく「隠れ家亭」に戻ることが出来れば良かったのだが、生憎リューディアはそこに戻る道のりすら分からなかったのだ。そうして見事に迷子になり果てたということだ。


「高い所から探そうと思って。建物の屋根の上を歩いてたら……落ちちゃって」


「おいおいおい。どう考えても屋根の上はおかしいだろ……」


 つまり、この少女は人様の家の屋根を伝って来たらしい。ケネスには、まず屋根に登るまでがキツいと思えるのだが。そこは水竜。ひ弱な人間とは違うということだろうか。

 そこでふと、ケネスは気付いた。リューディアの視線がある一ヶ所に注がれていることに。ここは客室なのだが、少女の視線は机の上の焼き菓子に釘付けになっていた。もう、これでもかというぐらいの目つきで彼女は菓子の山を見つめていた。

 ケネスは向かい側に座る少女の方へ、そっと焼き菓子を差し出した。食後のおやつにする予定だったが、まぁ良しとしよう。


「良いぞ、食って」


 小さく頷き、黙々と食べ始めるリューディア。そんな彼女を見て、ケネスはゆっくりと言った。


「この後俺は外に行くんだが……ついでだ、一緒にイグを探してやる」


「ほ、本当か! 助かるぞ、人間!」


「人間じゃなくて、ケネスと呼べ」


 ゆっくり席を立ち、部屋から出て行く大男。その後ろを、菓子の食べかすを口の周りに付けたリューディアが追いかけた。



◇◇◇◇◇



 目を見張るほど広大な屋敷から、ケネスとリューディアが出て来た。屋敷の全景を見るなり、水竜の少女は感嘆の声を漏らす。周囲の家の倍はあるだろう。門の作りもしっかりしている。


「にんげ……ケネスは何を生業にしてる? 家がとても大きい……」


 少しだけ尊敬の色を覗かせる水竜の双眸が、屋敷の主に向けられた。彼は太い腕を組んで、ほんの数秒考え込んだ。


「……まぁ、胸を張って言えることじゃねぇのは確かだな」


 リューディアは幼子らしく首を傾げるが、ケネスは曖昧に笑うだけ。細かく説明する気は無い。純粋でな子供に聞かせるような話ではないからだ。

 頭の中の疑問と格闘しているらしいリューディアに一声かけて、ケネスはさっさと歩き出した。とりあえず今は赤髪の青年を見つけないといけない。


「あれ、ケネスさん。どっか出掛けるんスか」


 門のそばにたむろしていた男たちがケネスに気付いた。その中の一人が、間の抜けた声をかけてくる。彼らはただ路上でフラフラしているだけのように見えるが、それは正しくない。ケネスの屋敷の警備を兼ねているのだ。


「おう。迷子の送迎だよ」


 ポカンとしている警備員たちに背を向けて、水色の髪の少女と一緒にケネスは行ってしまった。





 水竜の少女が隣でるんるん言いながら歩いている。その横を肌の黒い大柄な男が歩いている。まるで保護者みたいに。道行く人々から刺さる何か言いたげな視線に、ケネスは胃が痛くなる思いだ。せめて、腕の入れ墨だけでも隠すように長袖の服にすれば良かった……。そう思っても遅い。深く考えずに家を出たのが悔やまれた。


「なぁ、リューディア。イグとはどこではぐれた?」


 そう聞いても、リューディアは首を横に振って「分かんない」の一点張り。困ったから、一旦宿に戻るかと言えば、更に激しく首を横に振る始末。ケネスは本当に途方に暮れていた。さっきから色んな人間に聞き回っているが、さっぱり情報無し。イグニスもリューディアを探しているだろうから、すぐに再会出来たっておかしくないはずなのに。

 そのうち、二人は大きな自然公園に足を踏み入れた。ここは元々、何代か前の王が自らの妻を亡くした時に、彼女のために建てた墓だった。それが時代と共に美しい草花が咲き乱れる広大な公園となり、王都に住まう民たちの憩いの場と変わっていったのだ。

 今の暑い季節も庭園には多くの植物が花を咲かせていた。百花繚乱という言葉に相応しいその光景にリューディアも女の子らしく感激していた。彼女はキラキラ輝く瞳で、ケネスを見上げた。


「ここは凄いな!」


「……まぁな。この王都の中でも結構な名所だからな」


 あまり感情の込もっていない感じで、ケネスは呟いた。この公園に興味が無さそうだ。それどころか、少し嫌そうにも見える。そこに続くリューディアの一言が更に彼の気分を憂鬱にさせた。


「良いなぁ。ケネスもこんなに綺麗な街で生まれたのかぁ!」


 ケネスは答えなかった。再び彼は曖昧な笑みを浮かべ、はっきりとしない笑い声を上げるだけだ。大人になってから、この曖昧な笑いによく頼るようになった……ケネスはそう感じた。何か答えにくい話になると、決まってこの曖昧な笑いが出て来るのだ。

 嫌なものだと、ケネスは思っている。同時に俺の生まれた場所は確かにティルサだけど、こんな綺麗な所じゃないよ……とも。


「ケネスッ! 少し散歩する! この我に文句は言わせないぞ!」


「おいおい! イグを探すんじゃねぇのか!」


 小走りで花畑に向かうリューディアの背中を見て、ケネスは久しぶりに苦笑を漏らした。まるで、お転婆で小さな妹に手を焼いているような感覚。そう、まるで。


(昔に……戻ったみてぇだ)


 リューディアのはしゃぐ姿が「彼女」と重なる。肌の色も、髪の色もまるで違うのに。何より、種族すら違うというのに。どうしてか、あの生意気な笑顔がそっくりで。


「……あ……?」


 ぽたり、と。雫が地面に垂れ落ちた。二粒、三粒……と続く。男は向こうではしゃいでいる少女に背中を向けた。太い腕で顔をぬぐう。


「……ちっ、らしくねえ。馬鹿みてぇに暑い日だ、クソッタレが」


 鮮やかな花畑の中に、「彼女」の笑い声が響き渡ったような気がした。



◇◇◇◇◇



「……暑い」


「そりゃ、あんなに騒いでればな」


 舗装された砂利道のすぐ脇、立派に根付いた大木の下に水竜の少女が寝そべっている。隣に距離を置いて座るケネスも辛そうだった。何だかんだ言って、彼も楽しかったのだ。リューディアに付き合うのが。

 ケネスはちらりと横たわる少女を一瞥した。水竜というだけあって、暑い気候は苦手なようだ。完全に伸びてしまっている。それを考えると、炎の竜であるイグニスと相性悪いんじゃ……とも思えるのだが、言わないでおく。何しろ、相手は竜だ。下手なことを言って、機嫌を損ねたくなかった。


「リューディア。この先に池があるんだ。行ってみっか?」


「……竜に戻って、水浴びして良いか?」


「駄目に決まってんだろーが」


 がっくりと項垂れながらも、リューディアは立った。結局、行く気らしい。自分から言い出したことなので、ケネスも立ち上がる。二人して、服に付いた汚れを叩き落としていたが、リューディアの藍色の双眸が砂利道の向こうから歩いて来る青年を捉えた。髪が赤い。あれは……。


「イグニス様!?」


 目にも止まらぬ速さで駆け出したリューディア。目を白黒させているケネスは置き去りである。


 突然現れた少女に驚いて立ち止まる青年はやはりイグニスだった。綺麗な赤い髪が風に揺れている。リューディアにとって問題なのは、憧れの炎竜様の横に二人の男女がいることだった。

 男……少年の方は知っている。イグニスの相棒で蛇の魔物であるミズガルズだ。だけど、もう一人の女は知らない。種族はエルフのようだ。イグニスにベタベタとくっついている姿に、リューディアの嫉妬の炎が燃え上がった。


「良かった、無事で」


 サネルマの腕を振りほどき、イグニスは少女の頭を優しく撫でる。リューディアは頬を赤らめ、嬉しそうにしていた。髪の色は全く違うが、二人の姿は兄弟にも見える。微笑ましい光景だった。


「ごめんな、迷子にさせて。宿に帰ろうか」


 笑いかけるイグニスを見て、しきりに頷くリューディア。彼らの後ろでは、サネルマがミズガルズにこれでもかというぐらい抱き着いていた。銀髪の少年は少し嫌そうに端正な顔を歪めていた。

 そんな賑やかな光景に混じることが出来ない。いや、混ざってはいけないと思う。ケネスは何とも言えぬ笑みを貼り付けて、立っていた。ミズガルズたちは彼のことを仲間だと思ってくれているはずだ。それでも、彼は動けなかった。はたして、虹色の中に黒が混ざって良いのだろうか。黒は全てを塗り潰してしまうというのに。

 ミズガルズたちとケネスでは、根本にある物が明らかに違いすぎた。ケネスにあるのは、犯罪と血と汚い富にまみれた、荒みきった日常である。普段からそれをひけらかしているのに、いざとなったら怖い。拒絶されるんじゃないか? そんなことばかりが彼の脳裏に際限無く湧いてくる。今まで考えもしなかったのに。

 そこで、ケネスは初めて気付く。自分は加わりたいのだと。虹色の中に入りたいのだと。悪党の親玉が何を言っているのだと、世間からは言われてしまうだろう。ふざけてないで早く縛り首になれ、なんて言う者だっているだろう。

 ……そういった人達の言い分は正しいのだろう。それでも、虹色の美しさを目の当たりにしてしまっては、もう戻りたくなかった。だから、彼は一歩踏み出した。


「よお、お前ら! 俺様がこの公園を端から端まで案内してやろーかぁ!?」


 ケネスに気付いたリューディアの瞳が輝く。水浴びのことを思い出したに違いない。水色の髪を揺らしながら、明るくはしゃいでいる。少女の歓声を皮切りにイグニスが、ミズガルズが、そしてサネルマが三者三様に笑った。口々に「行こう」とか「頼んだ」とか、そんな言葉が聞こえてくる。


(……この虹は、黒も受け入れてくれるんだな……)


 一筋の汗がケネスの肌を流れた。……そろそろ足を洗うべきなのかもしれない。そんな思いが彼の脳裏をよぎった。

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