第7話 それはパンではなかった
朝の宿には、焼き直したパンの匂いが漂っている。
昨日の夜、ホムホムははじめてパンを食べた。
それは温かくて、少し硬くて、涙が止まらなくなる味だ。
だから今、彼女は宿の女将にもらったパンを両手で大事に抱えている。
布に包まれた小さなパン。
冷めてはいるが、ホムホムにとっては宝物だった。
「本当に持っていくのか?」
フィリップがそう尋ねると、ホムホムは当然のように頷いた。
「はい。これは、私の主人公が負けなかった味です。持ち運ぶべきでしょう」
「パンの持ち方じゃないんだよなあ……」
グリが足の様子を確認しながら笑う。
昨日の傷はまだ残っているが、女将の手当てとケーラの回復魔法のおかげで、ほぼ問題なく歩けるようにはなっている。
ケーラは眠そうな顔で伸びをしながら、ホムホムの抱えたパンを見た。
「まあ、宝物を持つみたいにしてるからね。落としたら大変そうだよ」
「落としません。私はスーパーホムンクルスです」
「パンの保護に特化した存在みたいになってるね、この子」
ホムホムはそれを褒め言葉として受け取った。
四人が宿を出るころ、町はすでに動き始めていた。
市場では荷車の車輪が石畳を鳴らし、職人たちが店の戸を開けている。
夕方に温かいパンを食べた食堂も、朝には別の顔をしていた。
人が朝を始めている。
それだけで、ホムホムの胸は熱くなった。
フィリップたちが向かったのは、町の中心から少し外れた場所にある教会だった。
あまり大きな建物ではない。
白い壁はところどころ古び、屋根の一部には補修の跡がある。
けれど庭は掃かれていて、入口の脇には小さな花が植えられていた。
教会の裏手には、孤児たちが暮らす建物が続いている。
「神父のところなら、しばらく安心だと思う」
フィリップは門の前で足を止め、慎重に言葉を選ぶように話した。
「ホムホム。俺たちは組合に報告へ行く。巨人の骨のことも、君のことも、少し整理しないといけない。だから、その間はここにいてくれ」
ほほう、とホムホムは頷く。
どうやら自分はこれから、神父とやらのところに預けられるらしい。
それが何を意味するのか分からないため、いま一生懸命考えているのだ。
だがパンを食べさせてくれたフィリップは、きっと悪い人間ではない。
ならばきっと、信じるべきなのだろうと思っていた。
「神父は俺の知り合いだ。信頼できる人だよ」
ホムホムは教会を見上げる。
信頼するフィリップが言うに、神父は信頼できる人で、そこは安全な場所のようだ。
そして自分はそこに配置される。
いくつかの言葉を頭の中で並べ、彼女は真面目な顔で結論を出した。
「私は神父のところに配備されるのですね。つまり、ホムホムの保管ですか?」
フィリップが一瞬だけ言葉を失った。
ちょっと意味がわからなくて、目をぱちぱちとさせている。
だってそれでは、まるでこのホムホムが兵器か何かみたいじゃないか、と思ったからだろう。
「いや、違うぞ? 保管じゃなくて保護だ。困ってる子を、安全な場所で見てもらうってことだ」
「私は困っているのですか?」
「少なくとも、町の常識にはかなり困ってる」
グリが思わず吹き出したが、フィリップの顔は真剣だった。
「俺は、君を戦わせるために連れてきたんじゃない。安全に暮らせるなら、それが一番いいんだ」
ホムホムはその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
戦えることと、安全であることは違う。
同時に、強いから守られなくていいという話でもないのだ。
でも生まれて間もないホムホムには、それらがまだ上手くつながらない。
けれどフィリップの声には、昨日のパンと同じような温かさがあった。
「わかりました。私は保管されます。いえ、保護されます」
今度はちゃんと言い直したので、フィリップは少しだけ安心した顔をした。
扉が開き、神父が姿を見せる。
神父は痩せた初老の男だった。
髪には白いものが混じり、着ている法衣は丁寧に繕われている。
目元には疲れがあるが、フィリップたちを見ると柔らかく笑った。
「フィリップ。無事でよかった」
「無事とは言いにくいですけど、戻れました。神父様、頼みがあります」
神父は分かっているとばかりにホムホムを見た。
とても簡素な服だ。
薄い金色の髪には艶があり、赤い瞳はどこか誇り高さを感じさせる。
しかし服を見る限り、まともな扱いをされてこなかった子なのだろう。
歳もおそらく十代前半で、グリより一年、二年、年上なくらい。
ここまで見れば、孤児院でしばらく保護するには十分だった。
そして大事そうに抱えられたパンと、腰にある古びた剣。
何か特殊な事情がある子に違いなく、だからこそ神父がここで放り出すわけにはいかない子供なのだ。
ホムホムの出で立ちに神父は最初こそ驚きはしたようだが、すぐに膝を折り目の高さに合わせた。
「君がホムホムさんですね。話は途中まで聞いています。ここでは、好きに休んでください」
「私は保護されに来ました」
「そうですか。それはそれは、よく来てくれました」
神父は目を細めて微笑んだ。
その笑顔はまるで、ホムホムの未来を大事にしてくれているかのように、とても優しかった。
だからホムホムは、手に抱えていたパンを見下ろす。
ここには同じように保護された子どもが、たくさんいるらしい。
なら、この負けない味を知るべきだと思ったのだ。
ちょうど庭の奥から、何人かの子どもたちが顔を出していた。
見慣れない少女が来たことに気づき、遠巻きにこちらを見ている。
ホムホムは何の遠慮もなくてくてくと歩いていき、布を開いた。
「私の主人公が負けなかった味です。あなたたちも食べるべきでしょう」
子どもたちは、その妙に自信たっぷりな言葉に目を丸くした。
いきなり現れた赤い瞳の少女が、宝物のようにパンを差し出している。
何を言っているのかはよくわからないが、けれどパンはパンだった。
最初に近づいたのは、とても小さな女の子。
「ねえちゃ、くれるの?」
「はい。このホムホムが分割してあげます。少しお待ちなさい」
ホムホムは女の子が食べやすいように、パンを丁寧にちぎった。
大きさが同じになるよう、真剣に見比べる。
少し片方が大きいと、さらにちぎって調整した。
どうやらここは譲れないラインらしい。
均等に味わえないパンは、きっとホムホムにとっては悲しいことなのだろう。
小さな欠片を受け取った女の子が、ぱくりと食べる。
「おいしい」
その一言で、他の子どもたちが一気に寄ってきた。
一度走り出したちびっこは、もう止まらない。
我先にとホムホムに殺到し、ホムホムによじ登ろうとする幼児や、なにがしたいのかパンを見て踊りだす子供がいる。
もはやお祭り騒ぎである。
当然、神父が慌てて止めようとしたが、ホムホムは動じなかった。
むしろ、パンを分ける自分の役割に誇りを持っているらしく、お祭り状態のちびっこたちの前で背筋を伸ばしている。
「順番です。人類は順番を守ると、だいたい平和になります」
「お姉ちゃん、変なこと言う!」
「変ではありません。しかし疑問を持つことは認めましょう。あなたには才能があるようです」
子どもたちは意味不明な少女の登場に、おもいきり笑った。
何を言っているか全然分からないが、とにかく仲良くできそうだと思っているのだ。
そしてパンを待つ間に、ひとりの少年がホムホムの顔を覗き込む。
「お姉ちゃん、何歳?」
ホムホムはパンをちぎる手を止め首を傾げた。
本人は、年齢か~、しらんけど、と内心で思っているのだ。
なにせ水槽の中で過ぎた時間を年齢と呼ぶのか、判定が難しかったから。
目覚めてからの日数を年齢と呼ぶのか。それとも、体の見た目で判断するものなのか。
どれもよくわからないし、年齢なんて別にどうでもよかった。
なので、一番確かなことを言う。
「不明です。ですが確実にホムホムです」
「年じゃないよ、それ!」
すると次に、別の子が彼女の腰の剣に気づいた。
「その剣、本物?」
ホムホムは剣の柄に手を添える。
子どもたちの手が触れないように、けれど見えないように隠すのでもなく、大事そうに抱え直す。
「はい。私の主人公の剣です」
「主人公ってなにー?」
子どもたちの声が重なった。
ホムホムはしばらく顎に手を当てて考えた。
あの騎士をどう説明すればいいのか、まだうまくわからない。
名前も知らないし、勲章とかいうものもどれだけあるのか知らない。
どこの国の人だったのかも謎だ。
けれど、水槽の中で見た背中を覚えている。
怖いと言いながら、走るのをやめなかった人。
負けたように見えて、それでも信じた明日を証明した人。
「とても強くて、負けなかった人です。無敵です」
子どもたちは、なんだかよくわからないまま「すごい」と言った。
だって無敵の人だ。
それはつまり、最強ということなのかもしれない。
子供たちはなんだか嬉しくなり、再びホムホムに群がった。
そんな子供たちの元気な様子を見て、ホムホムは満足気に頷く。
「そうです、すごいのです。そして、あなたたちもパンを食べればきっと、すごくなれます」
もう群がっている子供たちは話を聞いていなかったが、その声があまりに真剣だった。
そんな様子を、神父は離れた場所で見ていた。
その顔は穏やかで、とても眩しいものを見るような笑顔だった。
けれど、ホムホムは気づいた。
神父の目は、時々、庭の端にある空っぽの椅子へ向かう。
食堂の小さな机にも、使われていない椀がいくつか重ねられている。
子どもたちが騒いでいる輪の中にも、不自然な隙間があった。
それはきっと、そこに誰かがいたような隙間であり、誰かが、いなくなったあとの形だ。
でもホムホムにはまだ、それが何を意味するのかまではわからなかった。
そうして昼の間、ホムホムは何度も子供たちに囲まれながら、孤児院で多くのことを学んだ。
食事の前には手を洗うとか、部屋で剣を振り回してはいけないとか。
窓の桟に登る子どもは怒られるが、怒られた子どもは、なぜか少ししてからまた登るとか。
そういう日常のあれやこれだ。
こうしてみると世界には、ホムホムの知らない法則がたくさんあった。
きっとそのどれもが、騎士の信じた明日の中にあるものなのだと思う。
夕食は薄いスープと硬いパンだった。
ホムホムはそのパンも大事に食べる。
子どもたちは彼女の食べ方をまねして、いつもよりよく噛んだ。
神父はそれを見て、なぜか困ったように笑っていた。
まるで、この平和な日常へ懺悔するかのように……。
そうして今日が終わり、ついに夜が来る。
子どもたちは一斉に寝床に入っていく。
誰かが小さく咳をして、別の誰かが寝言を言う。
布団は薄かったが、部屋には人の眠る気配があった。
ホムホムは寝台に横になって天井を見上げる。
ホムンクルスにも眠る必要はある。
けれど、すぐに眠れるわけではなかった。
今日見たものが、頭の中でゆっくり動いているのだ。
パンを食べて笑った子どもと、空っぽの椅子を眺める、神父の泣きそうな目。
その時、廊下で小さな足音がした。
ホムホムが脳内の魔導マップを確認すると、そこにあった反応は神父のものだった。
彼はみんなが寝静まったあと、ひとりで廊下を歩いていく。
足音はできるだけ殺され、手には小さな灯りがある。
ホムホムはもしやと思い、そっと起き上がった。
夜にひとりで、こっそりとどこかへ向かう。
それはきっと、とても大切な用事なのだろう。
もしかすると、パンを食べに行ったのかもしれない。
ホムホムは期待を膨らませ、静かにあとを追った。
だが神父が向かったのは食料庫ではなく、教会の礼拝堂だった。
月明かりが細い窓から差し込み、女神像の足元を淡く照らしている。
昼間は子どもたちの声が聞こえていた場所が、夜には別の場所のように静まり返っていた。
神父は女神像の前に膝をつく。
ホムホムはそんな神父の様子を見て、扉の横の壁際に立っていた。
隠れているつもりはない。
ただ、神父が像に向かって話しているので、前に出て邪魔をしてはいけない気がしたのだ。
そうしてしばらくお祈りを観察していたホムホムは、きっと神父は祈っているのだと思った。
けれど話を聞いていくうちに、何か違うと分かりはじめる。
「……リナ。すまない」
神父の声は、今にも消えそうなほどに、とても小さかった。
そして震えた声で誰かの名を呼び続ける。
「トム。カイ。ミリ。守れなくて、すまない」
ひとつ、またひとつ。
神父は両手を組んでいたが、それは救いを求める手というより、何かに縋りつかなければ崩れてしまう人の手に見えた。
「私はまた、待ってくれと言った。もう少しだけ耐えてくれと。助けを求めている子どもに、そんなことしか言えなかったのだ」
女神に懺悔するその姿は、許しを請う者の姿ではない。
自らの罪を天上へと捧げ、いつの日か、この罪を必ず罰せよと訴えかけているような熱がこもっている。
「領主様に訴え、衛兵にも話した。だが、何も変わらなかった。私には、あの子たちを取り返す力も、次の子を守りきる力もない。これが道なき子供を支えると誓った、神父の力か」
怒りにも似た報告を上げる神父は、女神像の前で深く深く俯いていた。
組んでいる両手は力のあまりに白くなり、開いている目からは涙が流れる。
それは祈りというにはあまりに激しく、そして何もできない虚しさに打ちひしがれる、諦めにも似た大人の心だった。
「私は大人だ。守る側でなければならない存在だ。だが私は、なにもできない。無力なのだ。本当に……、すまない」
礼拝堂には、ついに嗚咽が落ちた。
その声は、子どもたちに聞こえないように押し殺されていたが、だからこそ、余計に痛かった。
その様子を見ていたホムホムは、いまも壁の向こうで立っていた。
神父の行く先に、パンはなかった。
そこにあったのは、人の怒りと、諦めの涙だった。
なによりそれは、最後の瞬間、ホムホムに懺悔した騎士の心にも似ていた。
フィリップが巨人の前で、俯いてしまった時にも似ていた。
でも、今の涙はもっと長く、深く。
何度も飲み込まれてきた、神父の時間そのものだった。
子どもたちが、明日を諦めなければならないこと。
神父さまが、俯いてしまうこと。
それが、悔しい。
ホムホムの胸の奥で、騎士の勇気を受け継いだ者としての熱が灯った。
赤い瞳が、暗い廊下で揺れる。
どくん、どくんと瞳が赤く脈打つ。
その光は怒りの色であり、悲しみの色。
そして何より、悔しさの色だ。
女神像の前で泣く神父は、壁の向こうにいる少女に気づかない。
ただ、夜の孤児院の片隅で。
人の諦めを、悔しいと泣く少女の瞳だけが、どくん、どくんと燃えていた。




