過去の記憶への入り口
ああ、間に合わないな。
ミズガルズの頭の中を、そんな情けない思いが駆け巡った。今すぐ助けなくてはならないのに、身体が思うように動かない。両足が重い。まるで時間の流れが遅くなったかのようだった。間に合わないなどと悠長に考えている暇なんて、あるわけがないのに。最悪の気分だった。吐き気がした。喉は焼けそうで、身体のあちこちが熱を持ち、今すぐにでも破裂してしまいそうだった。
時間は少年を待たない。非情だ。冷たい輝きを帯びた鋼のナイフが少女に襲いかかる。明確な殺意をその刃に纏いながら。止まる様子はない。何の迷いも無く、無慈悲に一気に振り下ろされる。少女の艶やかな金髪に、滑らかな純白の肌に向かって。
「やめろっ!」
何も出来ず、反射的にミズガルズは叫んでいた。それで事態が良い方向に動くことなどないと、当然ながら分かっていたのに。諦めと悲しみに満ちた感情が生まれ、じわりじわりと広がり、ついにミズガルズは瞳を閉じた。脳裏に最悪の情景を描きつつ。
「…………?」
けれど、いつまで待ってみても、何の悲鳴も上がらない。おかしいと感じ、ミズガルズはそろそろと目を開けて、恐怖とともに眼前の光景を見た。
すると、そこには少年が危惧していたような、恐ろしい風景はどこにも広がっていなかった。姫君は困惑していたものの、相変わらず傷一つ無い美しい姿のままでいた。一方、かつての魔王に身体を乗っ取られた国王は、まるで魔法に掛けられたかの如く、石像のように動きを止めていた。
アビスパスは苦しげに呻き、ぶるぶると手足を震わせた。手に握っていたナイフが落ち、地面にぶつかって、甲高い音を立てた。そして、一瞬の沈黙の後、獣のような吠え声が響き渡った。王は冠を地に叩きつけ、頭を掻き毟ると、身体をくの字に曲げて叫び続けた。異様な光景に誰もが動けなかった。王の荒々しい大声ばかりが延々と続いた。
「ち、父上……!」
「……危ないから、こっちに来るんだ!」
動揺を露わにして、そこから離れようとしないエルシリア。その手を取ろうとして、ミズガルズが駆け寄った瞬間だった。
「エル……シリア……我が娘、よ……」
息も絶え絶えに言った王の両眼は、まさしく人間のものであった。すると、次の瞬間には異変が起きた。国王の身体が大きく揺れ、ぐらりと傾き、地に崩れ落ちる。そして間を置かないうちに、そこから黒紫色の濃煙が噴き上がった。
『あぁあぁああ! 支配に抵抗するとは生意気な人間ですねえぇえぇええっ! 何故、こうなるのだあぁ……っ!』
纏う赤紫のローブ、深緑のざらついた肌、そして濁りきった橙の目。現れたのは闇の深淵より出でし魔の者。かつては世界中に散らばる魔族を束ね、膨大な力を手にしていた魔物の王だ。それを睨み据えながら、ミズガルズは不敵に笑ってみせた。
「やっと出やがったな、アビスパス……!」
◇◇◇◇◇
ようやく本当の姿を見せたアビスパスに向けて、ミズガルズは容赦無く攻撃を放った。数十本もの氷の長槍が空を飛び、アビスパスを貫く。普通ならば、それで勝敗は決しただろう。だが、アビスパスはまだ終わりではなかった。
『くく、くくく……! 私が王の身体から出れば勝てるとでも思いましたか、ミズガルズよ……』
不敵に笑ったアビスパスは全く無傷のままだった。何故なのか、少年には知る由もない。ただ一つ言えるのは、このままでは目の前の敵を倒せないということ。やはり厄介な相手だ。なかなか一筋縄ではいきそうにない。
『ふっ……懐かしいですね、ミズガルズ。あの日、あの忌まわしき因縁の日もこのような空だった……』
攻めあぐねていたミズガルズを前にして、アビスパスはそんなことを口走った。両腕を大きく広げて、濁った橙色の目で遠くの空を見つめている。口元は不気味な笑みを形作り、ミズガルズのことは見えていないようでもあった。
彼が何を考えているのか、ミズガルズには分からない。注意深く見守るしかなかった。それに今考えるべきことは、何よりもどうやってアビスパスを倒すかだった。
『……くく、ミズガルズ。私には貴様が何を考えているのか分かりますよ。大方、どうやって私を殺せば良いのか迷っているのでしょう?』
図星を突かれたミズガルズが苛立ちも露わに、アビスパスを睨んだ。けれど、アビスパスは意にも介していない。腕を大仰に広げて、余裕を見せつけてきた。
『残念ながら、私を殺す方法など無いのだ。貴様を含め、私は誰からも殺されはしない。分かりますか? 私は不滅の存在なのですよ。既に肉体はなく……言わば亡霊のようなもの。私は永遠にこの世に留まり続ける』
自らを亡霊と例えた魔物はなおも不敵に笑う。赤紫のローブは風に揺らめき、周囲に漂う暗紫色の煙はゆらゆらと絶えず形を変える。
『ミズガルズよ、私が何に支えられて未だこの存在を保つことが出来ているのか分かるか?』
「……いきなり何なんだ? お前は何が言いたい?」
睨むミズガルズを見下ろしながら、アビスパスは耳障りな笑い声を漏らした。そして言葉を紡ぐ。絶望を世界蛇に叩き込むかのように。
『私の命の源となるのはね……怒りや憎しみ、嫉妬、羨望、悲しみ……そういった負の感情なのですよ』
「それが……どうしたって言うんだ」
言葉に詰まるミズガルズとは対照的にアビスパスは勝ち誇ってみせた。
『分からないのですか? 私は負の感情を取り込んで自らの力に変換して生き延びる。そして、人間や亜人、魔族たちが生き続ける限り、この世からそうした感情が消えることは絶対にない! 私は永久に不滅だ! 例え殺されようとも、何度でも何度でも復活を果たすのだ!』
言いたいことは全て言い終えたのか、アビスパスは早速ミズガルズに襲いかかってきた。両手で握り締めているのは柄も刀身も闇色をした両刃の大剣であった。殺気を全開に纏い襲い来るのを、ミズガルズは間一髪のところで避けた。が、一度きりで攻撃が終わるはずがない。アビスパスは空を縦横無尽に駆け巡り、黒い刃を振るってはミズガルズの命を奪おうとした。
けれど、ミズガルズも黙って避け続けるばかりではない。攻撃を避けたと同時に地面を蹴って素早く距離を取る。慣れた手つきで陣を中空に描き、苛烈な雷撃を飛ばした。紫電は激しい轟音を響かせながらアビスパスを貫いた。が、予想通りと言うべきか、闇の魔王は全くの無傷。彼はけたたましい笑い声を狂ったように発しながら進撃を再び開始した。
目の前に迫ったアビスパスをミズガルズは凄まじい烈風で押し返した。爆風は目には見えない障壁と化し、アビスパスの黒き刃を一切通さなかった。そればかりか、勢い良く弾き飛ばす。アビスパス自身も衝撃に負けて吹き飛ばされた。その隙にミズガルズは細身で片刃の氷の剣を生み出した。それを両手で強く握ると高く跳んで、起き上がろうとしていたアビスパスに容赦無く斬りかかった。
『くっ、相変わらず汚ない手段を使うのだな、ミズガルズ!』
「汚ないだぁ? 馬鹿を言うなよ、殺し合いに汚ないも何もあるか!」
刃が交わる。甲高い音が響き、両者の腕に力が籠る。これは互いに譲れない戦いだ。どちらも引かず、せめぎ合いが続く。ミズガルズが押せば、アビスパスが押し戻す。逆もまた然り。ずっとその繰り返しだ。
「しつっけえな、てめえも……! 亡霊ならさっさとあの世に行っちまえよ……!」
『……ふざけるな……私がこうなった原因は貴様の裏切りだろうがっ!』
その瞬間、ミズガルズは驚きで目を見開いた。抑え込んでいたはずのアビスパスが剣を押し返し、刃の先端を向けて少年に襲い掛かったのだ。経験の浅い少年は咄嗟に避ける術を持たなかった。黒い霧となったアビスパスはそのまま刃と共に……ミズガルズを貫いた。
……硬い刃がずぶりと腹に突き刺さる。内臓や筋肉が無理やりかき分けられて、鋭い痛みが走った。すぐに回復するとは言え、不快でなおかつ苦痛であることは言うまでもない。その上、今回はもっとひどかった。刺されたと同時にアビスパスの声が頭に流れ込んで来たのだから。まるで意識を乗っ取るかのように脳内に絶えず響き渡るのだ。これには少年も堪ったものではなかった。
『くく……残念だったな、ミズガルズ。最後に冥土の土産として、あの日のことを思い出させてやりましょう』
その言葉を境にミズガルズの意識は遥か過去へと飛んだ。
◇◇◇◇◇
目を覚ますと、そこは見たこともない場所だった。どうやら大きな建物の中にいるようで、少年は大理石の廊下の上に横たわっていた。掌で触れている床は冷たいが、漂う空気はどこか生暖かい。漆黒に塗られた壁面には刀剣や盾、絵画の類が整然と並び、掛けられていた。
そこが一体どこなのかも分からぬまま、少年は立ち上がった。少しふらついたけれども、身体に問題は無いようだった。それから、何のあてもなく広大な建造物の中を彷徨い歩く。人はどこにも見当たらず、静けさに満ち溢れていた。時折、いるかも分からない誰かに呼びかけたりもしたが、それに対する応えはまるで無かった。
いよいよ不安な気持ちが胸の奥で鎌首をもたげ始めた時、銀髪の少年は微かな声を聞いた。怒号のようにも聞こえたそれは延々と響き続けていた。しかも一人だけのものではない。複数人の声だった。
少年は思わず走り出した。居ても立っても居られないというのは、こういう気持ちを言うのだろう。誰もいない廊下を駆け抜けて、階段を二階、三階と上がる。すると、いよいよ目的地が見えてきた。青く塗装された半開きの大きな扉の向こう、その奥に広がる空間から怒鳴り声が連続して聞こえてきた。扉の前には狐らしき獣人の門兵が二人いたが、彼らは少年の姿が見えていないらしかった。少年は意を決して彼らの横を通り抜けた。すると、その先には予想もしていなかった人物がいた。
『……ふむ、貴様の下に付いたとして……我は一体何を得られる? 是非とも教えて貰いたいものだな……偉大なる魔王様よ』
幾つもの敵意が込められた視線を涼しい顔で受け流すその青年の姿を見て、少年はついつい声を漏らしてしまった。あまりにも似ていたのだ。自分の容姿と。
『貴様に対する褒美か、そうだな』
それは最も高い上席、玉座からの声だった。そこには深緑の肌を晒した巨大な魔神の姿があった。
『……貴様の望むものを何でもくれてやるとも。この私、アビスパスに従い、忠実に仕事をこなせたらな』
そう言って、時の魔王は白銀の長髪を靡かせる青年を見下ろした。
『世界蛇、ミズガルズよ』