それぞれの夜
王都ティルサの中心部に聳え立つ王城の一角。広々とした図書室に、本を捲る音が規則正しく響き渡る。他に音はしない。今図書室にいるのは、バルタニアの第二王女エルシリアだけだった。
ふとページを捲る音が途絶える。エルシリアの手が、ある項で止まった。彼女は見入られた様に、そこに書かれた文を脳内に焼き付けていく。
――その白銀の鱗は光を浴びれば、虹の如く輝く。真紅の魔眼は相手の動きを止め、槍のように鋭い牙の毒を一度でも喰らえば死からは逃れられぬ。地を這い進む巨躯は、凍てつく吹雪を纏い、怒り狂えば辺りは凍土と化し、黒雲を集め、天からは地獄の雷鳴を呼び起こすだろう。
ミズガルズは有史以来、最強の部類に入れられる魔物だ。だが、その情報は少ない。蛇神と呼ばれるこの魔物は謎に包まれた存在だ。今の世には、真実かどうかも分からない言い伝えしか残っていない。実物を見たという者はほとんど居らず、世界各地に伝わるのは不確かな伝説ばかりだ――。
「つまり、結局のところよく分からないということだな」
深く溜め息をつきながら、エルシリアは分厚い本から手を離した。椅子にもたれ、大きく腕を伸ばしていると、しわがれた老人の声が彼女の耳に入った。
「何かお困りですかな? 姫様」
声の主が誰だか分かっていたエルシリアは、臆することもなく首だけを背後に向けた。杖をついた白髪の小柄な男が、姫から距離を置いた所で微笑を浮かべていた。髪も髭も真っ白に染まった老人の名はペドロ。ダミアンと同じく王国の魔道師団の一員だ。齢はとうに七十を過ぎている。
「いや、何もないさ」
エルシリアは軽く笑って本を閉じた。なんとなく、ミズガルズのことを誰かに漏らしてはいけないような気がして、彼女は老人に何も言わなかった。もっとも、既にダミアンとヒルベルトから情報が流れてしまった可能性はあったが。
「そうそう、姫様。またエルストンド家のアレハンドロ殿が、あなた様の為に竜退治に向かったそうですよ。それで、結果はですね……」
「いい、いい。聞かなくても分かるから。どうせ、また逃げ帰ってきたのだろう? あんな貧弱者に竜を倒せるはずがない。草原の竜も毎回児戯に付き合うとは律儀なものだな」
ペドロの言葉を遮ってエルシリアは首を振った。ペドロも小さい肩をすくめ、「ごもっともです」と楽しそうに頷いた。この会話を当のアレハンドロが耳にしてしまったら、さぞかし大変だろう。なにせ、好いている相手に「貧弱者」呼ばわりされているのだから。知らない方が彼にとってはきっと幸せだ。
エルストンド家の嫡男アレハンドロは昔からエルシリアに片思いをし続けていた。そこには両親が企てた政略結婚の影響のようなきな臭いものは存在しない。アレハンドロはただ純粋にエルシリアのことが好きだった。しかし肝心のエルシリアからすれば、アレハンドロなど小賢しい大貴族の家に生まれたひ弱な男でしかない。彼女から見れば、そこらへんの石ころと同じくらいの存在でしかなかった。そう思われていることに全然気づいていない所が、アレハンドロらしいと言われれば、それはそうなのだが。
「よく知らないけれど、その炎竜とやらはたいそう強いのだろう?」
エルシリアはペドロに何気なしに尋ねた。記憶の限りでは、アレハンドロはギルドの傭兵を複数雇って、竜退治に向かったそうだ。流石にアレハンドロが勝てるとは思わないが、優秀なギルドの構成員たちでさえも相手にならずに逃げたのならば……その竜はさぞ強かったのだろう。
「……そうですな。炎竜と呼ばれるあの巨竜は、我らバルタニアの人間を襲うことこそありませぬが、元々、魔界にかなり近い場所に縄張りを構えており、強大な力を持っていたそうですぞ」
「待て、ペドロ。炎竜は強いんだろう? それならば、どうして魔界から離れた地に来たのだ。本当は弱かったから、逃げたのではないか?」
エルシリアの指摘に老魔道師は言葉を詰まらせる。長く伸びた口髭を落ち着き無くいじりながら、しきりに首を傾げていた。
「言われてみれば、そうですな。案外、魔界での覇権争いに敗れて、逃げてきた竜なのかもしれませんな」
まあ、それでもアレハンドロ殿には荷が重かったようですが。そう付け加えて、ペドロは意地の悪い笑みを作ってみせた。エルシリアもその点については疑いようもなく同感で、同じようにくすくすと小さく笑い出した。つくづくアレハンドロは哀れな男だった。
ふと、ペドロが何かを思い出したように声を上げた。エルシリアは不思議に思い、どうかしたのかと尋ねた。すると、老魔道師は姫が思いもしなかったことを話し出した。
「いえ。これも聞いた話なんですがの、炎竜の他に魔物がいたそうですぞ。詳しくは分かりませんが、蛇の様な魔物だったようで」
蛇の様な魔物。エルシリアは、はっとなった。そうだ、その魔物はきっと彼に違いない。先程まで手にしていた本に載っていた彼に。姫は確信し、いつの間にか本を強く抱きしめていた。
(炎竜の草原に行くなら馬がいるな)
ペドロの話を半分聞き流しながら、エルシリアはそれからずっと物思いに耽っていた。
◇◇◇◇◇
炎竜の草原に夜がやって来る。辺りは静まり、草原を撫でる風の音だけが静寂を掻き乱す。やがて、その風も止んでしまうと、最早何も聞こえない。
無音の世界の中、ミズガルズは柔らかな草の上に大きなとぐろを巻き、星空を眺めていた。一点の曇りも無い。深い墨色の夜空に散らばるのは、星という名の無数の宝石。
ダイアモンドの様な星の群れを静かに見つめていた蛇神のすぐ横に、突然バラバラと複数の丸太が落とされた。直後に大きな衝撃と共に、竜の巨体が地に舞い降りた。イグニスの真紅の鱗は深い闇に馴染んでいて、闇と一つになってしまったようだった。
真紅の炎竜は積み重ねた丸太の山に向かって、一筋の炎を吐いた。たちまち丸太の山から鮮やかな紅色の火柱が立ち上がった。辺りがほんのりとした熱気に包まれ、蛇神と炎竜の姿を淡く照らし出した。
『星がこんなに綺麗に思えたのは初めてだよ』
ミズガルズは空を見つめたまま、しんみりと呟いた。イグニスは屈強な翼を畳み、友人のそばに歩み寄る。そして躊躇いがちに問い掛けた。
『なあ、その、聞いてもいいか。今更な質問だが……人間を辞めて、後悔はしていないのか?』
イグニスの問いかけに、ミズガルズは目をパチパチと瞬かせた後、静かに頷いた。依然として、彼の心は星空の情景に囚われていた。
『……正直なところ、この世界にこうして生まれ変わるまで、俺はそんなに幸せじゃなかったんだ。割と早くに親を亡くしてね。その後は誰も俺を必要としなかったし、俺も誰一人として必要としなかったからね……別に後悔はないんだ、自分でも不思議なほどに』
ミズガルズの言葉に、イグニスは驚いた様に目を見開いた。それが理由なのか、と。炎竜は悲しそうに聞いた。蛇神はただただ頷くばかり。冷たい夜風が彼らの間を吹き抜けた。紅色の炎がわずかに揺れる。
『……人間のオマエがどういう人生を歩んできたのかオレには分からない。いちいち詮索する気もない。だが、この世界でまでそんな人生を送る必要はない』
今度はミズガルズが驚く番だった。イグニスはミズガルズに向き直り、しっかりした口調で言った。
『ここでは少なくともオレがオマエを必要としている。だから、そんなことを言うな』
言い終えると、イグニスはそっぽを向いてしまった。気恥ずかしいのか、断続的に細い炎を噴いている。きっと場の空気を誤魔化す為の癖なのだろう。分かりやすい竜だった。
炎を噴き終えたイグニスは星空を見つめ、一言だけ呟いた。その視線は夜の虚空に向けられ、どこか遠いところを見ているようだった。ミズガルズには、竜が何か遥か昔のことを思い出そうとしているようにも見えた。
『……オレは前のミズガルズが、今のオマエに体を託した理由を知っている。オレはずっと奴の友人だった。いったいどれほどの間一緒にいたことか……。そんな奴が最期に自身の後継に据えたのがオマエだ。オマエとは良い関係を築きたいし、協力したいんだ』
ミズガルズはただただ驚いて、固まっていた。竜という強大な存在が目の前にいる。それだけでも驚くべきことなのに、その竜が無条件に協力したいと言うのだ。はっきりと友人だと言ってくれたのだ。感動しないはずがなかった。例え嘘だとしても、ミズガルズにとっては嬉しかった。前の世界では、竜と言葉を交わすことなど、いくら願ったところで叶うものではなかったのだから。
ミズガルズは短く返事をして、炎竜と同じように星空を見上げた。幾万もの星たちが、蛇神を祝福しているかのように光り輝く。星が全てを照らしながら、夜は過ぎていく。
◇◇◇◇◇
夜中になっても人で賑わう、ティルサ西部に位置する繁華街。ここには幾つもの飲食店が軒を連ねる。近くにはギルドの本部が建つが、基本的には一般の町人たちで盛り上がる大衆的な地区だ。
もちろん、町人たちの他にも、ギルドの冒険者や外国から来た商人なども訪れる。あらゆる種の人間で埋め尽くされたそんな繁華街の一角。値が良心的なのと席が多いことで人気の高い酒場に、一人の男が腰を落ち着けていた。バルタニアでは悪い意味で名の知れた、ケネス・キャロウである。
トレードマークの赤バンダナはどこかに消え、酒場の灯りの下に彼は毛のない頭を晒していた。一応変装のつもりなのか、金縁の眼鏡を掛けていたが、いまいち似合っていなかった。
「あの、相席良いですか?」
壁際のテーブル席に一人座って、安酒を啜っていたケネスに若者の声が掛けられた。ケネスは顔を上げる。目の前に立っていたのは、冒険者風の出で立ちをした青年だった。幼さの残る顔で、髪はくすんだ赤茶色。きっと、まだ十代だろう。
そんな青年に対して、ケネスは愛想よく頷いた。普段は強面だが、人が変わったかのような笑顔さえ浮かべていた。素直に向かいの席に腰を落ち着けた青年に、ケネスは人が良さそうに話しかけた。
「兄ちゃん、駆け出しの冒険者ってところかい?」
目の前にいる男が町一番の悪党だということに気づく素振りすら見せずに、青年は照れ臭そうに笑う。どうやら、ケネスの図星らしい。青年はやはり恥ずかしそうに頷いて、話し始めた。
「そうなんです。まだ冒険者になったばかりでして。ギルドの先輩たちは街の中心にある高級店に行くんですけど……自分はあまり稼げてないんで」
苦笑を漏らす彼に、ケネスは酒をおごってやる。青年は店員が運んできた安酒を、有り難そうに受け取った。金縁眼鏡の悪党は、そんな青年の様子を注意深く観察する。こういう口を滑らせやすそうな冒険者の話は、色々と貴重な情報源になり得るのだ。
「手馴れてる先輩たちは良いですよ。次々と依頼を受けて、片付けて、金を得られるんですから。驚いたことに近々、炎竜の本格的な討伐にも乗り出すって言ってたし……。きっと報酬もいいんだろうなぁ」
青年の言葉をケネスは聞き逃さなかった。特に、炎竜の討伐という単語が耳に残った。ティルサの住人の一人として、セルペンスの森近くに住み着いている炎竜のことはもちろん知っていた。だが、同時に彼は怪訝に思った。件の炎竜は人を襲わないという話のはずだったが。
「……実はね、ある貴族が炎竜の首と、彼が縄張りにしている土地を欲しがってるんですよ。理由は知りませんが、依頼主はあのトラショーラス家だって噂です。それと、炎竜の他に見たこともない魔物の目撃情報もあって、いよいよギルド全体がやる気を出し始めている状態なんです」
「トラショーラス? 大貴族があの竜を討伐ねえ……。兄ちゃんは参加しねぇのかよ?」
「はは、何言ってんすか。参加しないんじゃなくて、そもそも参加できないんですよ」
やけ酒を喉に流し込む新米冒険者を見つめながら、ケネスは思うのだった。貴族の蛮行が引き起こすであろう炎竜の怒りがティルサに降りかかることがありませんように……と。