二人きり
ミズガルズとエルシリアが長い螺旋階段を昇って塔の屋上に戻ると、そこにはケネスとカルロス、それからイグニスが見当たらなかった。何故か残っているのは、退屈そうなサネルマとセレスティナだけだった。
「あいつらなら、先に帰ったよ」
ミズガルズが何か言う前に、サネルマが膨れっ面をして言った。その顔はつまらなそうと言うか何と言うか。あまり機嫌が良くないということだけは確からしい。
「イグニスはあの冒険者と連れのバンダナ君から話を聞きたいとか言って、飛んでいってしまった。……私のことは乗せないで」
エルフは恨めしそうに青空を睨み、ぶーぶー言い始めた。「ずるい」だの「薄情者」だの「恩知らず!」だの聞こえてくる。こういうところにだけは、エルフ特有のプライドの高さが如実に現れていた。
単純に言ってしまえば、サネルマは炎竜の背に乗ってはしゃぎたかったが、にべもなく拒否されたということだった。あのアレハンドロですら乗せてもらえたのに(最後は捨てられたけど)、断られたとは。イグニスは彼女を乗せるのがよほど嫌だったのだろう。
「……置いて行かれるとはな……」
相棒にまさかの置き去りを食らい、途方に暮れるミズガルズ。何せ、ここは城の中だ。ミズガルズはいわば不法侵入したわけで、おいそれと出口から帰るわけにはいかない。兵に槍を突き付けられた挙句、翌日には地下牢の中という分かりやすい運命が待っている。それは幾ら何でもお断りだった。
「ミズガルズよ」
くいくいと袖を引っ張られ、少年が振り返れば、エルシリアが得意そうにしていた。浮かべる笑みは、清楚な王女様のそれではない。本質的に彼女はいたずらっ子なのだろう。
王女は少年の耳元に唇を寄せ、そっと囁く。その顔色が少し赤みを帯びているのは、気のせいだろうか。
「……街への抜け道を知ってる。ついて来てくれ」
身体を離し、エルシリアが手を差し出してくる。繋げ、という意味なのか。ミズガルズはほんのちょっと複雑な気分になる。なんだか、子供扱いされている気がしたのだ。
「ま、待て! エルシリア君! そういうことなら、私も一緒に……!」
「サネルマ先生は結構です!」
背後で嘆くエルフを強く遮って、エルシリアは再びミズガルズを引っ張って行ってしまった。
◇◇◇◇◇
塔を駆け降り、色とりどりの庭園を静かに通り抜ける。やがて、二人の目の前にはこんもりとした藪が現れた。建物と城壁の間に挟まるようにして鎮座している。藪の正面に建つのは、小さな墓のようだ。ミズガルズの知らない名前が刻まれてある。
「それは昔の戦争で亡くなった、若い少年兵のものだよ。勇敢に戦って死んだらしい」
そう言った後、エルシリアは墓の裏手に回り、なんとそのまま葉を掻き分けて、藪の中に入ってしまった。ミズガルズは呆気に取られるが、じっとしていたって仕方がない。王女らしくない行動を取る王女を追って、深い藪に潜り込んだ。
鬱蒼とした木々の中に広がる光景は、少し予想と違うものだった。木や下草で足の踏み場が無いだろうと思ったら、そうでもない。ぽっかりと空洞が空いていて、綺麗に刈られた芝が足元を埋めていた。真ん中には古びた井戸が居座っている。長い間、使われていないことは一目で明らかだ。
「この井戸はな、城壁の外に繋がってるんだ。城の中では私しか知らない、秘密の抜け道なんだ」
感心したように相槌を打つミズガルズに笑いかけたと思ったら、体重を感じさせない軽やかな動きで、エルシリアは穴の中へと姿を消した。ミズガルズは面食らう。焦って井戸に近づき、中を覗けば、穴の底からエルシリアが手を振りながら笑っていた。どうやら、そこまで深い井戸ではないらしい。普通に飛び降りても、よほど下手な着地さえしなければ怪我もなさそうだ。
ミズガルズも井戸の縁に手を掛け、同じように飛び降りる。小柄な身体が幸いしてか、彼は音もなく底に足を着けた。見渡せば、そこはまるで鉱山の坑道のようだった。光源はほとんどない。真上からのわずかな太陽の光だけだ。もっとも、それすら木々に遮られていて、あまり照明にはなっていない。
「じゃあ、行こうか。ちょっと歩いたら、すぐにティルサの街中に出られる」
エルシリアがミズガルズの手を優しく握る。子供扱いはやっぱり嫌だったが、エルシリアのはにかんだ姿を見ると、どうも嫌とは言えないミズガルズだった。
ティルサの中心部にそびえ立つ王宮のすぐ外、城壁の脇にこれまたこんもりと茂る木立の中から、二人の男女が現れた。一人は美しい金髪に翡翠の瞳を持つ少女……もちろんエルシリアだ。もう一人、少年というよりか少女に見えるのは、白い髪をたなびかせるミズガルズだ。長髪に木の葉が絡まっている。それも一枚じゃないから、取るのが面倒臭い。
「よし、まずはあそこに行こう。服屋だ」
すたすたとエルシリアは歩いていく。どこに入るのかと思えば、道を一本挟んで木立の向かいに建つ、一軒の古い店が目当てらしい。はっきり言って、一目見ただけでは何を扱っている店なのか、さっぱり分からない。しかもエルシリアは正面の扉から入ろうとしない。店の裏に回り、そこから入っていく。
裏口から二人が店内に入っていくと、中にいた店主は大変驚いていた。……が、エルシリアの顔を見つけた瞬間、店主は安心した様子を見せ、落ち着いた風に言う。
「なーんだ、姫様。また勝手に城を抜け出したのですか?」
服屋の女店主はころころと笑った。彼女はちょっぴり太めの優しそうな印象を抱かせる女性だった。彼女は一人で店を切り盛りしていて、よくこっそり城を抜け出てくるエルシリアと仲が良い。エルシリアは街に出る時は、まず最初にこの店に寄り、今まで身につけていた服から庶民らしい服に着替えていくのだ。そんなわけで、今回も当然ながら着替えが目的だった。
「マーサ、いつも通りなるべく地味な服を頼む」
初めての場所に落ち着かないミズガルズに向けて、「少し待っててくれ」と言い残し、エルシリアはマーサと共に奥の部屋に引っ込んでしまった。それから五分ほど経ってエルシリアが出てくるまで、女物の服ばかりに囲まれていた蛇神は、やはり精神的に落ち着かなかった。
◇◇◇◇◇
王侯貴族の着るドレスから町人の娘が纏うような素朴な衣装に身を包んだエルシリアの横を、ミズガルズが歩く。ちなみに彼が使う偽名のことは既に王女に教えてあった。何故か? それは二人が歩いているのは、ティルサの街のど真ん中だからだ。誰も道を歩く少女が、自分たちの国の王女だと気づいていない。次々と客引きの声が彼女たちに掛けられた。
「それにしても、ミズ……じゃない、リン。本当にお前は女の子に見えてしまうな。誰もお前が伝説の魔物だとは思わないだろうな」
「……まぁね。それはそれでいいんじゃないかな。バレないなら、バレないでいた方がいいし」
露店で買った青果のシロップ漬けに舌鼓を打ちながら、二人は談笑を続ける。その姿は完全に仲の良い町人の娘の二人組だ。そんなことを言ったら、片方は物凄く怒るだろうが。
人の波を乗り越えながら、ミズガルズとエルシリアは歩みを進めていく。しばらくすると、生垣に囲まれた小さな公園を二人は見つけた。ちょうどいい休憩場所になる。ごく自然な流れで、彼らは公園の中に足を踏み入れる。そこは本当に小規模な公園のようで、公園とは言っても遊具がただの一つもない。真ん中に可愛らしいサイズの噴水があり、その周りにベンチがあるだけだった。そして何より、今ここにはミズガルズとエルシリアの二人だけしかいない――。
とびっきり綺麗な女の子と、公園の中で二人きり。その状況を一度認識してしまうと、ミズガルズはどうにも心が冷静でいられなくなってしまった。元が異性と付き合ったこともない十六歳の少年なのだから、そうなってしまうのは仕方ないことだ。逆に緊張しない方が不思議だろう。
動揺しているのがバレていないだろうかと、ミズガルズは急に心配になってくる。ただでさえ白い肌なのだ。頬が赤くなったりしたら、一瞬で見破られてしまう。こういう時、ケネスのように色黒な人間はうらやましい。その前に、ケネスなら女相手に緊張するなんてことはそもそもないだろうけども。
「なあ、リン」
「な、何だよ?」
すっと、少女の艶めいた細い指が、少年の頬を撫でる。ドクンと、少年の心臓が高鳴る。そんな彼の心の内など気にせずに、少女は本物の宝石よりも美しく輝く翡翠の瞳で少年を見据えた。少年には、目の前の少女が何をしたいのか、まるで読めない。
自然と半開きになった口。少年の唇の間から、鋭く尖った牙が覗く。相手を死に誘う、猛毒の牙が。それを目にしても、少女は怖がる素振りを見せない。ほんの刹那でも噛み付かれたら、死が待っているというのに。
「その牙……。お前は魔物だ。なのに……魔物相手だというのに、どうしてこんな気持ちが湧いてくるんだろうな?」
誰の邪魔も入らない公園で、エルシリアはミズガルズに身を寄せる。とても一国の王族が街中で取るような行動ではない。ましてや、今はまだ夕方なのだ。まだ、太陽は沈まない。いつ、誰に見られるかも分からないのに。
ミズガルズはパニックになって、何も言えなかった。金縛りにあったみたいに、少しも動けない。抱きつく少女の甘い香りが、体を包む柔らかでしっとりとした感触が、彼の全てを麻痺させていた。
「お、おい、エルシリア……」
「初めて、出会った時に」
上ずったミズガルズの声を遮り、エルシリアは淡々と続ける。
「私はお前の毒に……やられてしまったのかも、しれないな……」




