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追いかけっこの結果

 ケネスはすぐさま頭を切り替えた。ぐちゃぐちゃの思考のまま、戦闘など出来るはずがない。まして、相手は伝説や物語に名を残すほどの魔物の中の魔物。油断は厳禁、常に冷静でいなくてはいけない。……とは言っても、今のミズガルズは人型だ。しかも、子供のような体型だった。細いし、筋肉とは無縁と思える肉体を持った少年でしかない。体格差ならば、圧倒的にケネスが有利だろう。

 そして、もう一つ。ケネスにとって幸いだったことは、ここがティルサの街中であるということ。数え切れないほどの人々が行き交い、しかも目の前にはギルドの建物がそびえ立つ。こんな場所で、ミズガルズが本来の姿を見せることが出来るだろうか? きっと、そんな愚行は犯さないはずだ。

 つまり、今のケネスが対峙しているのは人々に散々恐れられてきた魔物――蛇神ミズガルズではない。ただの一人の少年、それこそケネスのシマにいるような薄汚れた悪ガキどもを相手にしているのと、何ら変わりはなかった。

 ケネスは無理矢理、自分の心に喝を入れた。恐れる必要など、どこにもないのだ。相手はたかが生意気そうな子供が一人。そんなガキ相手に、ティルサの裏の支配者たる自分が引き下がってたまるか……。彼は気持ちを引き締めて、目の前の少年を睨み据えた。


「簡単に俺を殺れると思うなよ!」


 先手必勝。その言葉通りに、ケネスはミズガルズに襲い掛かった。筋肉質で大柄な体型からはとても想像できないようなスピードで、思い切り飛び蹴りを放つ。丸太の如く太い右足が、ミズガルズの顔面を目掛けて襲った。小柄な彼なら、この一発で地に沈むのは必至だった。ファイティング・ポーズもままならず、全く蹴りに反応できていなかったミズガルズだったが、ぎりぎりのところで転ぶようにしゃがみ込み、なんとかそれを避けた。

 まさか攻撃を回避されるとは思ってもいなかったケネス。予想外の事態に彼は大いに焦った。体勢を急いで戻そうとしたしたところで、地面にしゃがむミズガルズと目が合った。真紅の瞳が、ぎらりと光る。大男がまずいと直感した、次の瞬間。弾丸のような速さでミズガルズが突っ込んでくる。ケネスは身構え、思わず目をつぶった。


「………………?」


 予想した衝撃が来ない。困惑に捕われ、目を開けたケネスだったが、彼の視界からは白銀の魔物がいなくなっていた。わけが分からず、呆気にとられる。数秒間、そうしていたが、ケネスは嫌な予感をすぐに感じ取った。


(まさか――!?)


 彼は慌てて体を反転させた。振り返ってみれば、案の定だった。背後の人混みの中に消え行こうとしている銀色の長髪が見えた。ケネスは見事に騙されたのだ。


「あ、あの野郎! プライドとかねえのか!?」


 二日酔いの身体に鞭打って、ケネスは走り去るミズガルズを追い始めた。



◇◇◇◇◇



 人混みをくぐり抜け、少年は細い路地に入った。身体が思ったよりも速く動かないことに、ミズガルズは思わず舌打ちをした。所詮、鍛えていない子供の肉体ということか。息切れはまだ起きていなかったが、時間の問題だった。

 ミズガルズは念のために後ろをちらりと振り返った。すると、予想もしない人物が猛然とした勢いで追い掛けてきていた。撒いたはずのケネスだった。まさに憤怒の形相で、猪突猛進という言葉がぴったり当てはまった。


「冗談だろ!? あんなデカいのに速過ぎだろ!」


 このままでは突っ走って行ったイグニスを見失ってしまう。後が面倒になるのでそれだけは避けたかった。だいたい、イグニスも一人で先走らないで欲しいと、少年は歯軋りした。


 焦りに焦るミズガルズは路地を飛び出す。目の前には幅の広い川が流れていた。両岸は不揃いな石で整備されていた。整備から時間が経っているのだろう。水面近くの石は苔むしている。

 数人の釣り人が歩くその向こう、川岸の階段を駆け降りるイグニスの姿が見えた。更にその先には岸にへばりつくような船着き場があった。そこに停めてあった釣り船のうち、一つが動き出す。漕いでいるのはカルロスだ。川を下って、逃げるつもりらしい。逃走を図る冒険者に向かって、街中だというのにイグニスが思い切り竜の力を振るった。彼が大きく腕を振り上げた途端、カルロスが漕ぐ釣り船が燃え出した。既に周囲の釣り人たちは慌てふためいて逃げ出していた。周りを見失っている竜をどう止めるか、ミズガルズはぐちゃぐちゃの頭を必死で働かせる。


「随分と余裕だな? 何を立ち止まってんだ!」


 ケネスの大声と共に、もたついていたミズガルズは後ろから羽交い締めにされた。見た目通り、ケネスの腕力は凄まじかった。彼の筋肉質で太い腕はミズガルズの首をがっちりと捉え、少年は呼吸も出来ないほどだった。おまけに長身のケネスに抱えられた少年は爪先も地面から離れ、バランスを取ることも出来ない。

 混乱した少年はジタバタと暴れるが、ケネスが拘束を緩めてくれる様子はない。むしろ、首を絞める力はどんどんと強くなっていった。次第にミズガルズの本能がガンガンと警鐘を鳴らし始めた。彼はボヤける視界の中で死の意識を感じ取り始めていた。


(……やばい、死ぬ……!)


 大蛇は大男に気取られないように、指先に火を点した。そして勝ちを確信して笑みを浮かべていたケネスに、それを強く押し付けた。途端、けたたましい悲鳴が上がった。

 熱さと痛みに耐えられず、ケネスはミズガルズを絞めていた力を弱めてしまう。ずり落ちるようにケネスの足元にへたり込んだ銀髪の少年は、ようやく呼吸を整えることが出来て、苦しそうに咳き込んでいた。


「……畜生! てめえ、もう容赦しねぇぞ! 伝説の魔物だろうが何だろうが、関係あるか!」


 完全に怒ったらしいケネスの怒鳴り声を聞いて、ミズガルズは我に帰った。そしてすぐさま少年は大男に片手で首を鷲掴みにされ、再び宙に吊り上げられた。今度こそ殺される。恐怖に駆られたミズガルズは、考える暇もなく、ただ本能のままの行動に出た。


 ……鋭い牙を剥き出しにし、ケネスの黒くて太い腕に突き刺したのだ。セルペンスの森で、あの大きな豚に突き立てたように。鋭利な牙が硬い肉に深々と刺さった。たちまちケネスの腕から赤い血が滲み出た。


「いっ……!!」


 噛みついてから無理矢理引き離されるまで、たったの五秒ほど。怒り狂ったケネスがミズガルズを思い切り地面に振り飛ばした。少年は身体を打ち付け、しばらくもんどりうっていた。一方のケネスはふらつく足で立ちながらミズガルズを睨んでいたが、突然何の前触れもなく膝から崩れ落ちた。彼は手のひらを地に付けた。けれども、立ち上がれない。


「な、なんだ……?」


 噛まれた場所から、じわじわと痛みが広がっていく。そのうち、体全体がしびれ、立つことすらままならなくなってきた。視界は霧がかかったように霞み、不快な倦怠感が酷く感じられる。腕は大きく腫れ始め、もはや感覚がない。ハッと気付き、ケネスは悔しげに唇を噛んだ。相手は小さいとは言え、元は巨大な蛇の魔物だ。彼は完全に油断していた。


(……そうだ、蛇なんだから毒ぐらい持っていてもおかしくねえ……)


 今更気付いたところで、既に遅かった。傷口から入った毒のせいで、彼の頭は既に働いていなかった。


(……死ぬかもな)


 最後に走り去るミズガルズの後ろ姿を視界に焼き付けてから、ケネスは意識を手放した。



◇◇◇◇◇



 燃え上がる釣り船を捨てて、カルロスは必死になって泳ぐ。冷たい水を掻き分けて辿り着いたのは、川の中にポツンと浮かぶ小さい中洲だった。砂利で形成された平らな土地に背の高い草が繁り、数本の低木が根を張っていた。

 カルロスは中洲に這い上がり、低木の陰に身を潜める。だが、それも無駄な抵抗だった。直後に低木が火に包まれる。慌てて這い出たカルロスの目の前には……。


「良いざまだな、冒険者。よくも忠告を無視して、オレを怒らせてくれたな?」


 不敵な笑みを見せ、仁王立ちするイグニス。今は人の姿だが、それでも言葉で表せない凄みがあった。何せ、その正体は怒り心頭の炎竜である。恐怖を覚えるのが当然だ。


「追いかけっこはもう終わりだ」


 イグニスが一歩踏み出す度に、周りの草木が燃え出した。このまま、カルロスは中洲ごと火に包まれるだろう。冒険者は後ろに下がりつつも、死を覚悟した。次の瞬間、彼は火に飲まれ……。


「待てよ、イグニス!」


 ……なかった。小柄で長い銀髪の少年が炎竜を呼び止めた。イグニスは振り返り、相棒を見つける。相棒の蛇神は、頭の先から足の先まで、どこもかしこもずぶ濡れだった。身体をぶるぶる震わせながら水を飛ばし、大きなくしゃみを連発する姿はまるで濡れ鼠だった。そんなミズガルズを見ているうちに、イグニスは次第にカルロスに対する殺意を削がれてしまった。


「まったく、着替えなんて持ってきていないよ? ミズガルズ」


「……んなことは、言われなくても分かってるっての!」


 ミズガルズは恨めしそうにイグニスを睨む。もっとも、炎竜は何も気にしてない。大口を開けて、笑っていた。ミズガルズが次に目を向けたのは、当然カルロスだ。彼は短剣を構え、最後の抵抗を見せていた。ミズガルズはカルロスから視線を外さないまま、相棒に向けて言った。


「イグニスさぁ、俺……気が変わった。殺すのはこれ以上やめにしないか? それにお前だって平和主義がモットーなんだろ」


 イグニスは溜め息を吐いてから、肩をすくめた。だんだん、いつもの調子に戻ってきたらしい。


「オマエにそう言われたらな……。分かったよ、これ以上無駄な殺しはやめておこう」


 火で赤く染まる中洲の上で竜は笑った。彼を追い掛けてずぶ濡れになったミズガルズはずっと文句を言い続けていた。


「そう言えば、ミズガルズ。もう一人のバンダナ男はどうした?」


「あぁ、ケネスのことか? 首を絞められたから噛み付いて逃げてきた。そろそろ来るんじゃないか」


 言うと同時にイグニスが悲鳴を上げた。思わぬことにミズガルズは身を引いた。


「噛んだのか?  生身の人間を? 自分が猛毒の蛇だってことを忘れていないか!? ただの人間がオマエの牙に耐えられるわけがないだろう!」


「……そう言えばそうだった」


 少年の顔が真っ青になった。どうしよう、他人に殺すなと言っておきながら、自分で殺しているじゃないか。どうしたらいいか、ミズガルズは分からなくなる。何か、血清みたいなものはないのか。……あるはずがない。ここは少年がいた世界じゃない、どこか遠い異界なのだから。


「お、おい、ケネスは助からないのか……?」


 さっきまで殺されそうだったことも忘れて、カルロスが間に割り込んだ。絶望的な表情をしていた。


 イグニスは難しそうな顔をして言った。どんなに浅い傷だろうと、明日の朝までだろう……と。それを聞いたミズガルズは落胆した。カルロスに至っては顔面蒼白になっていた。


「……一人だけ、オレの知り合いの中に救えるかもしれない奴がいる。そいつに賭けるしかないな」


 一転、輝くような表情になったカルロスが、「それは誰だ? どこにいるんだ?」と尋ねた。イグニスはただ一言。


「変わり者のエルフさ。治癒の魔術に優れている奴でね。今は……この都の王宮にいるはずだよ」


 間に合うかな……。苦虫を噛み潰したような顔で、イグニスはそう呟いた。

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