魔人の最期
冷たい石畳の上に国王アシエルが力なく横たわっていた。脈拍はあるものの、意識を取り戻す様子はまだない。エルシリアは泣きそうな気持ちを抑えて父親に駆け寄り、その身体を抱いた。
「父上、父上! どうか目を覚ましてください……!」
いくら呼び掛けても反応は見られず、エルシリアはもどかしい気持ちでいっぱいになった。それから辺りを見回す。すると、少し離れたところには銀髪の少年が赤黒い血を流したまま倒れ伏しているのが目に映った。エルシリアの眦に涙がじわりと浮かんだ。いったい、どうすればいい? たかだか人間の娘に何が出来る? 王女はいくら自問しても答えに辿り着けなかった。
『くくっ、ふくくくふふ……! 残念でしたねぇ、王女様。結局のところ、最後に笑ったのはこの私だったようですよ?』
気色の悪い耳障りな声が中空に響き渡った。エルシリアが真っ赤な目で睨み上げると、空を背景にして煙のような怪人が浮かんでは、王女のことをニヤニヤとした笑顔で見下ろしていた。全ての元凶であり、遥か過去に魔物の統率者として悪名を馳せたアビスパスだ。
「貴様ぁ……! この卑怯者が……」
強く睨みつけたものの、大切な人が二人も危機的な状況にいては精神的に不安になるに決まっていた。エルシリアの身体は既に細かく震えていた。若き王女は恐怖を隠し通せていなかった。
『ふっ、何とでも好きに言ってください。私はどんな手を使ってでも栄光を再び掴み取ろうと決めているのでね。あとは王女様、貴女と父上に消えてもらい、この国を貰い受けるだけです。……そこの薄汚い蛇は……』
アビスパスが笑う。勝ち誇ったかのようににやりと笑う。吐き気がするほど、気持ちの悪い笑みであった。
『とっくのとうに、くたばってしまいましたからねぇ! 残念ながら貴女の味方はもういませんよ!』
王女は唇を強く噛んだ。悔しい。けれども、その通りなのだ。ミズガルズは死んでしまった。もう、いない。彼が助けてくれることはもう……。
「……誰がくたばった、だって?」
確かに若々しい声が聞こえた。エルシリアとアビスパスはほぼ同時に背後を振り返った。そこで王女はあまりの嬉しさに言葉を失い、一方の魔人は憎しみのあまり体を震わせた。
『……ミズガルズ……! 何故だ、何故生きている? 私は確かに貴様の心臓を貫いたはずだぞ!』
ミズガルズは答えなかった。ただ微かに笑うだけだ。アビスパスは世界蛇のそんな様子を見て、目を細めた。
『……貴様は、貴様はいったい何者だ? 私の知る奴は確かに理不尽なまでに強かったが、決して不死身などではなかったぞ。……貴様、本当にミズガルズなのか?』
一つ息を吐いてから、世界蛇が口を開いた。
「俺が何者なのか知りたいか? ……なら、俺を追って来いよ!」
言うなりミズガルズは走り出した。アビスパスに背を向けて、まるで脱兎のごとく。当然ながらアビスパスは唖然としていたが、すぐに我に返り、逃げる宿敵の背中に言葉をぶつけた。
『ま、待て、貴様! 何のつもりだ、逃げるのか!?』
アビスパスを無視したミズガルズはそのままバルコニーの柵を乗り越え、一度だけ後ろを振り返ると、大空へと飛び込んだ。事態を飲み込めないエルシリアが口を手で覆い、息を飲んだ。、
そうした中、アビスパスは王女や国王のことなど目もくれずに、バルコニーから飛び降りたミズガルズのもとへと、文字通り飛んで行った。ここで逃すわけにはいかなかったのだ。ミズガルズは死ぬために身投げをしたのでは決してないはずだ。逃げて、どこかで形勢を立て直し、必ずやアビスパスの野望を再び妨害しに舞い戻って来るに違いない。そして何よりも、ただ単純にこの場で殺してやりたかった。アビスパスはこれ以上、たったの一分、一秒でさえもあの憎き蛇を生かしておきたくなかったのだ。
『自分から足場を捨てるとはな! 何をしたいのかは知らんが……くたばれ、蛇!』
バルコニーの外へ飛び出したアビスパスは、眼下にゆっくりと落下していくミズガルズを見て、勝利を確信した。そして、その華奢な首を斬り落とすべく、世界蛇の懐に飛び込んで行き……。
「ありがとうな、わざわざ近くに来てくれてよ」
『何を……?』
薄く笑ったミズガルズが指を素早く動かし、中空に何かを描いた。そして複雑な光の文字が浮かび上がり、四散して消えたかと思うと、そこに巨大な魔法陣が出現した。落下する二人が輝く陣に触れた瞬間、まるで彼らを飲み込むかの如く陣の内側が渦巻き、遥か別の異空間へと道を繋いだ。ぽっかりと開いた口からは白い光が溢れ出て、ミズガルズとアビスパスを強く照らした。
『ばっ、馬鹿な……こんな技があってたまる、か……!』
アビスパスが異空間に飲まれることから逃れようと身を捩らせたが、それは何の意味も為さず。世界蛇と魔人はあっと言う間に、その場から姿を消した。
◇◇◇◇◇
どれくらいの間、意識を失っていたのだろうか。魔人アビスパスは呻きながら両目を開いた。すると、そこは見たこともない空間だった。地面はざらついていて薄桃色の硬い土で覆われていた。時折、生暖かい風が吹いては朱色の砂埃を引き起こした。荒野には草木が一本も生えておらず、不規則な形をした岩ばかりが立ち並んでいた。
『ここは……いったい……?』
アビスパスは呟きながら荒野と淡い橙に染まる空を見ていた。全く見覚えのない場所にさすがの彼も戸惑いを隠せなかった。
「なんだ、やっと目を覚ましたのか」
魔人は咄嗟に振り向いた。荒れ果てた大地に突き立つ岩の上、そこに小柄な人影があった。小憎らしい笑みを浮かべ、声の主は悠々と岩に腰掛けている。案の定、それは世界蛇ミズガルズであった。
『世界蛇……貴様、いったい私を何処に連れて来たのだ?!』
「そう怒るなよ、今から説明してやるさ」
言うなり、ミズガルズは腰を上げ、岩から身軽に飛び降りた。彼は音のひとつも立てなかった。砂埃が微かに舞い上がった。
「なぁ、お前は異世界っていうものを信じているか?」
『何……? 異世界だと? まさか貴様、ここは……』
察しがいいな、と、ミズガルズは笑った。アビスパスは信じられないといった顔をしていて、それ以上言葉を続けられないでいた。
「ここはさっきまで俺たちがいた世界じゃない。俺とお前は今、全くの別世界に渡って来たのさ」
『……別世界、だって?』
呆然として魔人は言葉をぽつりと漏らした。ゆっくりと辺りを見回すものの、その眼は虚ろである。
『貴様は……おかしい。何かが違う……何故このような力を持っている……? 私の知る世界蛇は……』
「もう、いないよ」
『馬鹿な、そんな嘘を……』
「嘘なんかじゃない。お前が昔戦ったミズガルズはもう……俺たちと同じ場所にはいない」
だったら、貴様はどこの誰なのだ。アビスパスはそう言いかけて、口を閉じた。まさか、という思いが頭をよぎった。だが、目の前にいる世界蛇のあまりにも不自然な変化を説明するには、その考えが最もしっくり来た。長命な魔物には不釣り合いな荒い言葉遣い、未熟な戦闘技術、そしてアビスパスを知らなかったこと……それら全ての説明がついてしまう。もしや、もしや、この蛇は……。
「俺は今じゃ世界蛇ミズガルズだ。けど、お前の知っているミズガルズじゃない。……俺の心は別世界の人間のものだ」
『……! 貴様、転生者、だったのか……』
種が明かされたその瞬間、アビスパスの胸の内を気が狂いそうなほどの絶望が走り抜けた。同時に怒り、悲しみ、悔しさが混ざり合い、渦を巻き始めた。最悪だった。恨みをぶつけるはずだった相手がいないのだ。あの日、世界を懸けて殺し合った蛇は最早逝ってしまった。そう思った時、アビスパスの心にある感情が生まれた。それは彼自身にしても、信じられないとしか言いようがない感情だった。
『……そうか、奴は、ミズガルズは死んだのか……』
認めたくはなかった。けれども認めざるを得なかった。宿敵を失ったことでアビスパスは大きな喪失感と共に、鉛のように重たい悲しみを感じた。それは自らの努力や苦労が結果的に無駄に終わってしまったからなのか、もしくはあの世界蛇に憐れみを抱いたからなのか……。理由はよく分からない。が、彼の心に宿った炎が次第に小さくなり、徐々に冷め始めていることは確かだった。
『ふっ、ふふふふふふ……くっふ……』
「……なんだよ、どうした? 何が可笑しい?」
眉をひそめる少年を他所に、アビスパスは笑い続けた。実体の無い体を荒野の岩にもたれさせ、干からびた世界の風に乾いた笑い声を乗せた。
『いや……何だかな、何故なのかはよく分かりませんが虚しくなってしまった……。私は彼奴ともう一度相見える為に、色々策を練ってきたというのに……』
言葉は途切れ、魔人は短く息を吐いた。
『私の気持ちも知らずに勝手に逝くとは、やはり嫌な奴よ……あの蛇は。奴がいなければ私の計画も何も全て意味を成さないのと同じだ……』
「だったら……どうするんだ?」
すると、アビスパスはちらりと少年の方を一瞥して、言った。
『そうだな、お前はこのまま私をここに放置しておけばいい。元よりそのつもりで連れて来たのだろう?』
少年はただ黙って頷いた。
『ふっ、その判断は正しい。私をここに置き去りにすれば、あの国に掛かった魔術はじきに効力を失う……』
『……それにどうやら、この世界には人間が存在していないようだな。気配が感じられない。そうなれば人間共の負の感情を糧にする私は……遠からず消滅せざるを得ない。あの短時間でよく考えたものよ』
言いたいことは言い終えたのか、アビスパスは目を閉じた。静寂が降りた。乾き切った風が吹き荒ぶ。砂埃が舞う世界の中、少年は立ち尽くし、黙りこくる死にかけの魔人を見つめていた。そして、同じように言葉を発さないまま、銀髪を揺らして踵を返そうとした時だった。
『人間、貴様はなかなか機転も利くようだし、ただの凡人ではないようだな。だが、力を持つ限り私のような敵は増え続けるぞ。果たしてお前に耐えられるのか? お前は先の苦難を知りながらミズガルズの名を背負っていくのか?』
少年は立ち止まった。それは一瞬のことだったが、とても長い間、そこに立っていたかのような気がした。
「……背負うと決めた。だから俺はこの先どんなに道が険しくても、どれだけ長くても後戻りはしない。ただ、それだけのことだよ」
アビスパスは暫くの間、驚いたように黙していたが、再び例の乾いた笑い声を腹の底からくつくつと漏らし始めた。やがて、それはとてもとても大きな、世界中に響き渡りそうな程に大きなものに変わった。そうして笑う様は実に快活であり、今の今までアビスパスに陰鬱な印象しか抱いていなかった少年は驚かざるを得なかった。
『ふふっ、ふはははっ! 人間の小僧っ子の癖に実に生意気で強気だな。面白い奴だ……貴様があの蛇に目を付けられたのも、ある意味必然だったのかもしれない……。貴様とあいつは少し似ているぞ……』
それから一度咳き込んだ後、アビスパスは未だに立ち尽くす少年を叱咤するかのように、腹の底からありったけの叫び声を上げた。その声はどこか楽しげな風にさえ聞こえたのだった。
『さらばだな、人間の小僧! 愚劣な世界蛇の名を継いだ愚かなる人間よ! 私はこの終わった世界で祈り続けてやろう。貴様に幾つもの苦難があることを。永遠に苦悩し続けると良い! ……さあ、行け! さあ……』
風が吹く。生命の気配を感じさせない乾きに乾いた風だ。それは橙色の砂煙と共に、くすんだ世界に音をもたらす。風はアビスパスの声をかき消した。同時に吹き荒れる砂塵が煙のような魔人の姿を見えなくさせてしまう。まるで決別を告げているかのよう。まるで終わりを告げているかのよう。進めと、少年に言っているかのようだった。
砂埃の向こうに見えなくなったアビスパスに何か言おうとして、少年は一度口を開き、そして閉じた。目を細め、乱れる長髪を押さえながら、敵に背を向けた。そのまま歩き出す。一歩踏み出す毎に細かい砂の粒が白い肌を打ち付ける。少年は歩き続けた。そして、アビスパスの姿が遥か遠くに見えなくなった頃、立ち止まり、腕を振り上げた。
光り輝く魔法陣が現れる。少年が掌を触れた瞬間、陣は開き、内側から神々しいとさえ言える程の純白の光が溢れ出た。
「……永遠の苦悩、ね。俺だって、覚悟くらい……出来てるさ」
口元に微笑を浮かべ、少年は白光の中へと消えて行った。




