第9話 この悪を、終わらせる
ハイソル・ガーデン子爵は、眠れていなかった。
寝台には入り灯りも落としたが、どうにも胸騒ぎがしていたのだ。
妻の寝息は静かで、廊下の向こうには娘の部屋があり、さらに奥には嫡男の部屋がある。
守りたいものは、すぐそばにあった。
だが目を閉じるたびに、机の上で裏返した嘆願書が浮かぶ。
神父の遠慮がちな筆跡に、消えた子どもたちの名。
そして、その横に置かれた商会からの献金目録。
どちらも自分の机にあり、自分が選んだものだ。
その事実が、眠りを遠ざけていた。
だから深夜、扉が叩かれた時、ハイソルはすぐに体を起こした。
「入れ」
部屋へ飛び込んできたのは、子飼いの伝令だった。
外套には夜露がつき、息は乱れている。
いつもなら礼を整える男が、今は膝をつくのが精一杯という様子だ。
「ハイソル様、南門の商館で異変が起きています」
ハイソルの胸が、嫌な音を立てる。
例の商館で起きた事件と聞いて、何のことか分かってしまう。
きっと攫われた子供を取り戻しにきた何らかの勢力が、商会とぶつかっているのだろう。
そう確信を得つつも、ハイソルは努めて冷静なふりをして聞き返した。
「何があった」
「倉庫街で騒ぎが広がっています。商館とつながる者たちが武器を持って動き、裏通りでは雇われた荒くれが集まり始めています。ただ……」
伝令はそこで言葉を詰まらせた。
「もう既におおよその子どもが、無事に救い出されています」
ハイソルは不自然な報告に眉を寄せる。
相手は商会とはいえ、子爵家や犯罪組織と深いつながりを持つ者たちだ。
いくら衛兵が訓練を受けた武装集団といえど、そう簡単に傭兵や犯罪組織を相手に、子供を救い出し決着をつけることなど不可能だった。
「業を煮やした衛兵が援軍を呼び、動いたのか……」
「いいえ。そうではありません。神父様からの伝言では、名も知らぬ少女が南門の商館へ踏み込んだとのことです。見張りは倒されていますが、死者は出ていません。ただ一方的に、倉庫からは、孤児と思われる子どもたちが外へ出されていると」
ハイソルはその言葉を、すぐには理解できなかった。
救い出した者の存在も、動機から結果まで、まるで意味不明だったからだ。
この町には、長く見逃されてきた悪がある。
衛兵も、家臣も、誰も真正面から踏み込まなかった場所だ。
そこへ、なんかしらんけど少女が入って暴れている。
なぜ、どうやって、誰の命令で。
これは伝令の冗談かなにかなのか?
その疑問より先に、別の事実が胸に刺さる。
死者は出ておらず、子どもだけが救い出されているという事実だ。
それはまるで、悪を断つためではなく、明日を取り戻すためだけに動いているようだった。
「神父が、そう言ったのか」
「はい。情報の出所はシーカーの少年とのことです。少女が商館の裏手で、子どもが保管されている、と口にしたのを聞いたと。それを聞いた神父様は、すぐに領主館へ知らせるべきだと」
ハイソルは神父の判断を聞いて、息を吐いた。
今朝、自分が会わなかった男。
もう少し待てと、何度も言わせてきた男。
その神父が、夜中に報告を寄越したのだ。
それはきっと、もう待てない、という最後通告なのだろう。
廊下が騒がしくなる。
おそらく伝令の声で嫡男が目を覚ましたのだ。
足音が近づき、扉が開いた。
「父上、何が起きているのですか」
寝間着の上に上着を羽織っただけの姿だ。
だが、その目は決して眠たげではなく、むしろ、火のようなものが宿っている。
ハイソルは答えようとして、口を閉じた。
何が起きているかなんて、自分の方が知りたかった。
ただ現実として町の悪が暴れていて、意味不明の少女によって子どもが救われている。
そう、名も知らぬ少女が戦っているのだ。
そしてこの町で最も力を持つはずの自分は、今もまだここにいる。
その沈黙だけで、嫡男は何かを察したのだろう。
彼は伝令を見て、それから再び父を見た。
「孤児院の件ですか」
「……南門の商館だ。犯罪組織とつながる者たちが動いている。だが、少女が子どもを救い出しているらしい」
嫡男の顔が変わる。
驚きでも怒りでもなく、それは、悔しさだった。
「名も知らぬ少女が、ですか」
その呟きに答えるものはいない。
そんな俯いたままの父を見て、嫡男は一歩前へ出る。
「父上、顔をあげてください。前を見るのです。名も知らぬ少女が、いまも私たちが見て見ぬふりを続けてきた、この町の諦めと戦っているんですよ」
嫡男の説得に対し、ハイソルは拳を握った。
その言葉が間違っていると否定したかったんじゃない。
ただ、その先を言われてしまえば、もう戻れなくなると分かっていたからだ。
子爵は、自分の守ってきた家族を言い訳にして、いままで目をそらしてきた。
なら、その家族がもう守らなくていい、名も知らぬ少女に戦いを任せるのは、恥じであると言ったなら……。
ハイソルには、もうそこから先の逃げ場など、用意されていなかったのだ。
「お前には、まだ」
「まだわからないと言うのですか」
嫡男は父の言葉を遮った。
昨日までなら、言えなかっただろう。
貴族の子として、父に逆らいきることはできなかったから。
だが今夜だけは、彼の声はもう止まらなかった。
「私がいつまでも子供だと思っているのですか? 父上が何を守ろうとしていたのかも、そのために何から目を逸らしていたのかも。ずっと前から、すべて分かっていたのです」
「……家を守らねばならなかったのだ。だから」
「ならば、その家の子である私が言います」
嫡男の目が、まっすぐに父を貫く。
それは若かりし頃の子爵が、今の子爵を見て下す裁きのようにも思えた。
「貴族が、私たちが、あなたが逃げてどうするのです!」
部屋が静まり返った。
伝令は息を呑み、扉の外に控えていた家令も動けないでいる。
ハイソルだけが、ゆっくりと目を閉じた。
すべての言い訳が、崩れていく音がした。
家族を守るためだの、領地を守るためだの……。
今は動けない?
もう少し待てだと?
何が、時期が悪いだ……。
その言葉の上に、何年も何年も積み上げてきた自分がいた。
だが、守るべき家族の一人が、逃げるなと言っている。
ならばもう、逃げ道はなかった。
そこまで言われてしまえば、子爵は腹をくくるしかなかったから。
ここでさらに逃げた先へ、家族の安寧があるとは思わなかったから。
ハイソルは立ち上がり、廊下へ出る。
その足は、今までより重かった。
当然だ、いまからハイソルが行うのは、この町に潜む悪ごと家臣や自らの家を斬り伏せる行為だからだ。
この町の悪を潰せば、きっとしわ寄せはあらゆるところに及ぶだろう。
そこには、ハイソル自身に及ぶ傷もあるだろう。
しかしもう、不思議と迷いはなかった。
執務室へ向かうと、壁に掛けられた剣が目に入る。
ガーデン家に代々伝わる剣。
式典のために磨かれ、錆びないよう手入れされ、だが長い間、誰かを守るためには抜かれなかった剣。
ハイソルはそれを壁から外した。
鞘ごと手に取る。
革の感触は、記憶よりも硬かった。
そして家令に目を向けて、決断を下す。
「領主館の衛兵を起こし、南門へ向かわせろ。さらに商館、倉庫、関係する荷車をすべて封鎖する。抵抗する者は問答無用で捕縛。そのほか、帳簿、契約書、地下倉庫への鍵、すべて押さえろ」
家令の目が大きく開かれる。
「商会を、敵に回されるのですか」
「それは違う」
ハイソルは剣を腰に帯びる。
その姿には、もう覚悟の決まった者の覇気が宿っていた。
「私が、今まで見逃していた悪を敵と認めるだけだ」
その言葉を聞いて、家令は深く頭を下げる。
「かしこまりました」
廊下の向こうで、鐘が鳴らされた。
領主館の夜が、一気に動き出す。
衛兵たちが寝台から起き、鎧を身につけ、槍を取る。
馬小屋では馬が嘶き、家臣たちが顔色を変えて集まり始める。
ハイソルはその喧騒の中で、嫡男へ向き直った。
「この件が片付いたら、私はお前に爵位を譲る」
何を言われたのかわからず、嫡男の顔が強張る。
彼はたしかにもう学園を卒業した身だが、貴族家の当主として立つには、まだまだ若い。
経験不足といってもいい。
だから父がなぜそう判断したのか、理解できなかったのだ。
「父上……?」
「少し早いが、当主に何かあったときの対応としては、貴族では珍しいことでもない。王家への報告は通るはずだ」
ハイソルは窓の外を見た。
闇の中に、かつて子爵が守りたかった町がある。
パンが焼かれ、子どもが眠り……。
そして、自分が見捨ててきた町の姿だ。
「私は長く、諦めることに慣れすぎた。守るべきものの名を使い、守れなかったものから目を逸らした」
これが父にとって、当主としての最後の仕事になると感じたのだろう。
嫡男は何も言わず、ただじっと聞いていた。
「お前はまだ未熟で、経験も足りない。だから、この件はすべて私が片付ける。見逃してきたのは私だからだ。ならば剣を抜くのも、責を負うのも、私でなければならない」
ハイソルは息子の肩に手を置いた。
「だが、この先のガーデン領は、お前が守れ。少なくとも今夜、私よりも前を見ていたお前には、その資格がある」
嫡男は唇を噛んだ。
悔しさと、恐れと、誇りが混ざった顔だった。
「私は、逃げない領主になれるでしょうか」
「わからんな」
ハイソルは短く言った。
「だが、……ならなければならない。私の失敗の上に立つのなら、なおさらだ」
外で馬が用意された。
ハイソルは剣の柄に手を置く。
抜く必要があるかはわからない。
この剣は武力の象徴だ。
だが同時に、権力の剣でもある。
彼が今から振るうべきものは、刃だけではない。
命令であり、法であり、それらすべての責任だった。
領主館の門が開く。
夜の町へ、ガーデン子爵家の衛兵が走り出した。
誰かの不幸と諦めの上で眠っていた家が、ようやく剣を取ったのだ。
ハイソル・ガーデン子爵は馬上で顔を上げる。
名も知らぬ少女が何者なのか、彼はまだ知らない。
だが、その少女が町の諦めを焼いていることだけは、もう分かっていた。
「南門へ」
彼は命じた。
「今夜で、この悪を終わらせる」




