第26話 お金くんは忙しい
翌朝、ホムホムが目を覚ますと、宿の一階には朝食が用意されていた。
籠の中には、焼きたての丸いパンが二つ。
成人一人分以上という契約を、余裕をもって満たしている。
ホムホムは椅子へ座る前に、パンを両手で持ち上げた。
「契約が守られています」
表面を指で押すと、ふわりと元の形に戻った。
大きさだけでなく、柔らかさにも将来性がある。
ホムホムはパンの持つ可能性に満足してうなずき、まず一つ目を半分に割った。
「ロッシュは順調です」
何が順調なのかは、迎えに来た商館の使用人にも分からなかった。
ただ、朝食を食べ終えた騎士は非常に機嫌がよく、宿を出てからも、磨かれた鎧を朝日に輝かせながら、わずかに左右へ揺れていた。
富都ラウゼンの大通りは、朝から多くの荷車で埋まっている。
酒樽を運ぶ者。
絹を積んだ馬車を引く者。
夜通し賭博をして、重い足取りで家へ帰る者。
その中心に、ロッシュの商館があった。
三階建ての石造りで、正面には広い荷下ろし場がある。
裏手にはいくつもの倉庫が並び、剣を腰に差した傭兵たちが出入りを見張っていた。
ホムホムが商館へ入ると、奥の長机でロッシュが帳簿を確認していた。
「遅刻はしていないようだな」
机の周囲には、支払いを待つ荷運び人や職人が並んでいる。
ロッシュは顔を上げただけで、すぐに銀貨を数える作業へ戻った。
ホムホムは窓から差し込む光の位置を確かめ、胸を張った。
「契約開始の鐘より、半分ほど早く到着しました。ホムホムは時間にも才能があります」
ロッシュは返事をしない。
代わりに、荷運び人へ銀貨を六枚渡し、受領書へ署名を求める。
受け取った男が数え直すと、銀貨は一枚多かった。
男は一瞬だけ黙り、そのまま袋へ入れようとする。
「七枚あるぞ」
ロッシュは帳簿を見たまま告げた。
荷運び人の手が止まり、周囲の視線が集まる。
男は気まずそうに銀貨を一枚戻すと、逃げるように列から離れていった。
ホムホムはその背中を見送り、次にロッシュを見る。
「多く渡したのに、返してもらうのですか」
商館の奥では、別の職人が受け取った銅貨を数えていた。
一枚足りないと分かると、ロッシュはすぐに不足分を追加させる。
多くても駄目、少なくても駄目。
決められた数でなければならないらしい。
「契約は六枚だ。七枚渡す理由がない」
ロッシュは淡々と答え、次の書類へ手を伸ばした。
その言葉に喜びも怒りもない。
銀貨一枚の間違いは、善意でも悪意でもなく、ただ直すべき数字だった。
やがて列の最後から、仕立てのよい服を着た男が進み出た。
四十代ほどの商人で、顔色が悪い。
帽子を胸に抱え、長机の前で深く頭を下げる。
「返済を、あと一月だけ待っていただきたい」
そこで、商館の空気が変わった。
周囲の者たちが仕事を続けながら、聞き耳を立てている。
男の店が失敗し、仕入れた染料が売れ残っているという噂は、すでに町へ広まっていた。
ロッシュは帳簿を開き、男の名前が書かれた行を指でなぞった。
「期限は昨日までのようだが?」
男はさらに頭を下げた。
帽子を握る指が震えている。
額には汗が浮かび、何度も口を開いては言葉を選び直していた。
「来月には南方の商隊が来る。その時に染料を売れば、必ず返せる。長い付き合いではないか」
ロッシュは男ではなく、机の上に置かれた契約書を見ていた。
契約には、返済できない場合の取り決めも書かれている。
倉庫に残る染料と、所有する荷車二台を売却し、残債へ充てる。
「長い付き合いだからこそ、条件を変えることはできない」
商人の肩が震えた。
ロッシュが男の返済を待てば、その金を使って別の荷を買う予定が遅れる。
荷が届かなければ、運ぶ者の仕事もなくなる。
誰か一人を待つということは、別の誰かを待たせることだった。
「染料は正規の相場で買い取る。荷車も同じだ。売却額で足りない分については、新しい返済計画を作る」
ロッシュは一枚の紙を取り出し、数字を書き始めた。
男の事情を聞いていないわけではない。
買い叩くつもりもなかった。
だが、助けてほしいという願いに、ロッシュの声は一度も揺れなかった。
「よって、待つことはできない」
男はゆっくりと顔を上げた。
そこに浮かんでいたのは悲しみではない。
恥と怒りが入り混じった、濁った目だった。
何かを言い返しかけたが、商館にいる傭兵たちを見て飲み込む。
契約書を乱暴に受け取り、肩を怒らせながら出口へ向かった。
ホムホムは、その背中をじっと見ていた。
男が扉を開けた瞬間、わずかな風が商館へ流れ込む。
紙が揺れ、天井の梁から小さな木屑が落ちた。
ホムホムの赤い目が、静かに上を向く。
商館の天井は高い。
太い梁が何本も渡され、そのさらに上には、荷物を保管するための狭い屋根裏があった。
そこに、人の気配がある。
呼吸は浅く、魔力もほとんど外へ漏らしていない。
傭兵たちが気づかないよう、長い時間をかけて潜んでいたのだろう。
そして、その気配から伸びる悪意は、まっすぐロッシュへ向いていた。
ホムホムは何も言わず、壁際へ歩いた。
「待て、どこへ行く」
ロッシュは書類から目を上げなかった。
ホムホムは答えず、柱へ片足をかける。
次の瞬間には、銀色の鎧が音もなく宙へ浮かび、二階の手すりへ着地していた。
そのまま梁へ飛び移る。
「少し上に用事があるのです」
返事が聞こえた頃には、ホムホムの姿は天井の陰へ消えていた。
ロッシュは眉をひそめたが、商館にはまだ確認すべき支払いが残っている。
隣にいた傭兵へ視線を送ると、男は首を横へ振った。
異常には気づいていないらしい。
屋根裏にたどり着くと、そこはやはり暗かった。
そして積み上げられた木箱の隙間に、一人の男が伏せている。
黒い布で顔を覆い、手には細い弩を持っていた。
弩の先には、小さな針が装填されている。
金属の色が不自然に黒い。
男は梁を移動する気配に気づき、振り返った。
暗闇の中で、赤い目と視線が交差する。
ホムホムは剣を抜かなかった。
また同様に、声もかけない。
ただ、赤い瞳の奥から魔力を放つ。
目に見えない圧力が、男の頭蓋をすり抜け、脳へ直接触れた。
その瞬間、暗殺者の身体が硬直する。
弩を構えた腕から力が抜け、男は白目をむいたまま、その場へ崩れ落ちた。
ホムホムは毒針の向きを変え、床へ置く。
それから倒れた男を見下ろし、少しだけ首を傾げた。
パンを盗みに来たにしては、装備が多い。
けれど、ロッシュが狙われていたとは、まだ決まっていない。
この町には、パンを狙う者も多いかもしれなかった。
ホムホムは梁から飛び降り、何事もなかったように長机の横へ戻った。
「気を付けたほうが良いでしょう。いま、怪しい人物がいました」
ロッシュの羽根ペンが止まった。
戻ってきたホムホムの鎧には傷一つない。
呼吸も乱れておらず、ただ散歩から戻ったような顔をしている。
「怪しい人物だと?」
ホムホムは窓際に置かれていた昼食用のパン籠を確認した。
三つある。
朝の契約と同じく、大きさも十分だった。
「やはり、パンを狙っていたのかもしれません」
その直後。
屋根裏から、ドサッ、と重い音が落ちてきた。
商館中の者が天井を見上げる。
ロッシュは椅子を蹴るように立ち上がり、傭兵たちへ短く命じた。
その手には冷や汗が浮かび上がり、まさか、という思いが強く残る。
「……まずいな。上を確認しろ!」
三人の傭兵が剣を抜き、階段へ駆けていく。
しばらくして、屋根裏から怒鳴り声が聞こえた。
やがて黒装束の男が両脇を抱えられ、商館の床へ引きずり下ろされる。
傭兵の一人が、布に包んだ弩と毒針を机へ置いた。
「旦那を狙える位置に潜んでいました。毒も塗られています」
ロッシュは暗殺者を見下ろした。
男の顔に見覚えはない。
服にも武器にも、雇い主を示す印はなかった。
先ほどの商人が雇ったという証拠もない。
そもそも、ロッシュを恨んでいる者は一人ではなかった。
期限を延ばさなかった相手。
担保を取り上げられた相手。
不正な取引を断られた相手。
契約を破ったことはない。
だが、それで人の心まで納得するとは限らない。
ロッシュはしばらく黙り、暗殺者の手足を縛るよう命じた。
「警備を倍にする。屋根裏への出入り口も塞げ。こいつの身元は調べろ」
商館が一気に慌ただしくなる。
傭兵たちは追加の人員を呼び、職人は屋根裏の修理を頼まれた。
ロッシュはその場で警備費を計算し、今日中に払う報酬を帳簿へ書き足していく。
さきほど回収した金は、荷の仕入れへ回る。
その荷を運ぶ者へ給金が支払われ、警備を増やすためにも別の金が必要になる。
金貨も銀貨も銅貨も、休む間もなく人から人へ移っていく。
ホムホムは昼食用のパンを一つ受け取り、忙しく指示を出すロッシュを眺めていた。
そしてほんの少しだけ、お金というモノの価値に気づき始める。
お金くんは、パンになるだけではない。
荷物を運び、人を働かせ、怒らせ、時には怪しい人まで屋根裏へ連れてくる。
ホムホムはパンを一口かじり、深く納得したようにうなずいた。
「お金くんは、思っていたより忙しいのですね」
それはまだ世界を知らないホムホムにとっての、新たな気づきだったのかもしれない。




