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白蛇と少年

 境内の石畳の上に、少年はペットボトルの蓋を置いた。内側にはギリギリまで注がれた、ごく少量の安物サイダー。それに向かって、異様な風体の白い蛇がくねくねと向かっていった。蛇は細波もない小さな水面を見つめ、ちろりと舌を出して液体を飲み始める。


『……ふむ?』


 顔を上げた白蛇に、鱗は少し緊張してしまう。流れのままに飲ませてしまったが、大丈夫だったろうかと彼は内心で焦った。常識的に蛇に炭酸飲料を飲ましていいはずがない。今更だったが、鱗は心配になってきてしまった。多分、蛇にサイダーを与えた人間は、地球の歴史上で彼が初めてに違いなかった。


『この水は……なんというか、不味いな。舌がピリピリする』


「……ごめん。実はそれ、水じゃなくてサイダーっていうジュースなんだ。……大丈夫?」


『さいだー、というのか。毒ではなさそうだし、大丈夫だぞ。旨くはないがな』


 なるほど、なるほど、と呟きながら、白蛇は鱗のすぐ足元までやってきた。つぶらな紅い瞳で見上げられて、鱗はなんだか落ち着かなかった。まさかこの流れで咬んでくることは無さそうだったが、不安なことには変わりなかった。大体よくよく考えてみれば、まず蛇が人間の言葉を喋っていることから既におかしいのだ。動物が人間と同じ言語を操るなんて、常識以前に有り得ないことだった。やはり、この蛇はおかしい。うん、おかしいぞ。混乱した頭で鱗は独りごちた。


 そんなことを鱗が考えていると、件の白蛇は再び口を開いた。鱗の頭に不思議な声が響き渡る。澄んでいるが、どこか重々しく聞こえる声で、得も言われぬ神秘性さえ感じられた。


『うむ。何にせよ、お主のおかげで助かった。あの野蛮な生き物から救ってもらったし、異界のさいだーとやらも恵んでもらった。そこでだ。まあ、ひとつ、礼というか恩返しをしたいのだ。だが、これは無理に受け取らせるわけにはいかないものでな。お主が了承しなければ、我はそれを押し付けることはしない。急で悪いのだが話を聞いてくれるか?』


 突然にそんなことを言われた鱗の脳内は当然だが混乱気味だった。この白蛇は恩返しをしてくれるという。まるで「鶴の恩返し」のように。けれど、その中身の方がいまいち分からなかった。この白蛇は賢いようだが、どうも肝心なところを教えてくれていなかった。抽象的でとにかく遠回しな物言いだ。いったい、この変てこ爬虫類は何を言いたいのだろうか。それを知るには結局、鱗は白蛇が再び口を開くまで待っていなければいけなかった。


『少年よ、混乱するのも無理はない。我は別の世界……つまり異世界から来た者なのだ』


 もっとも、この小さいのが我の真の姿ではないがな。勘違いするなよ。そう釘を刺して、蛇は話を続ける。鱗はただ黙って、「自称」異界からの訪問者の言葉を聞いていた。


『我はその世界で神と崇められるほどの蛇であった。だが、いくら我でも与えられた時は無限ではなくてな。寿命が近くなって、我は一人、身体を腐らせながら屍になっていくことを考えるうちに次第に耐えられなくなった。そんなことは嫌だ、冗談じゃないと。……そこで我は自ら封印の眠りについた。あの美しい身体を後世まで保ってくれるための、我の身体という器に宿ってもらういわば宿主を探しに来たのだ』


 人間で言うならば、胸を張っているのだろうか。白蛇は誇らしそうに背中を反らし、チロチロと舌をしきりに出し入れしていた。鱗はそんな不思議爬虫類を見つめながら、ある考えに思い至った。……この蛇、実は凄いナルシストなんじゃないだろうか、と。彼の話を言葉通り受け取ると、白蛇は自らの身体をずっと美しいまま残しておきたいがために異世界に渡ってきたようだった。


「……で、今こうやって話してくれている状況を見ると、その宿主ってのは、まだ見つかってないんだよな?」


『御名答だ、少年。なかなか、これは良いと思える者に会えなくてな。だが、もうそろそろ時間が無いのだよ。異世界に渡るというのは実に力を使うものでな、残り三十分程でこの仮初の姿も保てなくなる。このまま終わってしまうのならば……いっそ少年。お主に我の身体と異界での生を授けて、活用して貰いたい。……しかし、それはお主の選択次第だ。首を縦に振るなら、お主はこの世界から永遠に別れを告げることになってしまうからな』


 さあ、どうする? 我は強制はしない。異界での生活が欲しいのなら、我は喜んでお主に授けよう。


 白蛇は最後にそんなことを言って、鱗をじっと見据える。彼はそれ以上もう何も言わなかった。見ようによっては可愛いと思える目で、少年を見つめてくるだけだ。自称神様の蛇を真っ直ぐ見返しながら、鱗は今の自らの状況を考えていた。異世界での命が手に入るのだという。こことは違う、こんな退屈で何もない世界とは違う場所で。もしかしたら、この出会いは当事者が鱗だからこそ、神様が与えてくれた運命のプレゼントなのかもしれない。友人など一人もおらず、教師からは嫌われ、挙句の果てには家族までいない鱗だったからこそ、神がチャンスを授けたのかもしれなかった。結局、そんなことは誰にも分からないが、今、一人の少年の運命が大きく変わろうとしていることは、紛れもない事実だった。


 ここで首を縦に、横ではなく縦に振れば。どんなに大金を積もうが買うことの出来ないものが手に入る。細かく震え、じっとりと汗ばむ右手を背中の後ろに隠し、鱗はついに口を開いた。覚悟を決めたかのように、彼は小さな蛇を正面から見据える。


「俺は……。もし、その話が本当なら、異世界で生きてみたい」


 ザアッと、一陣の風が吹いた。時間が止まったような感覚に鱗は包まれた。生まれながらの黒い髪が、風に吹かれる。そして、白蛇が高らかに笑った。


『……そうか。未練は無いのだな?』


 無い。そう一言だけ、少年は答えた。彼には何も躊躇う理由はなかった。両親は数年前に不幸な事故で他界しており、親戚付き合いもほとんど無い。父の生前の友人で、鱗が今暮らしている安アパートの大家の男だけは、少し悲しんでくれるかもしれないし、鱗という顧客を失うことで多少困るかもしれないが。


 人の間に出回る噂など、次第に薄れていき、やがては無くなってしまうものだ。例え、鱗が突然いなくなって二度と帰って来なくても、人々は気にしないだろう。たかが一人の高校生の失踪事件だ。煙のように消えて、埋もれていく。世界はそんなものは意にも介さず、回り続ける。ここで鱗がどんな返事を白蛇に返しても。それならば、賭けに出る価値はあった。


『承知したぞ、少年。では最後に……お主の名を教えて欲しい。あと、腕を出してくれ』


 何を思ったか、白蛇は差し出された鱗の腕に巻き付きながら、首元まで登っていく。この異常な状況に、鱗は妙な緊張感に包まれた。頭の先から爪先まで、やけにピリピリとした感覚が走った。心臓は経験したことが無いぐらいに激しい脈動を打ち始めていた。


「俺は鱗だ。白神、鱗」


 かすれた声で、少年は名を告げた。彼の目と鼻の先に、虹色にキラキラと光る白銀の蛇がいた。


『リン、か。では、リンよ。よく聞くのだ。我の本体はな、封印の泉の中で守られておる。次に起きた時、そこがお主の新たな生活の出発地点だ。止まった我の本体は、お主の魂を受け入れて、再び息を吹き返すはずだ』


 真剣に語り出す白蛇。そんな彼(多分、オス)の話を遮ってしまうのはどうかと思ったのだが、鱗には何が何でも聞いておかなければいけないことがあった。


「ちょ、ちょっと待て! お前の話からするとさ。よく考えると、お前の身体って寿命が残り少ないんじゃないか?」


 取り乱す鱗に、白蛇は目をパチパチさせる。ちなみに普通の蛇は、目蓋を閉じることは出来ない。これも、白蛇がこの世界の者ならざる証のひとつだろう。


『あぁ、問題ない。それでも、あと四、五千年は軽く生きる。人間のお主には十分すぎると思うぞ』


 脱帽するばかりの鱗に向かって、白蛇は更に続ける。


『それにな、リン。我はついに見つけられなかったが、我の世界には不老不死の秘草がどこかにあるという伝説もあるのだ。人間の貴族の連中は飽きもせずよく探しておるよ。もし、お主も生き足りないと感じれば、それを探すと良い。宝探しというのも案外面白いものだぞ』


 あまりにスケールの大きい話に、鱗は何も言えなかった。感動と期待と興奮がごちゃ混ぜになって、身体中で渦巻いているようだった。この蛇にとっては五千年が短いのだ。いったい、彼はどのくらいの時を生きてきたのだろうか? そう考えるだけで、鱗は楽しくなった。


『ならば、そろそろ良いかな?』


 表情の読めない蛇の顔が、鱗のことをじっと見据えている。反射的に彼は小さく頷いた。白蛇がかすかに笑みを浮かべたように、少年には思えた。


『幸ある生を祈るぞ、少年』


 視界からサッと、白蛇が消えたと思ったと同時に、鱗の首筋に熱く、鋭い痛みが走った。その痛みと来たら、あまりに強烈過ぎて一瞬で視界が白くなり、咄嗟に首元に手を伸ばすこともできないほどだった。


 ……少年よ、お主の名は今この時から、「リン」ではなく「ミズガルズ」だ。よく刻んでおくのだぞ。


 最後に白蛇のそんな声を耳にしながら、少年の意識は彼方へと失われていった。

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