第11話 三か月分のパンと旅
ガーデンの町を出てから、三か月が過ぎていた。
その間、ホムホムはよく歩いた。
山道を歩き、川沿いを歩き、森の中で道を見失い、脳内マップの上ではまっすぐなはずの場所を、なぜか三日ほど遠回りしたこともある。
けれどホムホムは、あまり困っていなかった。
なぜなら、世界にはパンがあったからだ。
ある町では、石窯の前で座り込んでいる料理人に出会う。
その料理人は、自分には才能がないのだと項垂れていた。
何度焼いても、隣町の料理人のように客を笑顔にできない。
新しい料理を作っても、誰も振り向いてくれない。
もう包丁を置こうかと思っている。
そんなことを言っていた。
ホムホムは彼の作った煮込み料理を食べた。
熱くて、舌を火傷しかけて、少し塩辛い。
けれど、具材は丁寧に切られているのが分かった。
肉は柔らかく、野菜には形が残っている。
そして何より、食べた人に温かくなってほしいという気持ちが、鍋の底からゆっくり上がってくるような味だった。
だからホムホムは、空になった器を見つめて言ったのだ。
「これにはパンが足りていないだけです」
料理人は泣きそうな顔のまま、意味がわからないという顔をした。
「あなたの料理には、明日を目指した勇気の味がありました。私は、あなたの敗北を認めたくありません」
そしてホムホムは、近くのパン屋から分けてもらった硬いパンを、煮込みに浸して食べた。
「完璧です。ほら、勝ちました」
その日から、料理人が包丁を置き俯くことはなくなったという。
別の村では、道端で転んだ子どもに出会った。
子どもは膝を擦りむき泣きながら、もう歩きたくないと言っていた。
家まではほんの少しの距離だったが、子どもにとっては世界の果てほど遠かったらしい。
ホムホムは子どもの前にしゃがみ込んだ。
「パンを食べますか?」
子どもは泣きながら首を傾げた。
「きっとあなたには、パンを食べる才能があります」
そう言って、ホムホムは自分の布包みから小さなパンを取り出した。
半分に割ると、少し形が歪んだ。
なので、ホムホムは公平さを保つため、さらに細かくちぎって調整した。
子どもは涙でぐちゃぐちゃの顔のままパンを食べた。
そして少しだけ笑った。
ホムホムは満足げに頷く。
「才能が開花しましたね。もはや家までの距離など、敵ではありません」
その子は、パンを持ったまま家まで歩いた。
そういうことが、三か月の間にいくつもあった。
ホムホムは町から町へ歩き、そのたびにパンを食べる。
丸いパン、黒いパン。
時には薄く伸ばして焼いたパンもあった。
変なところだと、やたら硬いパン。
驚いたものだと、中に豆が入っていて、噛むたびにほろほろ崩れるパン。
どれも違う味だった。
けれど、どのパンにもそこには人の明日があった。
朝起きて、粉をこねて、火を入れて、誰かに食べさせようとする人間の熱があったのだ。
だからホムホムは、旅を続けていた。
今も、彼女は田舎道を歩いている。
道と言っても、土が少し踏み固められているだけの細い道だ。
左右には背の低い草が揺れ、遠くには小さな森が見える。
空は青く、雲はゆっくり流れていた。
ホムホムの格好は、ガーデンの町を出た時からあまり変わっていない。
薄い金色の髪は長いまま。
服は相変わらず簡素で、旅の途中で少し補修した跡がある。
足には神父にもらった靴を履いているが、少し大きかった靴は三か月の旅でだいぶ馴染んできた。
腰には騎士の剣。
肩には小さな布袋。
中には、昨日の村で貰った固焼きパンが入っている。
ホムホムはそれを時々取り出して、もきゅもきゅとかじった。
「む。昨日より硬さが増しています。成長期でしょうか」
パンは答えない。
だがホムホムは、これはこれでよいことだと思った。
硬いパンは、長く食べられる。
長く食べられるということは、長く明日を支えられるということだ。
つまり、このパンはなかなか偉い。
そう結論づけていると、道の向こうから荷馬車を引く老人がやってきた。
老人はホムホムの剣と奇妙な服を見て、少し驚いた顔をしたが、すぐに会釈をした。
「嬢ちゃん、一人旅かい。どこへ行くんだ」
ホムホムはパンを飲み込み、真面目な顔で答える。
「騎士のいる町です」
「騎士? 騎士っちゅうと、あれかい? ゼグラント辺境伯の……」
「はい。正式な騎士です」
その言葉だけ、ホムホムの声が少し強くなった。
昨日の村で聞いたのだ。
この先には、ゼグラント辺境伯の治める大きな町がある。
王国の端にあるその領地は、他国との国境に近い。
だから王国から正式な装備を支給され、辺境伯家には本物の騎士団があるらしい。
──本物の騎士。
それを聞いた時、ホムホムの胸の奥は、ぱっと熱くなった。
ガーデンの町には騎士はいなかった。
領主の衛兵や自警団はいたが、王国から正式に任じられた騎士ではないと聞いていた。
けれど、この先にはいる。
それはホムホムにとって、ただの身分ではなかった。
鎧を着て、剣を持ち、誰かの明日を諦めなかった人。
水槽の向こうで、最後まで膝をつかなかった人。
最後には、自分に青空を見せられなかったと泣いた、ホムホムの最初の主人公。
その人と同じ言葉を持つ者たちが、この先にいる。
楽しみにしないはずがなかった。
「騎士がいるのです。きっと、ものすごく騎士でしょう。もしかすると、無敵なのかもしれません」
「そりゃあ、騎士なら強いだろうなあ」
老人はよくわからない顔で笑った。
「ゼグラントの騎士団は強いって評判だ。辺境の魔物も、山賊も、あの連中がいるから大人しくしている。まあ、嬢ちゃんみたいな子が一人で歩く道じゃないが」
「大丈夫です。私はホムホムです」
「それは大丈夫の理由になるのかい?」
老人はさらに困った顔をしたが、干し果物を一つ分けてくれた。
ホムホムはそれを受け取り、深く頷く。
「ありがとうございます。あなたには干し果物を配る才能があります。いずれ大成するでしょう」
「あははは。この歳でかい。そりゃどうも」
朗らかに笑った老人の荷馬車が、徐々に遠ざかっていく。
ホムホムは干し果物を少しかじり、すぐに固焼きパンと一緒に食べた。
すると突然、甘みが増した気がする。
「おそらく、組み合わせの勝利でしょう。この干しものには見込みがあります」
そう呟いた時だった。
風の向こうで、何かが鳴る。
金属がぶつかる音と、馬の嘶き。
誰かが必死に命を繋ごうとする、鋭い声。
ホムホムは足を止めた。
頭の奥の魔導マップが、周囲の地形を広げる。
道の先に馬車が一台、さらに人間の反応が複数。
それを囲むように、濁った魔力を持つ反応が大多数。
古い時代なら、汚染獣と呼ばれていたもの。
しかし今の時代では、魔物と呼ばれている存在。
ホムホムは無表情のまま、僅かに赤い瞳を細めて前方を睨みつけた。
おそらくこの先には、戦いがある。
そして、その中には諦めていない人の光があった。
次の瞬間、もうホムホムは走り出していた。
森の縁に出た時、そこには緑色の人型が群がっていた。
背は人間の大人ほどだが、やけに筋肉質だ。
皮膚は苔のように濁った緑色で、口元からは鋭い牙が覗いている。
手には粗末な棍棒や錆びた刃物を持ち、ぎゃあぎゃあと耳障りな声を上げていた。
その数は五十を超えている。
馬車は道の中央で止まっていた。
車輪の片方がぬかるみに取られ、逃げようにも動けない。
その周囲で、数人の騎士たちが剣を構えていた。
彼らの鎧はよく手入れされている。
肩にはゼグラントの紋章らしき意匠があり、剣の構えにも迷いがない。
一対一なら、緑の魔物に遅れを取ることは決してないだろう。
実際、騎士の一人が踏み込み、魔物の腕を斬り落とした。
別の騎士が馬車の反対側で盾を構え、飛びかかってきた魔物を押し返す。
彼らはとても強かったが、相手の数があまりに多すぎた。
馬車を守りながらでは、動ける範囲も限られる。
一匹を斬れば、別の三匹が隙を狙う。
魔物は騎士を倒せなくても、馬車の扉へ爪を伸ばせばいいと理解しているようだった。
「ゴブリンウォーリアー共を、扉に近づけるな!」
隊長らしき騎士が叫ぶ。
その声に、馬車の中で誰かが息を呑んだ。
小さな窓の奥に、白い手袋をした手が見えた。
そこにいるのは、ただの荷物ではない。
騎士たちが命をかけて守っている誰かだ。
しかしそれが弱点であると示すかのように、緑の魔物が笑うように鳴いた。
隊長の肩に傷が走り、血が鎧を濡らす。
それでも彼は一歩も下がらない。
「お嬢様に、指一本触れさせるな! 騎士がこんなところで、諦めるんじゃないぞ……!」
その怒声にも似た命令に、騎士たちが誇り高く応じる。
声は乱れていたし、もう息も荒い。
腕も度重なる連戦で、かなり重くなっている。
けれど、その瞳は折れていなかった。
馬車を背にして彼らは立つ。
怖くないはずがないし、死を考えないなんて無理だ。
それでも、誰も膝をついていない。
ホムホムは、その光を目に焼き付けた。
そして夢の中の騎士を思い出す。
目の前の騎士たちは、あの人ではない。
名前も時代も違うし、守っているものも違う。
それでも、背中の形が似ていた。
だってそれは、諦めない人の背中だった。
ホムホムの胸の奥で、どくん、どくん、と心炉が熱を帯びる。
二度も、騎士が負けるところを見るのは嫌だった。
あの時は、隣で戦えなかったかもしれない。
声も出せず、水槽の中で見ていることしかできなかった。
でも今は違う。
ホムホムには兵器として生まれた足と、無敵の主人公から受け継いだ、剣がある。
そして何より、彼から受け継いだ、赤い瞳に灯る熱がある。
その熱の名前を、人は勇気と言う。
「いきます」
誰に向けた言葉でもなく、ホムホムは地面を蹴る。
その瞬間、騎士たちの視界から緑の絶望が消えた。
いや、消えたというより、砕け散ったと言うべきだろう。
最初に落ちたのは、馬車の扉に爪をかけようとしていた魔物の首だった。
それが地面に落ちるより早く、別の魔物の胴が斜めに割れる。
さらに三匹、四匹、五匹。
何が起きているのか、騎士たちには全く見えなかった。
ただ戦場には、どこかパンの香りがする風が吹いていた。
金色の髪が光の線のように走り、赤い瞳が夜明け前の火のように揺れる。
剣の軌跡だけが、草原に銀の傷を残した。
緑の魔物たちが悲鳴を上げる暇もなく崩れていく。
森の縁へ逃げようとした群れも、次の瞬間には斬り伏せられていた。
馬車の下へ潜り込もうとした一匹は、いつの間にか背後に回っていたホムホムに足を踏まれ、首根っこを掴まれ、そのまま遠くの木へ投げられた。
ホムホムは少しだけ考える。
「今のは斬撃ではありません。投擲です」
そんなこと、今は誰も聞いていなかった。
最後の一匹が、恐怖に濁った目で棍棒を振り上げる。
ホムホムの赤い瞳が、もう一度脈打った。
どくん、と。
次の瞬間、最後の一匹となる緑の絶望は、自分が死んだことにも気づかずに脳を焼き尽くされていた。
そうして最後の一匹がドサリと倒れると、五十を超えていた緑の魔物は、ものの数秒で動かなくなるのだった。
どこか場違いな、平和すぎるパンの香りが辺りに漂う。
騎士たちは剣を構えたまま固まっていた。
誰一人として、すぐには状況を理解できないのだ。
だがいくら強かろうとも、見るからに人間である少女が彼らを助けたのは見れば分かる。
緑の絶望ことゴブリンウォーリアーが全滅したのを確認して、隊長がゆっくりと周囲を見回す。
どうやら、もう援軍はいないようだった。
ホムホムは剣についた魔物の血を軽く振り払い、それから騎士たちを見た。
その表情には、不甲斐ない騎士たちへ向ける怒りも失望もない。
ただ、どこか眩しいものを見るように、赤い瞳を細めていた。
「あなた方は、とても眩しかったです」
隊長はなんと返すべきなのか迷う。
礼を言うべきなのだろうか、それともまずは、名を尋ねるべきなのだろうか。
どこの所属か、何者なのか、どうしてここにいたのか。
聞くべきことはいくらでもあるが、その前に馬車の扉が開いた。
中から現れたのは、旅装の少女だった。
年はホムホムより少し上に見える。
淡い栗色の髪を肩のあたりで結び、服は旅装ながらも上質。
白い手袋をした指が、扉の縁を強く握っている。
「あなたが、助けてくださったのですか」
その声には、まだ恐怖の震えが残っていた。
けれど、彼女の目はまっすぐホムホムを見ている。
ホムホムは少し首を傾げた。
自分は助けたのだろうか。
たしかに状況的にはそうだ。
しかしホムホムとしては、騎士が負けるところを見たくなかったし、馬車の中の人が明日を奪われるのも嫌だった。
なので、だいたい助けたということでよいのだろうと思い直す。
「はい。たぶん助けました」
隊長がようやく我に返り、剣を収める。
そして深く頭を下げた。
「感謝する。あなたが来なければ、我らは持ちこたえられなかった。名を聞かせてほしい」
その時、ホムホムは内心でわくわくしていた。
だって正式な騎士が、自分に名を尋ねているのだ。
その気持ちはまるで推しヒーローに出会った子どものごとく、目を爛々と輝かせて、ふんす、ふんす、と鼻息を荒くしている。
それも、あいかわらず無表情で。
完全に不審者のそれである。
だってしょうがないのだ。
ホムホムの胸の奥では、ずっと何かがむずむずと動いている。
これはきっと、かなり大切な感情だ。
だから彼女は、三か月の旅で磨き上げた自己紹介を披露することにした。
ホムホムは胸を張り、自信に満ちた声で宣言した。
「私はホムホム。スーパーホムンクルスです」
騎士たちは、誰一人として意味を理解できなかっただろう。
しかし、馬車のそばで再び風が吹く。
薄い金色の髪が揺れ、ホムホムの赤い瞳が朝の光を受けてきらりと光った。
そして彼女は、もう一度だけ騎士たちを見て、満足そうに頷く。
「完璧に決まりました。私は自分の努力が恐ろしい」
ゼグラント辺境伯領へ続く道の上で。
三か月分のパンを食べてきたホムンクルスの少女は、また一つ、人間を好きになる理由を見つけたのだった。




