蛇神ミズガルズ
深い、深い、深い闇が見えた。何も無い暗闇の中に、一人きりで放り込まれた気分だった。物凄く冷たい感触が、少年の全身を襲う。あまりに冷たく、彼は何も見えない暗黒の中でもがき叫んだ。早く起きなくては、早く目を開けなくては。息が苦しくてしょうがない。今すぐ起きなくては……!
『……はぁっ!』
大きな水しぶきが辺りに広がり、無数の水滴が空中に放たれる。冷たい空気で満たされたそこは、広い洞窟だった。壁一面に柔らかそうな質感の苔が生えていた。発光性があるのだろう。群生した苔は白色の淡い光を出して、洞窟内を薄明るく照らしていた。
冷えきった空間の中に、透き通った地底湖が横たわっていた。苔が発する白光が波紋の広がる湖面を照らしていた。光と影が生み出す陰影の中、一際大きい影が蠢いていた。静寂の世界にひっそりと、だが確かに存在する者。それは巨大な、あまりにも巨大な蛇だった。湖面から出ているのは、全体の内、ほんの一部だけだ。
湖面より上に現れている頭部には、四本の白く長い角が生え、光る両目は鮮血の如く紅い。口を開けば、鋸のような鋭い牙が並んでいる。特に上顎の前方に生える二本の牙は目立って長かった。際立って目立つ、その鋭く太い牙は蛇の常識に当てはめれば毒牙なのだろう。もっとも、この巨大な蛇に常識が通じるのかどうかは大いに疑わしかった。
『すげぇ……! 蛇になっちまったんだ、本当に。……嘘でも、夢でもなかった』
若々しい声を響かせる大蛇の名は、「ミズガルズ」。いつからこの世に生を授かったのかなど定かではない、神と同義の存在だった。時に災厄の象徴、時に豊穣の神、時に勝利の神……。人々はミズガルズを恐れ、敬った。神、あるいは神を超える存在として。
その大蛇が悠久の時を超えて世界に蘇った。「白神鱗」という少年の魂が入り込むことによって。今再び、動き始めたのだ。
◇◇◇◇◇
ごつごつとした岩だらけの湖岸に、ミズガルズは横になっていた。それにしても大きい。本人ですら、想像を絶する程の大きさだった。地球上の単位で言えば、優に百メートルは超えているだろう。密林に蠢くアナコンダやアミメニシキヘビなど比較にもならない。このミズガルズにかかれば、彼らでさえも丸飲みに出来るかもしれなかった。
『異世界にはこんな生き物がいたのか……』
呆然と呟くミズガルズ。苔の白光を受けて、白銀の鱗が虹色に光輝いていた。背中には、頭の後ろから尾の少し前までにかけて、金色のトゲが並んで生えていた。尾の先端に至っては、刀剣のように鋭く尖っているのが分かった。ミズガルズは長い身体を引き寄せて、凶器その物である尾を顔の前で揺らした。見れば見るほどそれは物騒な代物だった。
これからどうするか。とりあえず、そんなことをぼんやりと考える。この洞窟はかなり広いみたいだが、いつまでもこんな場所に留まっていることも出来ない。そのうちに腹も減ってくることだろう。少なくとも、ミズガルズが鎮座する洞窟内には、食物になり得そうな生き物は住んでいなさそうだった。いくらかの好奇心も手伝って、ミズガルズは外に出てみることにした。ここを出て、異世界の空を堪能してみたい。そう思うと彼の心は浮き足だった。
◇◇◇◇◇
……空を見たいというのに、蛇の目に映るのはどこまで行っても石の壁と石の天井だけだった。洞窟に広がるトンネルを延々と回り続けながら、ミズガルズは溜め息を吐き続けていた。出口が一向に見つからないのだ。まるで迷路のような洞窟だった。このまま、ずっと外に出られなかったら……と思うと、ミズガルズは嫌で仕方なかった。地下で、のそのそと暮らすなんてことは願い下げだった。それでは蛇ではなくてまるでミミズだなと、ミズガルズは苦笑した。兎にも角にも明るい空を見たいが為に、彼は動き続けた。
腐らずに洞窟内を探索していると、突然大きな空間に出た。先程まで這いずり回っていた通路と比べると、格段に横幅が大きい。顔を上げれば洞窟の天井も遥か高い場所にあった。そして、極めつけに向こうの方には一筋の光が見えた。恐らくは洞窟の出口だろう。それ以外に考えられなかった。きっと、そこから外の世界の光が差し込んできているのだ。ミズガルズは大きな興奮に包まれた。世界が呼んでいるように彼には感じられた。そう思ってしまえば、後の行動は早い。誰でも、薄暗くて湿った洞窟の中より、太陽に照らされた外の方が良いだろう。ミズガルズも例に漏れなかった。巨体を器用にくねらせながら、彼は出口まで向かった。
『……綺麗だ』
思わず感嘆の声が漏れ出てしまう程に、そこから広がる光景は美しいものだった。眼前は三方を高い台地に囲まれ、その上から幾つもの細い滝が流れ落ち、小さな滝壺を何個も作り出している。絶えず水気にさらされる台地の岸壁には無数の植物が懸命に根を張り、美麗な緑の壁を生み出す。高台に囲まれた目の前の窪地に、そろそろと這い進みながらも、ミズガルズは今までに見たこともないような景色に目を奪われていた。柔らかい下草の上を這って、滝壺の近くまで行く。すると、これまた見たこともないような蒼い小鳥が、ミズガルズの周りで歌い出した。可憐な声で鳴きながら、彼らはミズガルズの頭に止まり始めた。なんだかくすぐったくなって、大蛇は微笑ましい気分になった。こんな気持ちを抱けることに、彼は少し驚いていた。そういう気持ちとは今まで無縁だったから。
段々と心地良くなり、次第に眠気が彼を包んでいく。こんな場所に、自分を襲えるような生き物はいないだろう……。すっかり安心しきったミズガルズは、鳥たちの優しい歌に囲まれながら、しばしの休息に入った。