冷たい夜
外に出れば寒風の吹きすさぶ、高い崖の上。人目につかぬようにひっそりと建てられたレプラコーンの小屋から、一人の少年が出てきた。辺りは既に暗い。夜の帳は落ち、遥か天空に星たちがその身を燃やして輝きを放ち続けている。
女のように長い少年の髪が、月光に反射して銀色に光る。ミズガルズの頬に冷気が刺さる。よほど標高が高いのだろう。セルペンスの森とは比べ物にならないほど空気は冷たかった。眠れないから気分転換のために起きたというのに、これではますます眠気が覚めてしまうなとミズガルズは思った。
こんな時に限って彼の相棒の炎竜は起きてこない。連日やって来る煩わしい冒険者から解消されて、気が緩んでいるに違いない。イグニスは夕飯を摂ったと思ったら、すぐに眠りについてしまった。あまりに気持ちよさそうに眠っていたものだから、ミズガルズも起こすに起こせなかったのだ。おまけに、レプラコーンのアーマン老人も仕事に取り掛かるべく部屋にこもってしまった。さすがに今頃はもう目を閉じて、夢の中にいるはずだ。
話し相手が一人残らずいなくなったミズガルズはこうして外に出たわけなのだが、退屈で仕方なかった。星空は確かに美しいが、ここ最近見続けたせいで少し見飽きたのも事実。イグニスのように翼があれば空を飛んで気分をすっきりさせることも出来るが、なにぶん蛇だ。飛べるはずがない。竜というのはやはり凄い生き物なんだなとミズガルズは改めて感心していた。
「王都か……」
星空の下、ミズガルズはまだ見ぬ王国の都に思いを馳せる。美しい街なのだろう、きっと。前世と大きく環境が違うことは容易に想像できた。なにせ、王国だ。王様がいて、王族たちが政治を司る国。少年が生まれ育った国とは全く違う。いや、国の話に留まらずそもそもこの世界と少年が生まれた世界は根本から異なるのだ。ここは異世界。魔法があって、剣もあり、ドラゴンが空を舞えば、どこかで魔王という存在が人間を滅ぼそうとしているような、そんな世界。
自分はそこにいるのだ、と。ミズガルズは改めて自らを省みた。退屈な人生を抜け出したいとは思っていた。今までの自分を捨てて、何か新しい生活をしたいとも思っていた。それがまさかこんな形で叶うなんて、運命というのは不思議なものだ。とても言葉や科学では説明が出来ない。歴史上に現れたどんな偉大な科学者たちでも説明できないようなことを、少年は経験しているのだ。それも、現在進行形で。
少年は胸に手を当てる。確かに心臓は動き、ほのかに暖かい体温が掌に伝わってくる。足はしっかりと地面に着いているし、風の冷たさもしっかり感じ取れる。これは夢じゃない。夢はこんなにはっきりとした感覚のあるものじゃない。こうして今、少年が感じ取っている全ての感触は、彼がそこに生きているという揺らぐことのない証しだ。
じっと佇んでいると、月に見つめられているような錯覚にミズガルズは陥った。自らと同じ白銀色の月を見返す。もしかしたら、神様は本当にいるのかもしれない。少年がそう思うほどに月は美麗だった。
そんな月を見て、ふとミズガルズはある少女を思い起こす。エルシリアだ。きっと王宮の上にも、この白い月は輝いているだろう。彼女もこの夜空を見上げているだろうか。もう真夜中で確信などどこにも無いのに、何故かミズガルズにはそんな気がしてならなかった。
(王都に行っても、エルシリアとは簡単に会えないんだろうな)
街に入れば、自分は所詮一般の身分だ。恐らく王族の彼女とは会うことはないだろう。簡単に諦めてしまうのはもどかしかったが、それも仕方がない。身分の差というものは変えようがないだろう。下手なことをすれば、それこそティルサにいられなくなってしまうかもしれないのだから。
それは嫌だった。街から追い出されるようなことは避けるべきだ。何よりも、目立ってはいけない。既にミズガルズとイグニスは、ギルドの冒険者たちを自衛のためとはいえ殺めてしまっているのだから。
……今頃は情報がギルドの本部に伝わっているに違いない。恐らくミズガルズの存在も感知されているはずだ。それにエルシリアたちはともかく、警備兵のアロンソ、フォンス、イニゴの三人とケネスにもバレているのだから。彼らが黙ってくれている保証なんて、実のところどこにもなかった。
ミズガルズは溜息を漏らして座り込み、ふと朝方の争いの光景を思い返した。あんなにも当たり前のように自然な流れのまま戦闘に加勢して冒険者たちを排除したことに、ミズガルズは自分でも驚いていた。戦っている最中、彼は内なる本能に引っ張られて動き続けていた。考えずとも自然と分かったのだ。……ここはこう動けばいい、今が敵を斬り殺す機会だ……といった具合に、考えなくても身体が先に動いた。少年は戦いの素人でしかなかったが、彼の身体は別だった。気が遠くなるくらい生き続けた魔物の身体である。そこには戦闘に関するあらゆる経験が刷り込まれていた。
考える暇も無く動き回り続けたあの戦いの最中、ミズガルズは自らの毒液を浴びせた冒険者の遺骸を目にしたのだが、あれは気分の良いものではなかった。あの時、イグニスの片翼を引き裂かんとした頑強そうな大斧は原形を留めぬほど溶解していた。
隣に横たわった冒険者の姿も悲惨だった。当然の如く、地面に投げ出された彼の呼吸は止まっていた。服は溶け落ち、身体はピクリともしなかった。自分で起こした行動の結果だといっても思い返すだけでミズガルズは気分が悪くなった。そう、今の彼は簡単に人を殺すことが出来るのだ。以前の彼とは違う。せいぜい裏路地での喧嘩が限界だった彼とは違う。
「良いことばっかじゃないんだな、やっぱり」
夜は長く、どこまでも冷たい。ミズガルズの小さな呟きは暗い寒空に消えていった。
◇◇◇◇◇
ティルサの街の一角、ギルド本部。建物内のソファの上で、カルロスは横になっていた。
心身共に疲れ果てた彼が戻って来た後、ギルドは大変な混乱に襲われた。炎竜討伐隊が一人を除いて壊滅させられたのだ。冒険者でごった返す建物には、一気に緊張と衝撃が走った。丁度、冒険者の新規登録に来ていた若者たちはほったらかしにされ、血気盛んな連中は武器を持って立ち上がった。
そんな騒乱も時間が経って、ある程度収まり、現在は夜。カルロスはふと目を覚ます。誰かが掛けてくれたのだろう。触り心地の良い毛布が乗っていた。その毛布を脇にどけて、彼はソファから立ち上がる。
寝癖が出来ていないかと手鏡を取り出して見てみれば、そこには疲れきった男の顔が。さっきまで寝ていたというのに、目の下にクマがあった。あと三年もすれば、歳が三十代に突入するカルロスだったが、自らの老けた顔にうんざりして深く息を吐いた。これでは彼女も作れないなと彼は落ち込んだ。
「外にでも出るか……」
重い足を引きずって外に出ると、冷えた夜風が肌に突き刺さる。昼は暖かいとはいっても、夜になれば関係ないようだ。
少し歩こうかと、足を一歩踏み出し、顔を上げた時だ。カルロスの視界に一人の男が映った。空気は冷えているというのに、剥き出しの男の両腕には複雑な入れ墨が見えた。街灯の柱に寄りかかっていた筋骨隆々な男はカルロスを見つけると、親しげに片手を振った。
「ケネス……? お前、どうしてこんな所に」
カルロスにとって頭の痛い幼なじみのケネスは小さく笑い、立ち尽くす旧友の手をしっかりと握った。その人懐っこい微笑を見れば、彼が裏の世界の人間とはとても思えない。
「いやぁ、カルロス。炎竜討伐に行った冒険者たちが返り討ちにされたって、聞いてよ……」
お前のことが心配だったんだと、恥ずかしそうにしながら、ケネスは言う。カルロスは嬉しさ半分、驚き半分だった。今ではギルドにも目をつけられるほどの悪党になった旧友が訪ねてくるなどとは思ってもいなかったし、まさか心配してくれているなんて考えもしなかった。
第一、今から十二年も前、ケネスたちを見限って、仲間から出て行き冒険者となったのはカルロスの方なのだから。そんなカルロスの心情を見透かしたかのように、ケネスは言った。
「……もう、昔のことなんざ気にしてねぇよ、カルロス。俺は賊を選んで、お前は冒険者の道を選んだ。それだけのことだぜ。お前は冒険者の道が正しいって、思ったんだろ?」
「あぁ……そうだ。俺は……そう思ったんだ」
ケネスはそれを聞いて、嬉しそうに笑いを漏らした。
「だったら、それで良いじゃねぇか。飲みに行こうぜ、カルロス」
今夜はやけに寒いからな。頭上に広がる星の海を見つめ、ケネスはそう呟くのだった。