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平穏の日々

 人間が知ることのない天上の世界。途切れることのない雲海に浮かぶ天空の大地には、その日もいつもと同じように冷たい濃霧がかかっていた。露で葉を濡らした草原の上、白亜の大神殿は眠るようにひそやかに佇んでいる。誰一人動く者はいない。しかし、神殿の入り口には何者かの息遣いを感じさせる火が燭台に灯っていた。眠りについているかのような大神殿に、主が戻ってきた証しであった。

 広い入り口を抜け、迷路のごとき廊下を幾つも曲がった先、半開きの扉の向こうから書物をめくる音とペンを走らせる音が漏れ出ている。その先にいたのは、大神殿の新たな主とその従者であった。銀髪の少年が眉間にしわを寄せながら机上に置かれた分厚い書物をめくり続けている。向かいの机では桃色の髪を後ろで団子結びにした女性が、ペンを片手に淡々と作業をこなしていた。銀縁の眼鏡がいかにも知的な雰囲気を醸し出している。そしてそれほどの間を置かず、無言で仕事を進める彼女に、少年の疲れたような視線が注がれた。


「……フィーロス」


 女性の頭部からぴょこんと飛び出た、ウサギに似た両耳が微かに揺れた。彼女の美しいながらも表情の乏しい顔が少年に向けられた。


「なんでしょう、ミズガルズ様」


「……いや、この世界の歴史の勉強なんだけど……もう三時間もぶっ続けでやってるだろ? いい加減、疲れた」


「何をおっしゃいますか。まだ三時間ではありませんか」


 ミズガルズは何かを言おうとして、やめた。いくら文句を言ったところで、仕方がないだろう。あっさりと流されて、それで終わりだ。少年は諦めて別の話題を振ることにした。


「ところでフィーロス。お前、人化ができたのになんでもっと早く教えてくれなかったんだよ」


 椅子の背にぐったりともたれ掛かりながら、ミズガルズは勉強と全く無関係の会話を展開することを試みた。願わくば、この退屈な勉強時間をさっさと切り上げて休憩にしようと、話に乗ってくれたフィーロスが言ってくれないかと、そんな思いを込めながら。


「それはまだ言うべき時ではないと感じたからです。エルシリア姫を救出するのに忙しかったあの頃、余計なことをしてミズガルズ様を混乱させたくありませんでしたので」


 紙面から目を離さず、ひたすらペンを動かし続けながら話す彼女の口調は冷静そのものだ。猫の姿でいる時とまるで変わらない。フィーロスはいつどこにいても冷静沈着であり、感情を乱すことはほぼ無いと言って良い。


「……それはともかく、エルシリア姫といえば」


 フィーロスの顔が上がった。ペンが走る音も止まる。どうやら気を逸らすことに成功したようだった。ミズガルズは表情に出さないまま、内心でほくそ笑んだ。勉強を嫌う辺り、今は蛇神になったとはいえ、彼もやはり年頃の少年らしい。


「貴方様と婚姻の約束をされてからもう既に二月以上も経っておりますが、大丈夫なのでしょうか?」


 婚姻。その単語が飛び出すや否や、ミズガルズの顔は途端に渋いものとなった。


「あー……それか。また頭の痛い話を……」


「ですが、いずれしっかりと決めるべきものでしょう?」


 真顔でそう言われてしまっては、ミズガルズも返答に窮してしまう。確かに何らかの形で決着をつけなければいけないことではあった。エルシリアとの婚姻云々の話をこれ以上ずるずると引きずりたくないというのは、ミズガルズの正直な気持ちだった。とは言え、エルシリア本人が婚姻を望んでいるからと言って、ほいほい力づくで連れて来るわけにもいかない。一向に話が進まないのは、彼女の家族の中で未だに結婚を認める認めないの論争が続いているからなのだった。


「そもそもだな、フィーロス。俺は正直言って、結婚なんてものはまだ早すぎると思ってるんだ。分かってるだろうけど、俺の精神は人間のものだ。しかも、たかだか十六のガキだよ。早すぎるだろ?」


 ミズガルズは自分の知る一般的な常識を言ったつもりだったのだが、フィーロスにとっては違ったようだった。彼女は何を言っているのか分からないといった風な目をしていた。


「ミズガルズ様、この世界では十六歳で結婚するのは割と普通のことですよ。王族から庶民に至るまで」


「普通……と言われても、俺からしたら普通じゃないんだけどね……」


 頭が痛い。ようやく落ち着いたと思ったら、今度はこれだ。異世界での暮らしというのも案外楽なものではないんだな、とミズガルズは痛感した。何せ、アビスパスを倒し、バルタニアの守護獣となることを宣誓したあの日以来、この世界を根本からもっとよく知るためにミズガルズはこうして神殿で勉学に明け暮れる毎日だった。歴史に世界情勢、この世界の生物や地理、魔法……思い出すだけで気が滅入る。そこに婚姻騒動だ。ミズガルズの精神は若干すり減っていた。まあ、エルシリアのような美人と一緒になれるとなると、もちろん悪い気などしないのだが……。


「うーん、気分転換したいな……」


「下界の散歩ですか?」


「まあ、散歩というか様子見というか……」


 ミズガルズは思い切って椅子から立ち上がる。そしてフィーロスにしばらく来客が来ないことを確認した。実のところ、ここ最近の間、天上の大神殿の新たなる主となったミズガルズの下には、人間以外の様々な種族の長や権力者たちが来客としてやって来ていたのである。エルフ、巨人族、竜、妖精、魔族……などなど、挙げていけば切りがない。ミズガルズも次から次へと訪れる者たちを前に威厳を保つのに苦労した。それもここ数日は落ち着きを見せていたので、エルシリアの近況を見に行くのも兼ねて下界で一息つこうと考えたのだ。


「ん、それじゃあ少し行ってくることにする。大陸にある移動用の神殿はまだ使えないんだよな?」


「ええ、まだ無理ですね。ミズガルズ様、いい加減面倒臭がらずに早く修繕作業に取り掛かりましょうね? 巨人族なども動員させますから……」


「わ、わかった、わかった。早めにやるって」


 仕事の出来る人間……猫だが……に怠慢を指摘されるのはきつい。特にフィーロスはなまじ美人なだけに威圧感が何だか凄いのだ。とりあえず、そのことは後回しにしてミズガルズは久々に空を飛ぶことに決めた。そうして部屋を出ようとした時だ。


「……ああ、そうでした。ミズガルズ様、お出かけなさる前に一つだけやっていって欲しいことが……」



◇◇◇◇◇



 さて、どうしたものか。


 ミズガルズは難しい顔をして、先程からとある部屋の前で腕を組みつつ延々と立ち尽くしていた。木製の立派な扉の向こう側からは何も聞こえてこない。だが、確かに誰かがいる気配は感じられる。中にいるその「誰か」にミズガルズは用事があるわけだが、さっきからずっと扉を開けられないでいた。


(……まだ怒ってるだろうな……)


 ずばり部屋の中にいるのは竜蛇のノワールである。彼女は本来ならミズガルズによく懐いているはずなのだが、ある事情のせいで今や彼らの関係性は非常に危ういものになっていた。それ故、ミズガルズは扉を開けることを躊躇い続けていた。

 そもそも、どうして彼らの関係性がこんなものになってしまったのかと言うと、それは一言で説明することが出来た。ミズガルズがノワールに対し、実は自分は異世界から転生してきた人間なのだと打ち明けたのだ。ただ、それだけのこと。そう、それだけのことであったはずだったのだ、ミズガルズにとっては。それも、どうせこれから長い間共に過ごすのだから最初に言っておいた方が良いよねという、ミズガルズなりの考えと良心に基づいてのことだった。

 ところがノワールにしてみれば、それはそう簡単なものではなかった。彼女にとって、それは世界が壊れるほどの衝撃の事実だったのである。当然だ。何せ、半ば崇拝していた伝説の蛇神が既に亡くなっており、自分が話していたのはあくまで異界の人間の精神が入った、いわば別物の存在だったのだから。その結果、まだまだ幼いノワールは事態を整理できず、ショックのまま部屋に篭りっきりになってしまったのである。


(参ったな……考えが浅かったか)


 とはいえ、このまま立ち尽くしているだけでは何も始まらなかった。少年はその身を白銀の大蛇に変えて、意を決して口を開いた。


『……あー、ノワール? 中にいるんだろ? 色々言いたいことあると思うんだけど聞いて欲しい。その、あれだ。俺が悪かった、お前の気持ちを全く考えてなかったよ。怒るのも当然だよな、わかるよ。でも、一回顔を合わせて話したいんだ』


 ……返事はない。どうやら駄目そうであった。まあ、無理もないだろう。ミズガルズがノワールの立場だったら、やはり同じように怒るだろうし。今は諦めるか。そう思ってまさに踵を返しかけた時だ。

 それまでの静寂を打ち破るように扉が突然勢い良く開け放たれた。咄嗟に反応しろというのも無理な話で、ミズガルズは思い切り吹っ飛ばされた。一瞬、目の前が真っ暗になる。


『な、ななな、何するん……!』


 鼻面に感じる痛みに悶えつつ白蛇は起き上がった。すると、そこに信じられないものがミズガルズの視界へ飛び込んできた。白蛇は思わず自らの目を疑った。彼の目の前に立っていたのは、一糸纏わぬ一人の幼い少女だったからだ。艶やかな長髪は漆黒の闇色に染まり、瞳はやや暗みがかった赤。年の頃はまだ六歳だか七歳だか、それくらいに見える。あどけない愛らしさの中に怪しげな魅力を秘めた美しい少女だ。


『……はっ?!』


 固まるミズガルズを前にして、少女が悪戯っぽい笑みを浮かべた。そしてお手本のようなドヤ顔のまま高らかに言い放った。


「……ふっふっふっふ……やりましたよ、やりましたよ! ミズガルズ様……!」


 何をやったんだ。とにかく服を着ろ! そんなミズガルズの心の叫びに構うことなく少女は続けた。


「ついに! ノワールも人化に成功しましたよっ!」



◇◇◇◇◇



 澄み渡る青に染まる大空を長大な白蛇が飛ぶ。天使の羽根を思わせる八つの純白の翼が空気を叩き、彼はゆっくりと飛行を楽しんでいた。頭の上には黒髪の幼い少女が乗り、どこまでも広がる世界をその目で見て興奮しているようだった。


『……いや、だけどノワール。お前は凄いな。たったの二月で人化できるようになるなんて……』


 ミズガルズはノワールのあまりに早い成長ぶりに舌を巻く思いだった。まだまだ未熟な彼でも人化の術がどれほど難しいものなのかはさすがに把握していたからだ。それなのに幼いノワールは部屋に引きこもってから僅か二ヶ月で誰にも気取られることなく、人化に成功した。あまりに簡単にやってみせたが、これはとんでもないことだ。ノワールの底知れない才能の片鱗をミズガルズは見た気がした。


「まあ、ノワールは天才だったということですね! 早く見せたくて頑張ったんですよ?」


 自信に満ち溢れた返事が返ってきた。顔を見なくとも調子に乗っているのが丸分かりだったが、自分に自信があることは多分良いことだと思う。弱気でいられるよりもずっと良い。


「……それにしても、ミズガルズ様が元々人間だったなんて知りませんでした。想像もしてなかった」


 その言葉にミズガルズの胸が痛む。


『悪かった、黙っていて……』


「確かにちょっと傷つきました。でもね、ミズガルズ様……こんなノワールに優しくしてくれたのは貴方なんです。私が知っているミズガルズ様は貴方だけ。ノワールは今のミズガルズ様が好きなんだって、ようやく気付けたんですよ」


 竜蛇の少女は小さく笑い、そっと白銀の鱗を撫でた。


「ミズガルズ様、これから先もノワールを貴方のお側に置いて下さいね。エルシリアお姉ちゃんにも負けないですから!」


『……! ああ、俺の方こそよろしくな……』


 何気ない振りをしながら飛翔するミズガルズだったが内心は嬉しさでいっぱいだった。ノワールの優しさに救われる思いだった。やはり自分は一人ではないのだと改めて実感できたから。そして同時に困り始めてもいた。なぜなら。


(……告白、二人目だぞ、おい……)


 どうしようかと思いながらも、ミズガルズは迷いなく飛び続ける。行き先は西の大国、バルタニア王国だ。



◇◇◇◇◇



 しばらくの間、飛行を続けた後、ミズガルズはセルペンスの森の手前辺りに降り立った。空中で原身から人の姿になると、ノワールを抱き抱えながら音もなく草原の上に降りる。腕の中で頬を赤らめているノワールに気付かない振りをして辺りを見回していると、森の入り口付近に建っている見慣れぬ建物から三人の兵士が慌てて飛び出して来るのが見えた。


「こ、これはこれは蛇神様っ! 一体どうなされたのですか?」


「お迎えできずに申し訳ありません。き、今日は何の御用で……?」


「蛇神様っ、お会いできて光栄です」


 三者三様、いきなりやって来て跪き出したわけだが、彼らは一体何なのだろうか。建物の天辺にバルタニアの旗が揺れていることからも、この三人はバルタニアの人間であることは分かるが……。


(……というか、こいつら何か見覚えあるぞ……)


「あっ……分かったぞ!」


 唐突に声を上げたミズガルズに、三人の兵士は驚き顔を上げる。そして次の一言にさらに驚かされるのだった。


「お前ら、洞窟で会った三馬鹿か!」

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