ティルサ到着
空は橙色から赤紫に色を変えつつあった。イグニスは本来の竜の姿に戻り、ミズガルズは人型のまま荷物を持っている。服や靴、金貨や日持ちする菓子などアーマンからの餞別品だ。彼らはこれからティルサに向かって空を旅するのだが、先程からどうもイグニスの機嫌が悪い。理由は明白。空気を読まずに喚いているアレハンドロのおかげだ。
「ははははははは! 見たか、やはりボクは天才だ! たった一人で炎竜を追い詰めようとしてるぞ!」
『……オマエの思考回路は本当にどうなっているんだ? そろそろ心配にすら思えてきたぞ』
はしゃぎ立てるアレハンドロを、イグニスは首を曲げて不気味なものを見るような目で見た。本当なら彼なんて見捨てても良かったのだが、アーマンが変なものを置いて行かないでくれ、と必死になったので、三人でティルサに行く羽目になった。それからずっとイグニスは明らかに嫌そうに唸り続けていた。
『おかしい、絶対におかしい。なんでオレがこんなヤツを乗せて、飛ばなきゃいけない?』
「はは、決まっている。それはボクと貴様の間に絶対的な格の違いが……」
次の瞬間、アレハンドロが立つ地面のすぐ横から火柱が上がった。さすがにアレハンドロも一発で黙った。アーマンが後ろの方で、ハラハラしていた。木造の家だから火が怖いのだろう。
イグニスは二人が背に乗りやすいように、地面に伏せる。まず、ミズガルズが乗って、次にアレハンドロが乗った。その時だけ、イグニスが露骨に溜め息を吐いた。アレハンドロはさして気にしていないようだったが……。
『ミズガルズは分かっているだろうけど、落っこちたくなかったら動き回るなよ』
最後に炎竜は、レプラコーンの方に顔を向ける。鱗で覆われた顔からは細かい感情を読み取りづらいが、竜は服職人の妖精に優しい眼を向けていた。
『アーマン、また遊びに来るから、その時はよろしく頼む』
「あぁ、お前さんたちも達者でな」
その返事を合図に、炎竜は冷え冷えとした崖から飛び立った。
◇◇◇◇◇
誰かを乗せて飛行している時、集中しているからかイグニスは口数が普段より減る。だから、必然的にミズガルズの話し相手はアレハンドロになるわけだが……。これがまた面倒臭かった。
アレハンドロは王都に大邸宅を構える大貴族の嫡男。貴族らしく自意識は高いし、その上、相手には結構しつこく迫って来る。おまけに彼は聞き上手な性格でなく、むしろ延々と喋り続けるような男だった。
「……なあなあ、お前はいったい何者なんだ? 炎竜とは友人なのか? お前は人間だろう? 何故、魔物とつるんでいるんだい?」
アレハンドロは自分の聞きたいことを矢継ぎ早にどんどん質問してくるので、答えを返す暇も無いミズガルズは堪ったものではなかった。このままだと永遠に質問が飛んで来そうだったので、少年は貴族の青年の口を無理矢理塞いで、話を遮った。
「頼むから質問は一個ずつしてくれよ。そんなに次々聞かれたって困る。……まず俺が何者かっていうと、ただの魔物さ。人間じゃないよ。イグニスとは最近……いや前から友達なんだ」
少しの間考えあぐねてから、蛇神はそう言った。彼の頭の中でアレハンドロは既に面倒臭いやつ扱いになっていて、次にどんなことを聞かれるのか身構えていた。
それにミズガルズはアレハンドロにあまり良い印象を抱いていなかった。草原では冒険者に任せっきりで自分の手は汚さなかったし、仲間を捨てて一人だけ先に逃げたし。それに……よりによってエルシリアに下心を持っているし。
そこで黙ってくれていれば良かったのに、黙らないのがアレハンドロだった。よりによって、彼はミズガルズが今一番気にしていることに突っ込んできた。
「そんなに背も低くて弱そうなのに、正体は魔物なのか? 不思議なものだな……だって女の子と話しているみたいだぞ」
「あのな、背は関係ねーだろ! あと、お前にだけは弱いなんて言われたくねえ!」
怒鳴った拍子に、イグニスの背中から落っこちそうになった。慌てて体勢を立て直すミズガルズ。
「ところで、ボクを家まで送ってくれるんだろ? 駄賃はいくら欲しい?」
『ふざけるな。街の入り口近くに捨ててやるから、あとは自分で歩け』
間髪入れずにイグニスが吐き捨てた。それでも街までは送ってやるんだな、と思いながらも、ミズガルズは何も言わなかった。
空の旅も終わりに近づき、雲が開け、大きな街が見えてきた。バルタニアの王都、ティルサである。遠目からでもよく目立つ王宮がそびえ立ち、そこを中心にして街は広がっていた。
二人を乗せた炎竜は街を見るやいなや、高度を一気に落とした。ミズガルズが必死になってしがみついていると、いきなりイグニスは大きく身体を傾けた。強制的にジェットコースターに乗せられたようで、ミズガルズは涙目になった。そして彼がちらりと横を見るとアレハンドロは……落ちていた。それはもう、見事に空中に投げ出される。宣言通り、捨てられたのだ。
「え、炎竜ぅぅぅぅ! 貴様、覚えてろぉぉぉぉぉ!?」
空に軌跡を描きながら、断末魔は次第に小さくなっていく。イグニスは大変満足したようで、ゴロゴロと喉を鳴らした。あいつ死ぬんじゃないかと、ミズガルズは笑えなかった。
『これでやっと邪魔者が消えたよ』
ミズガルズは何も言わず、ただ心の中で同意していた。確かに……と。
◇◇◇◇◇
上空を旋回し、街からやや離れた木立の中に、炎竜は降り立った。そして人間に変化すると手際よく服を身に付け、準備を整えた。
革製の靴に、庶民が着るような茶色の地味なシャツ。一般人に扮装した二人は木立を出た。目の前に緑の草原が広がる。向こうに見える道は、街道だろう。あれに沿って進めば、すぐにティルサに着く。
「ぼちぼち行こうか、ミズガルズ」
「そうだな、行くか」
王都はもう目の前にあるようなものだ。
徐々に昇ってきた太陽の熱を背中に感じること、およそ二十分。イグニスとミズガルズはティルサの街に入るための検問所らしき場所にいた。彼らの前には、沢山の商人たちが並んでいた。街の周りは高い壁で囲まれていて、他に入り口は無さそうだ。待ちくたびれていたミズガルズに、イグニスが小声で呟いた。暇潰しに、街で使う偽名を考えようということらしい。
「なら……俺はリンでいいや。人間だった時の名前だよ」
「じゃあ、オレはカウダにしよう」
「カウダ? なんて意味なのさ?」
首を傾げるミズガルズに、イグニスは得意気になって教える。
「尻尾って意味さ。ずっと昔に、オレたち竜が使っていた言葉なんだよ。まあ、偽名なんてその場しのぎのものだから、何だっていいが」
「へぇ……。竜の言葉か」
そうこうしていると、いつの間にか二人の番になっていた。前に並んでいた商人たちは皆、既に街の中へと消えていた。二人の後ろには誰もいない。
進もうとしない彼らに、門番の催促する声が降りかかる。少し棘のある声音だ。さっさと仕事を終わらせたいのだろう。
「おい、そこの二人組。手荷物の検査をやるから、早く来い」
門番に従って、ミズガルズは素直に荷物を渡す。もとより、怪しいものなど何一つとして入っていない。予備の着替えと多少の金貨くらいだ。
一人が荷物を調べている間に、もう一人の門番がやって来る。こちらは荷物検査係より年配だ。見た目だけで判断すると、四十代くらいか。
「君らの名前は?」
早速、偽名が役立つ時がやって来た。ミズガルズは全く平静を装い、焦ることなく答える。
「俺はリン」
「オレは、カウダだ」
まさか、目の前にいる若い男たちが、最近噂になっている魔物だとは夢にも思わない門番は、淀みない動きで何かを紙に書き留めていく。そして、もう一人の若い門番がミズガルズに荷物を返した。
「リンにカウダね……ティルサにようこそ。ゆっくりしていきな」
門番たちの間を通り抜け、ミズガルズとイグニスはティルサの街に踏み込んだ。早速、市場の賑やかな声が飛び込んでくる。一般市民や観光客、旅人向けの市場だ。青果店やアクセサリーを売る店、よく分からない雑貨屋、怪しげな占い師、それから肉屋に魚屋……。品物が多すぎてミズガルズは目が回りそうだった。
「まずは宿を見つけないと」
イグニスは長い足で、すたすたと歩いていく。背の低いミズガルズにとっては、ついていくのが大変だ。もう少しゆっくり歩いてくれ、と文句を言う。
小走りするミズガルズの視界に、興味深いものが映った。イグニスが催促するが、その声も聞こえない。小ぢんまりとした雑貨店のショーケースに置かれていたのは、あるぬいぐるみ。赤いドラゴンをモチーフにしているらしい。いつの間にミズガルズの隣に来たイグニスが、何とも言えない表情でそれを見つめた。
「……これはもしかするとオレ……?」
「プッ、か、可愛い……」
小刻みに震え、笑いを堪えているミズガルズを、炎竜が睨んでいると、店の中から一人の老婆が現れた。雰囲気からして、この店の主だろう。
彼女は優しそうな目で、二人を眺めた。そこに蔑みの色はない。品物を売り付けて儲けてやろうといった底意地の汚さも見られなかった。
「この街は初めてかしら?」
イグニスが頷くと、老婆は柔らかく笑った。「では、記念にただで貰っていって」と、竜は彼女から例のぬいぐるみを渡される。ぎこちない笑顔を浮かべて礼をする本物の炎竜と、その腕の中にいる炎竜のぬいぐるみ。微笑ましい光景だった。
少々、店主と談笑した後に、二人は歩みを再開させる。客引きが色々と寄って来るが、いちいち立ち止まっていられないので、上手くやり過ごしながら市場を抜けた。
このまま宿を探して、街を歩き回るのも無駄だろう。ミズガルズは人に尋ねることにした。丁度良い所に、すっかり頭髪の抜けた老人がいた。道脇のベンチに腰掛け、日光浴をしているようだ。
「すいません。旅の者なんですけど、近くに安い宿はありませんかね? 教えてもらえると助かります」
ミズガルズは自分でも驚くほど丁寧な口調で尋ねた。老人は頭は掻いた後、思わぬことを言った。
「ほぉ、お二方は旅の方ですか。ならば、わしの宿に泊まってくだされ。広くはありませんが、値は安いですぞ」
イグニスもミズガルズも顔を見合わせる。老人の誘いは願ってもないものだった。
◇◇◇◇◇
老人が営んでいるという宿屋は、市場からあまり離れていない細い路地にあった。注意して見なければ見過ごしそうな看板と扉の前で老人は止まり、ゆっくりと押した。中から暖かい色合いの光が漏れ出る。中に入ると、小さな受付カウンターとロビーがあった。受付の若い女性が老人に気づく。
「あれ、お爺ちゃん? 客引きなんてしてきたの? 珍しいわねえ。明日は雨かしら」
「お困りのようだったからな。アンジェラ、彼らを部屋に案内してあげなさい」
アンジェラは立ち上がり、茶色のツインテールを揺らしながら、ミズガルズたちに近づいてきた。
「じゃ、お部屋に案内させていただきますね!」
懸案だった寝床も見つかり、しばらくは安心出来るかもしれない。魔物たちはほっとして顔を見合わせた。