いつもと違う朝
毒蛇に咬まれ、意識を失くした後、どれくらい寝ていたのだろう。床に倒れていたサネルマの指がピクリと動いた。やがて、緩慢な動きで彼女は起き上がった。まだ辛そうだが、彼女の顔色は先程より良くなったようだ。
壁に掛かった時計がサネルマの視界に映った。彼女は驚きのあまり、小さく声を上げた。噛まれて倒されてから、まだ一時間ほどしか経っていなかったからだ。
「……私の悪運もまだまだ捨てたものじゃないな」
あれから一時間ということは、まだまだ時間に余裕があるということだ。サネルマとしては、自分は朝まで目覚めないだろうと思っていたので、今の状況は奇跡に近かった。
彼女は音を殺して、ベッドに近付く。ミズガルズは相変わらず眠っていた。スースを狩る夢は見終わったのだろうか。表情は落ち着いているし、寝息もどこか穏やかだった。
「可愛いな……」
彼女は隠しようのない本心を漏らした。いくら本人が悪そうな言葉遣いをしても、生意気な態度をとっても、ミズガルズはサネルマの目に可愛らしく映った。それはサネルマに限った話ではないと思うのだ。多分、誰が見てもミズガルズは「自分を悪く見せようとして、無理している幼い少年」に映るはずだった。
はっきり言えばサネルマは蛇神のギャップにやられたのだ。人に化けている時の幼さや瑞々しさは言うまでもなく愛おしかった。ただ、エルフが少年に惹かれた理由はそれだけではないのだ。
「蛇の神、か」
それは少年の本来の姿を表すのに、何ともぴったりな表現だった。ザラフェとの国境で、巨人たちを瞬く間に殲滅したあの姿はサネルマの目に焼き付いている。きっと、生涯色褪せることはないだろう。深緑の森が一瞬にして白銀の世界となり、雄叫びを上げていた巨人たちがあっという間に氷像の群れと化したのだから。……あんな光景、忘れる方が難しい。
エルフは蛇神の本来の姿に見惚れたのだ。白く輝く鱗、暴れ狂う大河の如く蠢く蛇体、相手を死に誘う牙、そして生き生きと戦うその様子に。
あんなに美しい魔物がいて良いのかと思うほどだった。サネルマはイグニスの本来の姿を目にしたことは何度もあった。嫌がられたが、背中に乗せてもらったことも何度かある。あの時の炎竜の姿もまさに生ける炎と呼ぶに相応しく、溜息を吐くほど美しかった。だけど、今回目に焼き付けた蛇神はもっと美しかった。幼い頃から本で見聞きした魔物の姿を直接目にすることが出来た自分は何と運が良いのだろうと、サネルマは自分の幸運を噛み締めた。
「なあ、一体どっちの姿が本当のお前なんだろうな」
笑ってベッドに腰掛ける。少年はすぐそばだ。サネルマの心臓が早鐘を打ち始めた。手を出そうか、どうしようか。懲りずに迷っていたその時だった。
「……うぅん」
寝返りを打ったミズガルズの手が、サネルマの太ももに置かれた。エルフの心臓は跳ね上がった。さわさわと蠢く、小さな手のひら。一度意識してしまうと、なかなか離れられない。また、あの熱が腹の奥から這い上がってくる。サネルマは耐え難い衝動に身をよじらせた。
「お前が、そんな寝顔してるから……ムラムラしてきちゃうんだよぉ……」
さっき噛まれたばかりだというのに、再びサネルマはミズガルズに抱き着いた。彼女の辞書には反省という言葉は載っていないらしい。
欲望のままに、ミズガルズの唇を奪おうとしたサネルマだったが。開いた口から覗く牙を見ると、少し躊躇した。それでも最後には。
(エルシリア君。悪いな、いただきます)
そっと、少年に口付けをした。唇と唇が触れ合う。でも、ただそれだけだ。そこから先には行かない。そうしたら、嫌でも歯止めが効かなくなるからだ。
……本当はもっと色々やりたかったんだけどな……。
次第に暑くなってきた。それに眠たい。サネルマは今になって、寝間着の類いを持ってきていないことに気付いた。この宿屋も、そういうものを用意してくれてはいないだろう。店の主もがさつそうだったし。
プチプチと服の止め金を外していくサネルマ。すっと立ち上がると、下着以外の衣服が全て床に落ちた。形の良い柔らかな二つの山はもちろん剥き出しである。
「……お休み」
これくらいは良いだろう……と、エルフはほとんど全裸で少年のベッドに潜り込むのだった。
◇◇◇◇◇
元の世界で人間だった頃から、ミズガルズは朝があまり好きではなかった。寝起きの時は特に頭が痛いし、何だか気分が優れないからだ。例え、どんなに美しい青空が広がっていたとしても、憂鬱なのは変わらない。そして今回はおまけに慣れない酒を身体に入れた後だ。気分が悪くないわけがなかった。
「あー、頭痛い……」
常と変わらず、ミズガルズは思考がモヤモヤしたまま目を覚ましたのだが、どうしてか今朝は何かが違った。いつものように掛け毛布はベッドの下に蹴り落とされている。なのに、暖かいのだ。
変だと感じ、身体を動かす。すると、腕に何か柔らかいものが当たっているではないか。毛布……じゃないだろう。質感が違うし、第一毛布は彼の寝相の悪さの煽りを受けて下に落ちていた。
「……あっ……」
甘ったるい声が響いた。ミズガルズはビクッと飛び上がる。自分の声じゃない。そう思って顔を横に向ければ。
(はあっ!? な、なな何やってんだ! こいつ!)
エルフがいた。鮮やかな橙色の髪の毛のエルフが。しかもほとんど全裸のまま、悩ましげな表情で少年にくっついていた。彼女の上半身は裸だ。つまり、例の柔らかいのが少年に当たっている。思い切り当たっている。
堪らず、逃げ出そうとしたミズガルズだったが、そう簡単にはいかなかった。がっちりとサネルマに引っ付かれてしまったのだ。柔らかかったり、甘い香りがしたり、そのくせ力が強いんだから余計に困る。タチが悪いとはこのことだ。
「んっ……ミズガルズ……」
幸せそうに呟いて、サネルマはミズガルズの耳に優しく噛みついた。ぞぞぞぞーっと、蛇神の背中に快感だか何なんだかよく分からないものが走った。耳にかかる息が熱い。湿った舌が肌を這っている。
とてもまずいと思う。今すぐ離れるべきだとも思う。このままだと、取り返しのつかないことが起こりそうだ。ミズガルズは耳に走る快感を消し飛ばすような寒気を覚えた。
ミズガルズはサネルマから無理矢理身体を離し、枕を掴んだ。まだむにゃむにゃ言っているサネルマを、両手で握ったそれで叩いた。一度じゃ起きない。四、五回叩いたところで、やっと目を覚ます始末だ。我ながら酷いことしてんな……とは思ったのだが、仕方ないだろう。人の寝床に半裸で忍び込んだ挙句、いつまでたっても起きないから悪いのだ。
「ん~! ……あ、おはよう」
ようやく起きたサネルマ。大きく伸びなんかするものだから、形の良い胸がより強調される。
何もおかしなことなど無いかのように挨拶をかます彼女を、ミズガルズは恨めしそうに見た。こっちは女体を前にして気まずいというのに、このエルフはまるで気にしていない。
「ん? どうしたんだ、ミズガルズ?」
「どうした? ……じゃないだろぉ!? お前こそ、そんな格好で! 俺のベッドで! 何してたんだ!?」
毛布を抱え、若干震えている少年を見つめ、エルフはニヤリと笑いながら言うのだった。
「あぁ、とっても良い夜を過ごしたよ。また今度、一緒に寝ような」
少年はエルフの放った爆弾のような一言を耳にして、甲高い金切り声を上げた。
「俺に何をしたんだ!?」
悲鳴じみた声と共に、枕が飛ぶ。いつもとは、ちょっぴり違う刺激的な朝だった。




