最後の戦い
風格さえ漂わせながら悠然と天を舞う白蛇の姿を視界に認めたその時から、アビスパスは自身の内より湧き上がる怒りを抑えられなかった。両眼は血走り、握り締めた拳の震えは止まることを知らない。それほどまでに、あの世界蛇はアビスパスにとって許し難い存在だった。全てを失ってでも良いから地獄に送りたい相手……そう言っても過言ではなかった。
仇敵を静かに見据えつつ、アビスパスは過去と未来に思いを馳せていた。今でも鮮明に思い出せる、全てを失ったあの日のことと、憎き敵を倒した後のこれから先の展望を。
「……呪縛の日々はもう終わりだ、ミズガルズよ」
殆ど口を動かさずに、闇から生まれた魔物はそう呟いた。すぐ目の前には白銀の世界蛇が接近しつつあった。
◇◇◇◇◇
ミズガルズは慎重に王城へと近付いた。大きめのバルコニーに一人の男が立っているのが見えた。年齢はそこまで若くはないだろうが、整った顔形をした男だった。頭には輝かしい王冠が載っている。名乗られずとも分かる。彼がバルタニアの国王であり、エルシリアの父、アシエルであろう。もっとも、今はアビスパスに身体を乗っ取られているが。
背に乗るエルシリアが緊張しているのが、ミズガルズには感じられた。すぐ傍を飛ぶノワールやフィーロスもなかなか落ち着けないようだった。それはそうだろう。敵地のど真ん中に乗り込んでいる真っ最中なのだから。ミズガルズだって、表には出さないものの緊張でいっぱいだった。鼓動の音がやけに大きく響いて聞こえる程に。
「ようやく再び出会うことが出来ましたね、世界蛇ミズガルズ……。私は憎き貴様に復讐するこの日を迎えるのが待ち遠しかった!」
だからなのか、アビスパスの上げた絶叫にも近い大声を聞いた時、ミズガルズは緊張のあまり幻聴を耳にしたのではないかと感じた。再び出会うことが出来た? 復讐する? この日を迎えるのが待ち遠しかった? この魔物は一体全体、何を言っているのだろうか。ミズガルズは彼のことなど知らないというのに。
黙り込んだまま、世界蛇は注意深く魔物を見遣った。ミズガルズが何か言うのを今か今かと待ち続けている魔物を。そのギラギラした橙色の不気味な両眼を真っ直ぐ見据えながら、ミズガルズはついに言葉を発した。そう、王に潜んだ魔物にとって禁句とも言える台詞を。
『……出会い頭にこんなことを言うのも悪いけど、お前は誰だ? 俺はお前のことなんか知らないぞ』
ミズガルズにしてみれば、ごく普通、いや当然の言い分であった。しかし、それを聞いた瞬間、アシエル王の身体を乗っ取ったアビスパスは目を見開いた。そして彼の身体から憎しみにまみれた魔力が一気に吹き上がった。
「……知らない? 私を知らないだと!? ふざけるな! 私は貴様のことを一日たりとも忘れられなかったというのに! 貴様は私のことなど忘れたと言うのか!」
アビスパスの怒りの雄叫びが否が応でも耳に響く。それでもミズガルズは困惑するしかなかった。当たり前だ。今のミズガルズはアビスパスに会ったことなど無いのだから。そう、今のミズガルズは。
「……良いでしょう。屈辱に違いないが、今一度名乗ってみせましょう……。よく聞いていると良い。しっかり思い出せるように」
王の姿をした魔物が低くおどろおどろしい呟きを漏らした。例えるなら、地獄の底から這い上がって来た死者が出すような恐ろしい声で。橙色の濁った瞳はギラついた異様な光を帯び、端正なはずの顔面には幾つもの皺が刻まれた。そこに浮かぶのは、人間のものとはとても思えない邪悪な笑みであった。
「私の名はアビスパス。五千年も昔、この世界の魔族を束ねていた者……。思い出したか、ミズガルズ! 私は貴様と炎竜に裏切られた、かつての魔王だ!」
血を吐き出すような魔物の激白。ミズガルズは我知らず双眸を見開いた。そして、どうしてアビスパスがここまで深い憎悪を見せるのか、はっきりと理解した。この魔物はミズガルズと……そう、リンという少年の精神が入る前のミズガルズとの間に因縁があるのだ。それを今、彼は全面に押し出している。本当に恨むべき対象がもう既にいないとは露ほども知らずに。
『……残念だけどな、お前が恨むミズガルズはもういないんだよ』
「何……? 何だと?」
目に見えて混乱し始めたアビスパスを、世界蛇は上から静かに見下ろした。動揺を露わにするかつての魔王とは対照的に、ミズガルズは至って冷静に努めて言った。
『けど、今はそんなことはどうだっていいし、お前にわざわざ事情を説明してやる気も無いんだ。一つ、確かに言えることはな、俺にとってお前は邪魔だってことだ』
ミズガルズの魔力がじわじわと上がり始めた。大気が冷え、城壁に薄い霜が降り出す。それでもアビスパスがまだまだ余裕ある笑みを崩さなかったのは、彼がアシエル王の肉体を乗っ取っていたからだろう。
「……ふっ、ふふっ! 邪魔、ですか。それは私の方こそ言いたい台詞ですが。まあ、良い。それよりもいつまでも空にいないで、降りて来て下さいよ。五千年振りなのだから、もっと言葉を交わそうではないか」
『敵の誘いに乗ると思うか?』
「愚かですね、ミズガルズ。貴様は乗らざるを得ないんですよ。忘れたか? 私は国王を人質にしているのだぞ!」
アビスパスは勝ち誇ったかのように叫びを上げてみせた。ミズガルズが嫌そうに瞳を細める。そして慎重に慎重を重ね、蛇神は徐々に高度を落とした。やがてバルコニーに鼻先が近付くと、ミズガルズはそこで動きを止めた。真紅の鋭い双眸がアビスパスを睨む。
「どうしたのですか? 何故、人化してバルコニーに降りて来ない?」
『……お前が信用出来ないからだ。先にエルシリアたちを背から降ろしたいけど、お前は先に彼女たちを襲うかもしれないだろう?』
世界蛇の懸念はもっともなものだった。けれど、アビスパスにとってはそうでもなかったらしい。頬を緩めると、たちまち堰を切ったように大きな笑い声を漏らし始めたではないか。腹を押さえ、身体をよじらせながら笑うその姿はまさに異様というべきものだったろう。
「くっ、くははっ! おかしなことを言いますね、世界蛇よ。私を見くびらないで欲しいな。用があるのは貴様だけだ。安心すると良い。私は他のおまけをどうこうしようなんていう気は無いのですよ。私が殺したいのは、貴様なのだからな!」
おまけ扱いされたエルシリアとノワールがすぐさま憤慨して足を前に出そうとしたが、姫君はフィーロスに服を引っ張られて止められ、竜蛇はミズガルズに説き伏せられて留まった。勢いを削がれたエルシリアはアビスパスを強く睨め付けた。
一陣の風が吹いた。淡い白光がその場を一瞬だけ包み込んだ。眩しい光が消え去った後、アビスパスの血走った瞳には一人の少年が映っていた。あの頃の忌々しい記憶の中の姿とは多少異なっていたが、銀に輝く長い白髪と全てを見透かしているかのような紅い瞳はまるで変わらない。それらは否が応でもアビスパスに苦々しい過去の記憶を呼び起こさせた。
「殺す……殺す……殺してやるぞ! ミズガルズ! 貴様を葬って、私は再び世界をこの手に握るのだ!」
かつて世界を手に入れかけた魔王と、最強と謳われる世界蛇が対峙した。最後の火蓋が切って落とされる時が来たのだ。
◇◇◇◇◇
厄介な相手だ。アビスパスを見るなり、ミズガルズはそう感じた。何が厄介なのかは、言うまでもない。アビスパスはアシエル王の中にいるのだ。攻撃したらどうなるのかなど、子供でも分かる。傷付くのはアビスパスではなく、アシエルだ。
アビスパスの方も、ミズガルズが攻撃したくても出来ないということを分かっているのだろう。頬は緩み、余裕に満ち溢れていた。そうして彼はおもむろに懐をまさぐり始めたかと思うと、唐突に拳銃を取り出した。間髪入れずに乾いた銃声を響かせる。
驚異的な反射神経と動体視力をもってして、ミズガルズは何とか弾丸の群れを躱してみせた。相当の余裕があるらしく、かつての魔王はにやけた笑みを崩さない。
「はっ! いきなり鉛の玉でご挨拶とはな……! まったく、有難いよ……っ」
「くくっ、そうですか! では、もっと差し上げましょう! 蜂の巣になると良い」
銃声が何発も何発も響く。時間にしてみれば、ほんの十数秒のことだっただろうが、ミズガルズにとってはまるで永遠のように感じられた。額に汗をかきながら、銃弾を避け続ける。そして、いずれ訪れるチャンスを待った。そう、弾切れの瞬間だ。
(くっそ……めちゃくちゃに撃ちやがって! なんて面倒な野郎だ)
舌を鳴らし、少年は片腕を突き出して障壁を張った。それだというのに、銃声は響き続ける。苛立つミズガルズが見る先、アビスパスは狂人のように高らかな笑い声を上げて、小銃を乱射していた。作戦も戦術も何もない。ただ、それは余裕の現れでもあるのだろう。ミズガルズは絶対に自分を倒せないと確信しているのだ。
「おっと……弾切れですね……」
そう言って、アビスパスは顔を下に向けた。銃弾の雨も止んだ。その瞬間、ミズガルズは弾丸のように駆け出した。この千載一遇のチャンスを逃してしまうわけにはいかない。懐に潜り込み、顎でも殴って気絶させてしまえば、勝負はついたも同然だ。
……しかし、そう考えて走り込んだにも関わらず、殴られて地面を舐めることになったのは、ミズガルズの方だった。何が起きたのか確かめる余裕も無いまま、ジンジンと熱を帯びる頬に手を当てる。それから彼はそろそろと顔を上げた。そこには上から見下ろすアビスパスのニヤついた笑顔が待っていた。
「くっ、くはははっ! どうしたのですか、ミズガルズ! 以前の貴様なら、こんな無様な姿は見せなかったはず。この五千年間、胡座でもかいて弱体化したのですか?」
嘲るようなアビスパスの言い草に、ミズガルズはカチンと来た。敵が腰に下げた長剣を抜いたが、そんな些事などどうでも良いとばかりに叫んだ。
「いちいち、うるせえんだよ! 今の俺は昔とは違うんだ! 分かったら黙ってさっさと退場しろ! てめえこそ銃なんかに頼って、とんだ雑魚だな!」
「……はっ、都合の良い言い訳ですね! おまけにあの頃に比べて口も悪くなっている……! ますます貴様のことが嫌いになった!」
アビスパスは悪鬼の如き形相で、ミズガルズに襲いかかった。ギラギラと光る白刃が振り下ろされ、ミズガルズは地面を転がり、間一髪で避ける。舌打ちなどする余裕もない。息を荒げながら立ち上がると、氷の剣を創り上げ、斬りかかってきたアビスパスの長剣を受け止めた。
刃と刃が擦れ合う度に耳障りな高い音が響く。ミズガルズもアビスパスも剣術は得意ではない。互いにあと一歩のところで、相手に刃を届かせることが出来ない。剣戟ばかりが鳴り響き続ける。終わりの見えない、永遠に続きそうな戦いだった。
苛立ったミズガルズが後方に跳んで、かつての魔物の王から距離を取った。アビスパスがすぐに追撃してくる様子はない。彼もアシエル王の肉体に上手く馴染めていないのか、疲労が溜まっているらしかった。顔面は汗にまみれ、呼吸はかなり荒い。
「良い加減にしろよ! 他人の身体なんか借りやがって! やられるのが怖くて、自分だけの力じゃ戦えないんだろ!」
挑発に乗れ、早く出て来い。ミズガルズは内心で強く祈る。が、目論見は外れ、アビスパスはアシエル王の内から出ようとはしない。
「何とでも言うが良い、ミズガルズ! 貴様が何と吠えようとも、私が自らこの男から出ない限り、勝利は我が物なのだ。貴様は一生、そこで這いつくばっていろっ!」
いつの間に装填を終えたのか定かではないが、アビスパスが再び取り出したものは先程の小銃であった。冷たい金属で出来た殺人のための道具だ。その黒い銃口がミズガルズに向けられた。
「……ミズガルズ、貴様には何も出来ない。貴様では私を止められない! 私は新時代の覇者となり、貴様はそのための糧と化すのです。……残念でしたね、退場するのは私ではなく……どうやら貴様の方らしい」
勝ち誇ったアビスパスが引き金に掛けた指に力を込めた、その瞬間。脱兎の如く飛び込んできた影があった。強烈な体当たりを喰らい、アビスパスの狙いは外れ、銃声と共に弾丸はあらぬ方向に飛んでいった。そして、ふらつき、銃を取り落としたアビスパスの頬を、白くしなやかな手が襲った。
…………パァン…………!
銃声とはまた違った乾いた音が響いた。誰もが呆然とする。ミズガルズはもちろんのこと、打たれたアビスパスでさえも。
「父上を……返せ」
小さな呟きだったが、そこには口を挟めない凄味があった。現に誰も余計な言葉を紡ぐことは出来なかった。
「……父上から出て行け! この卑怯者!」
エルシリアが細い身体を震わせて、精一杯の叫びを上げた。そして次の瞬間にはミズガルズが叫ぶことになった。
「ばかっ! 早く離れろ、エルシリア!」
狂気の笑みを浮かべ、ナイフを手に握り、王女に襲いかかるアビスパスの姿があったからだ。