それぞれの思惑
ティルサの中心地、貴族の邸宅が整然と並ぶ地区の中に一際大きく存在感を放つ屋敷があった。大貴族エルストンド家のものだ。
その広大な屋敷の一室に青年はいた。くすんだ金髪に灰色の瞳。生まれた時から輝かしい将来を約束された男……アレハンドロである。
彼が唸りながら読んでいる書物は、昔の冒険家が記した古いものだ。彼のお気に入りの書物でもある。だが、今はその内容の半分も頭に入ってこない。彼が先程から考えているのは、ある一つのことばかりだ。
「炎竜イグニスめ……」
逆恨みも良いところであるが、アレハンドロはとにかくイグニスを恨めしく思っていた。だが憤怒に駆られる彼は今現在家から出ることが出来ない。何故かと言えば外出禁止令を親から突き付けられたからだ。原因は彼自身がイグニスに空から落とされてボロボロの姿で帰って来たことにある。貴族である彼の両親がどれほど取り乱しかは、想像に難くない。
「……くそっ。竜を一撃で倒せる剣なんかがあったら良いのに」
もちろん、そんな便利なものはない。そのことは当のアレハンドロだって、頭の中では分かっている。もしあったとしても、そこら辺に出回るようなものではないことも。
一度、貴族の青年は自分自身を落ち着ける為に深く息を吸って吐いた。彼は自分を四方から閉じ込めている部屋から抜け出したくて仕方が無かった。元来彼はじっと大人しくしていることが苦手なタチで、いくら豪華絢爛な部屋だろうと、ずっと本を読んでいるだけでは退屈極まりなかった。
……出たい。外に出たい。とにかく出たい。
一度そう思ってしまうと、もう引っ込みがつかなくなるもので。アレハンドロは椅子から立ち上がった。どうせ、部屋の外には見張りがついている。窓から出ようにも、下の庭を突破するまでに捕まる。そこで彼が採った選択肢は。
「屋根から逃げれば良いのさ」
備え付けの本棚を梯子代わりにして昇り、天井のある一角に手をかけた。アレハンドロがそこを少しばかりいじると、屋根裏へ続く穴が現れた。更にその中から縄梯子を引きずり出す。いざという時の逃走経路はしっかりと確保しているのである。もっとも使うのは今回が初めてだが。
「ふははははは。残念でしたね、父上。天才のボクなら、これくらい出来て当然だ」
そんなことをのたまって、屋根裏へと潜り込んでいく。生まれた時から決まっているはずの富や名声から順調に道を外れているアレハンドロだったが、彼はそんなことは露ほども気にせず、灰色の瞳を輝かせながら埃っぽい屋根裏の闇の中に消えていった。
◇◇◇◇◇
完全に落ち込んでしまったリューディアの世話をイグニスに任せた後、ミズガルズは街中を歩いていた。彼としては部屋に居づらかったのだ。異性のあんな表情を見ることなんて初めてだったし、何よりも自分が彼女を傷つけてしまったという思いが強かった。知らなかったとは言え、迂闊なことを聞くべきでなかったと、彼はしきりに後悔していた。
今更どうしようもないことを延々と考えていたミズガルズだったが、不意にその足が止まった。彼の耳に喧嘩らしき声が聞こえてきたのだ。場所は近い。向こうの方の裏路地から聞こえてくる。
少年は誘われるようにして声の出所に近づき、そっと路地裏を覗いた。なるほど、確かに喧嘩のようだ。一人の男が民家の壁に押し付けられ、首に短剣を当てられている。押し付けている方は、いかにもチンピラ風の男で、ミズガルズに見覚えはない。だが、押し付けられている方に見覚えがあるのはどうしてだろう。あれは空から落とされた、とんでもお坊ちゃんだ。
「くっ、やめろ! ボクから離れろ、薄汚いチンピラめ! 貴族にこんなことして、どうなるか分からないのか!」
「うるせぇんだよ、糞ガキ! 貴族のくせにこんなところを歩いてるテメーがわりぃんだよ」
ぐぬぬ……と、アレハンドロは言葉に詰まった。チンピラの言い分の方が一理ある。確かにこんな裏道を護衛も付けず、一人で歩いているアレハンドロも悪いだろう。いくら馬鹿でも、彼は貴族なのだから。
こいつを助けてやろうか、どうしようか。ミズガルズは正直なところ、かなり迷った。はっきり言えば、アレハンドロなんて放って置いたって良いし、そこら辺で困っていようが関係ないし……。
(帰るか)
踵を返そうとした刹那、ミズガルズとアレハンドロの目が合ってしまった。ミズガルズが「しまった」と思う間もなく。
「おい! そこの! そこのお前ー! 助けてくれ! 早く!」
「なっ? もう一人いやがったか!」
アレハンドロが叫んだせいで、チンピラがミズガルズに気付いてしまう。チンピラはアホ貴族に膝蹴りを入れて地面に転がした後、猛然とミズガルズに突進してきた。逃げる気も失せた少年はそのままわざと捕まっておく。あまりに簡単にことが運んだチンピラは嬉々として喚き出した。
「ははは! テメーもなかなか良い身なりしてんじゃねーか! 持ってる金を全部……うあちゃああああああ!」
以前にケネスを叫ばせたように、ミズガルズは指先に火を宿してチンピラに押し付けてやった。今回は指二本分だ。きっと、倍熱いだろう。実際、チンピラは動物の鳴き声のような奇声を上げて、どこかへと走り去って行ってしまった。呆気ないものである。
服についた汚れを叩き落としていると、例のアホ貴族アレハンドロがやって来た。被害が無くて嬉しそうだった。ミズガルズは思う。こいつはこうやって普通に笑っていればイケメンなのになぁ……と。
「お前はいつかの蛇神じゃないか! ボクを助けに来るなんて、気が利くな! さあ、いったい何が欲しいんだ! 言ってみろ!」
「……じゃあ、食い物をおごれ」
やっぱり、アレハンドロはアレハンドロだった。
◇◇◇◇◇
敷居の高そうな門構えの店の中で、二人の男子が飯を食っていた。一人はほぼ無言のままに、ガツガツと食い続け、もう一人の方は優雅な作法を披露しつつ、料理を口に運んでいた。ガツガツ食っているのはミズガルズの方である。アレハンドロはさすがに貴族だから、食卓での礼儀作法はしっかりしていた。
「なあ、ミズガ……じゃなかった。リン、さっきの話だと君は冒険者ギルドに登録したんだっけ?」
「まあね、頼まれたからさ」
「ふうん、そうか……。君にはあんな粗野な組織は似合わないと思うが、まあ隠れ蓑としては良いのかね。そもそもギルドという組織がどういうものか知っているかい」
いいやとミズガルズが首を振ると、アレハンドロは嬉しそうな顔をしてここぞとばかりに饒舌に語り始めた。
ギルドという組織は、ケントラム大陸のアスキアで誕生した。犯罪や魔物から身を守るための自警団が次第に規模を大きくし、ギルドが生まれたのだ。
アレハンドロに言わせれば、ギルドは巨大な人材派遣組織だと言う。冒険者というのは一種の傭兵である。依頼があれば、金と引き換えにどこへでも飛んでいく。時には複数人で魔物の狩人になり、時には遠出する貴族の護衛を担う。
「……発祥地アスキアのギルドは凄いよ。規律もしっかりしていて、まるで国直属の軍隊みたいらしい。でも…………」
……各国の、各地方のギルドはそうはいかない。少なくとも、アスキアのギルドのように張り詰めた空気が漂っているわけじゃない。地方の冒険者の多くは、普通の職にあぶれた人間たちであり、体の良い労働者である。
アレハンドロは声を小さくして続ける。周囲に聞かれないようにする為だろう。
「何よりも君らのような魔物もなれてしまうぐらいだ。急な仕事が生まれた時は僕も重宝するんだが、結構いい加減なところもあるのさ」
「……なるほどな。まあ確かにお前が言うように普通じゃない人間にも実際会ったよ」
実際のところ、アレハンドロが指摘する通りだった。ギルドは魔物を狩る側だというのに、魔物であるミズガルズとイグニスが一員に加わっているのは矛盾した話だ。
そこまで考えて、ミズガルズは目の前の貴族をちらっと見た。貴族にしては突拍子もない奇行が目立つが地頭はやはり良いのかもしれない。変人であることに変わりはないが、ミズガルズはアレハンドロに対する評価をほんの少し上げた。
「なぁ、アレハンドロ。もう一つ、聞いて良いか?」
「ん? 何だ? 言ってみたまえ」
ミズガルズは近くに巨人族の住み処がないか、聞いてみる。アレハンドロならば、もしかしたら知っているかもしれないと思ったのだ。そして、返ってきた答えはミズガルズの望むものだった。
「この国の近くで、巨人族が根城にしている場所と言ったら……あそこしかない。隣国ザラフェとの国境の深い山岳地帯だ。辺境のラジル村から南西に進めば、すぐにある。だけど、何故?」
「いや……まぁ、少しね」
ミズガルズは言葉を濁らせた。近々行くことになるかもしれないんだ、とは言わなかった。出来るなら、そんな場所には行きたくなかったから……。
◇◇◇◇◇
人で賑わう市場の中を、イグニスとリューディアは歩いていた。お互いに手を繋ぎ合っている。最初の方こそ、慣れない人込みに戸惑いを見せていたリューディアだったが、次第に落ち着きを取り戻し、今ではイグニスの横で市場の賑わいを楽しんでいた。
「リューディア。何か欲しいものはある?」
聞かれたリューディアは、少し赤らめた顔でイグニスを見た後、首を横に振る。炎竜は水竜の遠慮がちな様子に困ったように微笑んだ。見ているだけで楽しいのだろうか。それならばそれで良いのだが。
リューディアは時折イグニスのことを畏れ敬うような、同時に憧れに焦がれているような複雑な表情を見せる。そのたびにイグニスは何とも言えないじれったさを感じた。同族なのだからもっと遠慮なく主張してくれて良いのにと思っていたのだ。だが彼も長いこと生きてきた竜だ。年若いリューディアが年長者に委縮してしまっても仕方がないことは分かっていた。
(……まっ、いいか)
そのうち慣れてきたら、リューディアももっと気楽に接してくれるだろう。今はまだ緊張しているようだが。今はそれでも良いと、イグニスは思うのだ。先輩の竜として、リューディアの可愛らしい笑顔を守っていけたら……。
「……リューディア?」
笑っていなかった。さっきまでの笑顔が嘘のように消えている。どうしてなのか、イグニスにはさっぱり分からなかった。何故、彼女は悲しそうな顔をしているんだ? 何故、今にも泣き出しそうなんだ?
リューディアが見つめる先に、怪しげな露店があった。武器やら装飾品やらを売っているらしい。並ぶ品の中に、一際鮮やかな水色の鱗が見受けられた。イグニスには遠くからでも分かる。あれは本物の水竜の鱗だ。
我を忘れて走り出し、露店の前に行くと、鱗を掴んで店主に突き付けた。
「おい、店主! これをどこで手に入れた?」
無愛想な店主は一度だけイグニスを見ると、「そんなのは秘密だ」と呟いたきり、持っていた本に目を落とす。だが、店主の態度は炎竜の機嫌を損ねたようだった。突然、店主の手の中にあった本が燃え上がり、炭と化した。
当然、店主は怒り出す。濁った瞳に怒りの色を乗せて、イグニスを睨んだが、逆にイグニスの怒気に飲み込まれ、そのまま押し黙ってしまった。
「消し炭になりたくないだろう……? この竜鱗をどうやって手に入れた? 教えてくれ」
まだ死にきれない店主は、いとも簡単に吐いた。
「わ、分かった! 言うよ! これは巨人族から買ったんだよ、二十年くらい前にな! ザラフェとの国境の山に住んでる巨人族のまとめ役で、アラガンスって名前のヤツさ。だ、誰も信じてくれたことねぇけど、本当だよ!」
「安心しろ、オレは信じてやる。……情報料だ」
イグニスは縮こまっている店主に、金貨数枚を投げ渡し、踵を返した。もちろん、水竜の鱗は懐に入れて。この竜鱗はリューディアが持つべきものだ。
リューディアの元に戻ったイグニスは、彼女に竜鱗を見せる。明らかに彼女の顔色が変わった。泣き出しそうになる。こうなったら、もう十中八九間違いないだろう。
「……これは君の親のか?」
念のためにイグニスが聞いてみると、リューディアは小さく頷いた。蚊の鳴くような声で、「この匂いは絶対に忘れない」と返ってきた。その瞬間にイグニスの腹は決まった。
「リューディア。オレは急な用事を思い出した。今から宿に帰って、それからまた出て行かないと。だから……今日の散歩は悪いけど、ここまでだ」
「え……?」
戸惑うリューディアの手を優しく、だけれども強く握り、イグニスは来た道を戻り始めた。真紅の炎が瞳の中で、静かに燃えたぎっていた。




