続・戦いを終えて
酒場の喧騒がますます大きくなる中、ミズガルズたちが囲むテーブルにも酒類や料理が運ばれてきた。ドンッ、という鈍い音と共に木製のジョッキが置かれる。ジョッキにはまるで鮮血のように赤い果実酒が零れ落ちそうなほどに注がれていた。そしてアルコールと一緒に果物に似た芳醇な香りが漂ってきた。
「宴には上物のワインが一番だ」
既に顔を赤らめたカルロスはそう言うと、ジョッキを掴み取り、かぐわしい香りの葡萄酒を一気に胃に流し込んだ。口元からジョッキを離せば、その顔はもう林檎のように真っ赤だった。それを見て、サネルマが呆れ果てた。
「おいおい……そんなに飲み急いで大丈夫か? 明日の昼には出発するのだから、あまり酔いすぎるなよ」
「だぁいじょうぶ、だって。そんなに心配しなくて良いさ」
どう見てもあまり大丈夫そうには見えなかったが、カルロスは赤ら顔で大きな笑い声を上げるばかり。サネルマは溜息を吐きながらも、同じようにジョッキを手にして、ワインを身体に入れた。
「……なあ、明日の昼には出発するって、どういうことだ? 皆、何処かに出掛けるのか?」
銀製のフォークを使い、サラダを突いていたミズガルズが言った。話が全く分からず、彼は困惑を隠せなかった。答えたのは、既に酔いが回り始めているカルロスとサネルマではなく、赤いバンダナを頭に巻いた黒肌の大男、ケネス・キャロウだった。
「俺たちは明日の昼頃にこの街を出るつもりなのさ。色々と一区切りついて、この世界も変わってきたろ? そんで少し外を見に行こうか、って話になったのさ」
「……ふーん、そっか。目的地は?」
「いや、決めてねえな」
「……だと、思ったよ」
ケネスがあまりにもあっけらかんと言ってのけるものだから、ミズガルズは苦笑いしてしまった。まったく、誰も彼も皆、行き当たりばったりである。かく言うミズガルズとて、計画性なしに今まで動いてきたものだし、あまり人のことは言えないのだが。
ところで宴席だというのに、先程から一言も喋ろうとしない者がいた。グレーの瞳にくすんだ金髪の、顔立ちの整った青年……アレハンドロ・エルストンドだ。何が不満なのか知らないが、彼はいかにも不機嫌そうな顔で、グラスに注がれた白葡萄酒を眺めていた。あまりに気になったので、ミズガルズが声を掛けようとした時だった、アレハンドロの唇が動いたのは。
「……ずるい!」
ずるい? 一体、この青年は何を言い出すつもりだ?
「ずるいじゃないか、三人だけで行ってしまうなんて! ボクは除け者かい? どうなんだよ、ケネス?」
「除け者って言われたってな……。お前には継ぐべき家があるじゃねえか、仮にも貴族なんだからよ。王都に残るべきだぜ、普通に考えりゃあな」
それを聞いたアレハンドロは、「確かに言う通りだけど……」とか何とか言って、ぶつぶつ呟きながら俯き加減になった。そう、今の今までミズガルズは忘れかけていたが、アレハンドロは貴族の家の者なのだ。それも王国屈指の大貴族。あまりにもお粗末な姿ばかり見てきたし、本人が自由人すぎるので、ミズガルズはそのことをすっかり失念していた。
「……ふん、良いさ、良いさ! それならボクは皆が出て行った後に守護獣祭をたっぷり楽しんでやるから。悔しいだろう?」
「あー、悔しい、悔しい。すげえ悔しいなあー」
そうは言うものの、ケネスはまるで棒読みだった。カルロスは早速酔い潰れており、怒り半分、呆れ半分のサネルマに構ってもらっていた。そんな状況を見たアレハンドロは顔をしかめ、当たり前のようにミズガルズに絡んでくるのだった。
「なぁ、ミズガルズ、ボクは今から祭りが楽しみで仕方ないよ!」
「ふーん……そうなのか……。けど、主役の俺としては、ただ疲れるだけなんだよなぁ……」
主役がそんなこと言っていたら駄目じゃないか、と、アレハンドロが笑いながらミズガルズの背中をバシバシ叩いた。お陰で少年は少しむせた。前々から彼は思っていたが、この金髪青年はあまりにフレンドリー過ぎる。相手は仮にも魔物であり、国の守護者だと言うのに……。
「……まったく……。おい、良いか、アレハンドロ? お前、祭りの時にあんまりはしゃぎ過ぎるなよ。頼むから大人しくしていてくれ」
「ええ? 酷いな、その言い方は。まるでボクが常に騒動の原因みたいじゃないか」
「実際、今までそうだっただろうがっ!」
秒速で突っ込みを入れるも、アレハンドロはヘラヘラと笑っているばかり。守護獣祭の前からこんなに疲れていて、大丈夫だろうか? そう考えると、今からげんなりとしてくるミズガルズである。何か別のことをして、嫌な気持ちを忘れてしまいたかった。
「よし……」
ガタリと音を立てて、少年はその場に立ち上がった。背が低いから、椅子の上に足を掛けて立った方が周りからよく見えるだろう。それから彼は机の下でミルクを舐めていたフィーロスを足下に呼び寄せ、肉を齧っていたノワールを左腕に巻き付かせた。ここら辺りから周囲がざわつき始めたが、それを無視してミズガルズは右手で前髪を掻き上げ、そして力の限り叫んだ。
「よく聞け、酒場に集まった皆! 我が名はミズガルズ! この国を守ることになった者だ! ……今日はまだ祭りの日ではないが……無礼講だ! 我は皆と一緒に酒が飲みたい! ここは我の奢りだ。店主、あるだけの酒を持って来てくれ!」
少年は守護獣らしく威厳を保とうとしたものの、どうしても多少のニヤつきは隠せないし、止められなかった。そして酒場のざわめきはいよいよ激しくなった。人々が興奮し始めているのが分かる。さあ、どうなるんだ? ミズガルズも何だか楽しくなってきた、その刹那。
「あ、あんた、本物の蛇神様なのか?」
どこからか飛んできたそんな疑問に答えるべく、ミズガルズは微笑み、短い呪文を小声で詠唱してから指を鳴らした。すると……。
「お、おい、お前のボロ着が絹物になってんぞ!」
「そういうお前こそ、なんだその高そうな上着は……」
「見ろよ、この宝石の山! いきなり目の前に現れたぞ!?」
「空のジョッキから酒が湧いてきた!」
ざわめきの止まらない酒場に、パンパンと両手を叩く乾いた音が響き渡った。誰もが騒ぐのをやめ、音のした一点を見やる。そうして静かになったところで、少年は満面の笑みを浮かべて言ってみせた。
「……我こそが、蛇神ミズガルズだ!」
一瞬の静寂の後、酒場は弾けるような歓声に包まれた。酒と料理を求める老若男女の声が空間を飛び交った。興奮のあまり小躍りし出す者さえも現れる始末。こうなったならば、もはや誰にも騒ぎは止められない。きっと店から酒が無くなるまで続くだろう。
ミズガルズは椅子から下り、厨房の入り口辺りでオロオロとしていた酒場の店主のもとに歩み寄った。開口一番、店主は困り果てた様子で、蛇神に文句を垂れた。
「こ、困りますよ、こんなの……。いくら、守護獣様の頼みと言っても……」
「悪い、悪い。けど、心配しなくていい。後で掛かった費用を教えてくれ。国王にでも払ってもらうさ」
あっさりと言ってのけたミズガルズに、店主が焦り気味に聞き返したのは無理ないだろう。
「へっ? 国王様にですか? そそそ、そんな大丈夫なんで……?」
「大丈夫だって、問題ない。王は我の頼みなら、恐らく聞いてくれる。遅くとも明々後日までには代金を用意しよう」
少年の言うことを受けた店主はまだ頭に疑念が残っていたものの、目の前の強大な存在に何か口答えなど出来るはずもなく、すごすごと厨房に消えていった。それからすぐに店員たちにより料理やら酒やらが運ばれて来るのを見届けると、ミズガルズも席に戻った。そこではカルロスとケネスが酒を酌み交わし、大声で談笑していた。ノワールは好奇心からか小鉢に注がれた葡萄酒を舌先で舐めて、硬直している有様だ。アレハンドロ? 彼はフィーロスに執拗にちょっかいを出していたようで、顔に引っかき傷を貰っている。
「……困るじゃないか、ミズガルズ〜。言ったよな? 私たちは明日、街を発つんだぞ? 宴にも限度というものがあってだな……」
唯一、不満気な顔をして苦言を呈してくるのがサネルマだった。限度、なんていう彼女に一番似合いそうにもない文句を使って、ぶつぶつと小言を漏らしている。
「良いじゃないか、酔っ払いだらけの旅立ちってのも。面白そうだよ」
「……面白いのは、見る側のミズガルズだけじゃないのか……」
珍しくテンションの下がっているエルフを放っておき、ミズガルズは葡萄酒を呷った。次から次へと運ばれてくる料理の前では、もう他のことなど考えられなかった。見るからに美味な御馳走が並んでいるのに食べないのは馬鹿だ。
「サネルマも食えよ、今日は無礼講だぞ、無礼講。守護獣の俺がそう言ったんだから大丈夫。何も問題なし。ほら俺が食べさせてやるから、はい、口開けて」
「……えっ? 食べさせてくれる? お前が私に? 出来れば口移し……あ、いやいや何でもない! ほら開けたよ、あーん!」
それまでの渋面はどこに消え去ったのか、サネルマは目を輝かせて頬を赤く染めながら食いついてきた。ミズガルズはフォークに焼いた豚肉を刺しつつ、内心でほくそ笑む。まったく……ちょろいもんだよ、と。
◇◇◇◇◇
「……いって……あー……まだ少し頭が痛いな」
酒場から酒が消え失せた宴の日から、二日が経った。王都の外れ、外界の草原とのまさに境界線上の辺りで、カルロス・パルドはしゃがれ声で呟いた。未だ馬にも乗らず、額を手で押さえながら地面にしゃがみ込んでいる。顔色はだいぶ良くなってきたが、どうやらまだ酔いの影響が残っているらしい。
「あー……やばい、いてえ……」
見ていて可哀想になってくるぐらい完全に二日酔いのようだったが、それでもサネルマは容赦がなかった。跨った馬の背から飛び降りると、苛立った様子でカルロスの首根っこを掴みあげた。彼にとってはまさに泣きっ面に蜂だ。
「ほらぁ! しゃんとしろ、しゃんと! こんな美女と旅が出来るというのに、何時まで酔った振りをしてるんだ?」
「ちょっ……本当にやめてくれ! さっきから頭がずきずき痛んでるんだよ!」
乱暴にゆさゆさと揺さぶられて、カルロスが悲鳴を上げる。けれども彼の懇願などどこ吹く風といった様子で、サネルマはしつこく苛め続けていた。ケネスは馬に乗りながら哀れな幼馴染の姿を見て苦笑いを浮かべるばかり。どうやら凶暴なエルフから友人を救い出す気はないようであった。つくづく哀れな男である、カルロスというのは。
「……まったく、早いところ出発しないと日が暮れちまうぞ?」
「ミズガルズ……こうなった原因はお前にもあると私は思ってるんだが……」
呆れ顔で溜め息をついたミズガルズに、サネルマがいかにも文句を言いたげな顔を向けてきた。当然ながら蛇神は完全無視を決め込んだ。そうこうしているうちにカルロスがようやく馬に乗る準備を始めたのを見つけると、エルフの異端児も蛇神を問い詰めることを諦めて馬に乗り直した。一陣の風が彼らの間を吹き抜け、蛇神の銀髪を大きく靡かせた。組んだ腕を解き、髪を掻き上げた彼の前には、既に旅の支度を終えた三人の友がいた。ミズガルズには彼らの表情が一番最初に出会った時と比べて、どこか違っているように思えた。その微妙な変化をはっきりと言葉で言い表すことは難しい。だが、何と言えば良いのだろう……強いて言うならば成長したとでも言うべきなのだろうか。
「……なあ、ミズガルズ。私たちはな、お前に出会えて本当に良かったと思っている」
成長、という単語が少年の頭の中で何度も何度も響き渡った。自分も変わったのだろうか? どう変わったのか、そしてこの先どのように成長していくべきなのだろう? 明確な答えのない問い掛けが延々と巡り、回り続けた。
「……いきなり、どうしたんだ。まるでもう二度と会えないような言い方じゃないか、やめてくれ」
サネルマは笑う。珍しいことにエルフらしい穏やかで微かな笑みだった。
「そうだな、二度と会えないのは私たちも嫌だ。だから心配しなくていい、私たちはいずれまた戻ってくるよ。私たちはミズガルズのことが好きだからな……私たちを対等に扱って接してくれるミズガルズのことがな」
落ち着いたサネルマとは反対に、彼女の言葉を聞いたミズガルズは驚きを隠せなかった。ケネスが言う。
「最初は俺も内心、気が気じゃなかったんだぜ? 俺みてえなただの人間がよ……軽々しく話しかけてもいいもんなのかってな」
刺青だらけの大男が照れくさそうに頬を掻いた。彼はどこか恥ずかしげな様子だったが、恥ずかしかったのはミズガルズとて一緒だった。そうか、サネルマにもケネスにも、そしてカルロスにもはたまたその他の大勢の者たちに自分は気を使わせ続けてきたのだなと、蛇神はようやく悟った。同時に自分はやはりまだ世間知らずの子供なのだとも彼は感じた。周囲の人々のことを分かった気でいたが、全然分かっていなかったのだ。ミズガルズはそのことが恥ずかしかった。
「あー、いや……俺の方こそすまん。確かにケネスの立場だったら驚くよな」
いたたまれなくなり、ミズガルズは所在なさげに長髪の先を弄りだした。
「……これだと、いつまで経っても出発できないな。皆、そろそろ行って来なよ。そしてちゃんと帰って来てくれ。色々見てきたことを教えて欲しいんだ」
馬に乗ったまま、三人は頷き、笑った。言葉はもう要らなかった。そんなものが無くとも、確かに彼らの間では約束が交わされていたから。また遠くない内に再び会おう、と。そして、その約束はきっと違えられることはないだろう。信じ合っている限り、友情は続き、また何度でも会えるのだから。
軽快な蹄の音を響かせながら、馬は遠ざかって行く。彼らは振り返らなかった。ミズガルズは三人の背中を見守り続けた。それはどんどんと小さくなっていき、やがて馬が奏でる蹄のリズムも、草原を強く吹き抜ける風の音に溶け入るように飲み込まれて消える。随分と風の強い日だった。だが、悪くはない。
「あーあー、行っちゃったよ。ボクを置いてさ……」
恨めしげな声が背後から聞こえてくる。振り返って見れば、アレハンドロがいつの間にかやって来ていて、憮然とした表情を作っていた。どこか寂しそうな目で、眼前に広がる青々とした草原を見つめていた。くすんだ金の髪は、風に吹かれてぼさぼさと乱れている。やはり、その姿はどうも貴族らしくない。
「もう諦めろって、アレハンドロ。今度、どこかに遊びに行こう。だから、小さいガキみたいに拗ねるなよ」
ミズガルズが笑いかけると、アレハンドロも微かに笑い返した。見つめ合った二人の笑い声はやがて大きくなり、草原に響いた。彼らは昔からの幼馴染みであったかのように、並んで歩き出した。
「いやあ、楽しいなぁ。こんなに楽しい友人を持てたことはなかなか無いよ! 同年代の貴族の奴らは皆、何考えてるのか分からないし、嫌な奴らでさ」
「ったく、何考えてるのか分からないのは、お前も一緒だろ。たまにお前は俺のことを単なる人間だと勘違いしてるんじゃないか、って思うことがあるよ」
「いや、だって仕方がないじゃないか。ミズガルズは何と言うか……人間よりも人間らしいんだもの」
ミズガルズは思わず立ち止まった。きょとんとしているアレハンドロは構わずに続けた。
「それにすごく口が悪い時があるよ、魔物っぽくない」
それを聞いてミズガルズは何だか力を抜いてしまった。
「お前の方こそ貴族っぽくない。これは断言していい」
「酷いなぁ、けど自分でも分かってるよ。親からも言われるから」
「分かってんなら、治せよ……」
呆れ果てて何も言えないミズガルズに、アレハンドロは唐突に「今から家に来ない? 来てくれたら親が喜びそう」と提案した。本当にこいつは何を考えているのか分からないと、ミズガルズは感じた。計画性は無いし、あまり賢くないし、馬鹿だし……。生まれる家を間違えているな。でも。
「悪くはないな」
「本当!?」
こういう友人が一人くらい居てもいいかと、ミズガルズは笑うのだった。




