ドラ息子、現る
炎竜イグニスは無駄なことだと分かりつつも、冒険者の群れに向けて、一応は言葉での説得を試みた。穏やかな竜は何とも苦労するものだ。
『おい、エルストンド家の息子! いい加減にしろ! 今なら見逃してやるから、痛い目を見る前にさっさと家に帰れ!』
低い唸り声を上げ、イグニスはかなり怖い顔を作ってみせた。威嚇の意味を込めて口の端から紅い炎を漏らしながら、傭兵たちを思い切り睨み付けた。これで素直に帰ってくれれば良いのだが、世の中はそう上手くいかない。
傭兵の中にはイグニスの怒気に当てられて後退する者もいたが、それも全員ではない。中には、愚かと言うべきか勇敢にも武器を構え、明らかに闘志を丸出しにしている者も見受けられた。
「誰が帰るか! このアレハンドロ・エルストンド、今日こそ貴様の首を持ち帰り、愛しのエルシリア様にその力を認めてもらうんだからな!」
くすんだ金髪の美青年は馬上から王国の第二王女への愛を叫んだ。灰色の瞳には一点の曇りもない。バルタニアでも一、二位を争う大貴族の嫡男である彼の決心は固かった。
そんな愚かしい貴族の青年を苦々しく見下ろす炎竜は、いっそのこと彼を馬ごと踏み潰したい気持ちで一杯だった。だが、面倒ごとを避けたいが為に一思いに引き裂くことは出来ない。頭の悪いヤツが下手に権力を持ってしまうと大変だ。ここで言う頭の悪いヤツとは、もちろんアレハンドロのことだ。
アレハンドロは愛馬に跨がり、真紅の炎竜を睨み据えていた。自らの名声を高めるべく、そして何より愛しの女性に振り向いてもらう為にこの竜を討たなくてはならない。実に直情的な青年は本気でそんなことを思っていた。
竜と戦えば血を見るだろう。誰かが犠牲になるかもしれない。一筋縄で行かないことは間違いない。だが、それでも。
「それでも、ボクが勝つんだ!」
『オマエ、毎回、毎回、そう言っているよな!』
アレハンドロの合図で、傭兵たちの弓矢が一斉に構えられる。岩山に向かって飛来する矢には、音を立てて光る雷が帯電していた。魔術が予め掛けられているようだ。
イグニスは苦虫を噛み潰したように顔をしかめて穴蔵の中へと引っ込んだ。巨体に似合わぬスピードでミズガルズの横に滑り込んだ直後、さっきよりも大きな振動が彼らに襲いかかる。
竜が怒る暇もなく、次の矢の群れが飛んでくる。何度も何度も撃ち込まれ、止む気配はない。そのうちイグニスはいい加減黙っていられなくなった。無言のままに竜は穴蔵の外へと飛び出す。真紅の炎竜の口腔から放たれた火炎が襲い来る無数の矢を包み込んだ。比較的高位の魔法効果を持った矢を、だ。あっという間に炭と化したそれらは、パラパラと地に降り注いだ。
その光景を目の当たりにした傭兵たちに動揺が走った。彼らは皆それなりに優れた冒険者だったが故に、竜が放った火炎の威力の強さをすぐに理解した。同時に彼らの持つ経験が警鐘を鳴らし始めた。この竜はそこらの雑多な竜とは違う。悪名高い炎竜の名は伊達ではなく、やろうと思えば一瞬で自分たちなど消し炭にできるだろう、と。ここは彼が本気で怒り出す前に退散するべきだと、傭兵たちは危機感を覚え始めた。アレハンドロの馬鹿な依頼なんて、実を言えば彼らにとってどうでも良かったのである。
「アレハンドロ様。あの竜はまだ本気を出していません! 見逃すと言っているうちに引き下がりましょう! これ以上怒らせてはいけません」
傭兵の一人が懸命に説得したが、アレハンドロは聞く耳を持たなかった。素直に言うことを聞くどころか、爽やかな顔を悪鬼のごとく歪めて傭兵を睨み付けた。
「なに? 引き下がるだと! ボクは大金でお前たちを雇ってるんだぞ! 大体、今までだって一人も犠牲者なんか出ていないだろ。それに前々から王都の近くにこんな竜が巣食っているのは問題だと思っていたんだ。どうせ誰かが退治するならボクがやるさ。我が一族の株も上がるしな」
傭兵は本気で呆れてしまった。アレハンドロはまるで分かっていなかった。イグニスがわざわざ手加減をして毎回付き合っていることを。炎竜がその気になれば、アレハンドロたちなど、瞬時に全滅することを。冒険者たちはもはや限界だった。これ以上、貴族の遊びに付き合っていたら命を落としかねないとはっきり感じていた。
イグニスは動揺する冒険者たちを見下ろして、穴の縁に前肢を掛けた。鋭い爪が鈍く光った。完全に無言になったイグニスは、金色の瞳をアレハンドロに向けた。先程までの茶目っ気な様子は窺えない。底冷えするほどに冷たく、鋭い視線がアレハンドロを射抜いた。怒る竜に睨まれた彼は危うく落馬しそうになった。歯の根は合わず、カチカチと音が鳴った。
既に怒りが爆発しかけていたイグニスは、縄張りを荒らす者たちを殲滅せんとするが、あと一歩のところで踏み留まる。背後にいたミズガルズから、声を掛けられたからだ。
蛇神は炎竜に這い寄り、彼の隣からニュッと首を出した。ギルドの傭兵たちは一気にざわつき始めた。当然の反応だろう。アレハンドロから頼まれた討伐対象は炎竜イグニスだけのはずなのだから。まさか、もう一匹魔物がいるなんて、彼らは夢にも思わなかった。
『驚いてるところに悪いな。今日はイグニスだけじゃないんだ。こんなこと言うのも酷いけど、お前らじゃ勝てないと思うし、帰った方が良いよ』
血の様に赤い瞳が、アレハンドロたちをじっと見つめた。白銀の大蛇に威嚇するつもりはなかったが、そこにいるだけで大きな威圧感を冒険者たちに与えていた。傭兵の群れは押し黙り、緊迫した空気が漂い始める。
(……冒険者って、どんな連中なのかと思ったら、ただの兵隊って感じだな……)
当のミズガルズは特に脅す気もなく、初めて見る冒険者の群れをぼーっと眺めまわしていた。それに飽きると、次は夕陽に染まる平原の空に目を向けて、心ここに在らずといった様子で佇んでいた。そんな彼のやる気の無さを悟ったのか、イグニスが足の指先で軽く突いた。既に激情は冷めてしまったようだった。
『ちょっと、ミズガルズ。もう少し怖そうにやってくれよ。追い返せないだろう』
『イグニスって、竜なのに本当に平和主義なんだな』
炎竜と蛇神が呑気に戯れている間、アレハンドロに雇われたギルドの傭兵の一人、カルロスは食い入るようにして蛇神を見ていた。カルロスはベテランの傭兵でもあり、また一流の冒険者だった。幾度の死線を潜り抜け、数多の魔物と戦ってきたカルロスだったが、これほどまでに存在感のある魔物は見たことがなかった。眩しいぐらいに輝く白銀の鱗に覆われた大蛇。しかも、名高い炎竜と対等に話している。一体、どんな魔物なのか。彼は見当もつけられなかったが、ひとつだけ確かに言えることがあった。
――あれは、牙を向けてはいけない存在だ。
カルロス以外の傭兵たちも同じ考えのようで、お互いに顔を見合わせていた。いくらギルド所属の実力者たちだからと言っても、大型の魔物……炎竜と謎の大蛇の両方を相手にすることは出来ないだろう。いや、はっきり言えば炎竜一体だけであっても勝利を収めることは困難なのだ。本来、人間が戦って良い相手ではないのである。
「嫌だ、嫌だ! ボクを馬鹿にするんじゃない! ボクはなぁ……」
アレハンドロが全く空気を読まずに駄々をこね始める。ある意味、貴族のドラ息子らしい行動だったが……、彼が文句を言い終える前に凄まじい熱風が草原全体を通り抜けた。夕陽の色に染まる草花と傭兵たちの頬を焼け付く様な空気が撫でていった直後、彼らの背後で巨大な爆発音が響く。固まっていた彼らは、それでようやく動き出した。何が起きたのかと振り返ってみれば。遠くに見えるなだらかな丘の斜面が灼熱の業火に炙られていた。きっと、あそこの一帯は数ヶ月は植物が根を張らないだろう。そして真紅の炎竜がアレハンドロを睨み付けた。
『……次は、貴様が燃える番だぞ』
真っ青になったドラ息子は、くるりと愛馬の向きを百八十度回転させた。そして、なんと。そのまま何も言わずに一目散に逃げ出してしまった。馬がひづめで地を蹴り進む音だけが、やけに大きく響いた。
『オマエたちもああいった馬鹿に頼まれても、もう来ないでくれよ。次は多分、我慢出来ないからな』
本来の凶暴な性を必死に抑えようとしている様にも見えるイグニス。そんな炎竜を見て、残っていた傭兵たちも一斉に逃げ出す。最早、統制も何もあったものではない。蜘蛛の子を散らすかの様に、瞬く間に草原は元の静寂に包まれた。
『……疲れたよ、ミズガルズ』
『だろうな……』