第1話 あなたの勇気
少女は、まだ名前を持っていなかった。
自分の手がどんな形をしているのかも、声がどんな響きを持つのかも知らない。
まぶたを開けたこともなければ、空気を吸ったこともないのだ。
温かな揺りかごのようなものの中で、ただ静かに浮かんでいる。
けれど、夢だけは見ていた。
その夢の中では、いつも一人の騎士が走っていた。
そこでは空は黒く濁り、かつて空を衝くように並んでいた塔は炎に包まれていた。
透明な壁は砕け、きらきらと光る破片になって通りに散らばっている。
そして道には人が溢れていた。
子を抱えて逃げる母親がいて、荷車を捨てて泣く老人がいた。
崩れた建物の影で、もう立ち上がることをやめてしまった兵士がいた。
世界が終わろうとしているのだと、夢の中の少女にもわかる。
きっと誰か一人の悪意ではなかったのだろう。
大地に満ちた魔力そのものが濁り、人々の恐怖を吸って黒い獣になっていく。
獣たちは瓦礫を踏み砕き、叫び声を追い、未来という言葉を笑うように吠えた。
その恐ろしい咆哮を聞いて、誰もが逃げていた。
だが、その中を逆向きに進む者がいる。
それは、ただの騎士だった。
決して豪奢な鎧ではない。
肩当ては割れ、胸甲には深い爪痕が刻まれている。
兜の隙間から覗く顔は疲れ切っていて、足取りも決して速くはない。
それでも彼は剣を握り、逃げる人々の流れに逆らって歩いていた。
すると誰かが叫ぶ。
「もう無理だ! あんなものに勝てるわけがない!」
その声に騎士は振り返らなかった。
ただ、剣を持つ手に力を込める。
「それでも俺は、明日は来ると知っている」
その声は大きくなかった。
人々の悲鳴と獣の咆哮にかき消されそうな、ひどく頼りない声だ。
けれど夢の中の少女は、その声だけを聞いていた。
「明日を捨てるな。まだ、誰かが生きている」
誰もその言葉に足を止めなかった。
騎士の言葉を信じてくれる者はいなかったからだ。
彼の背中についていく者だって、いなかった。
彼は王ではなく、名高い英雄でもなく、神に選ばれた勇者でもない。
ただ負けられるものかと剣を持ち、まだ明日は続くのだと鎧を着て、最後まで諦めたくないと願っただけの人だった。
黒い獣が彼の前に降り立つ。
騎士は迷いなく踏み込んだ。
振るった剣は獣の毛皮を裂いたが、濁った魔力はすぐに傷を塞ぐ。
逆に獣の爪が鎧を砕き、騎士の身体を地面へ叩きつける。
立ち上がれない、と少女は思った。
それなのに、騎士はもう立っていた。
何度も地面に手をつき、膝を震わせながら、それでも立ち上がった。
兜は落ち、口元から血が流れている。
剣を握る手も震えていて、いまにも取り落としそうだ。
恐ろしくないはずがなかった。痛くないはずがなかった。
けれど、騎士はもう一度、黒い獣の前に立つ。
「怖いさ」
それは誰に向けて言ったのか、もう自分でも分からずに騎士は笑う。
「怖いに決まっている。だが、怖いから明日を捨てるのなら、今日まで生きた人たちは何のために笑ったんだ」
その言葉を聞いたとき、少女の眠る奥底で、何かがわずかに揺れた。
騎士は走り続ける。
瓦礫の街を抜け、崩れかけた橋を越え、魔力の霧に覆われた森を抜けた。
追ってくる獣を斬り、倒れ、立ち上がり、また走る。
そのたびに鎧は壊れ、体は傷ついていく。
それでも彼は、ある場所を目指していたのだ。
そこは白い施設だった。
森の奥に隠されるように建つその建物は、周囲の街と同じように傷ついていた。
外壁はひび割れ、入り口の扉は半分砕け、古い魔導灯は火花を散らす。
それでも中には、まだかすかな光が見える。
騎士が扉に手をかけたとき、背後で獣が吠える。
彼は振り向きざまに剣を振るった。
濁った牙が砕け、黒い魔力が床を焼く。
しかし獣は一体ではなかった。
二体、三体と、壊れた通路の奥からも次々に影が迫ってくる。
それでも騎士は奥へ進む。
そうして目的地にたどり着いたとき、部屋の中央に、大きな水槽があった。
透き通った液体の中で、少女が膝を抱えて眠っている。
騎士はそこで初めて、剣を下ろした。
血に濡れた手を水槽へ伸ばし、硬い透明な壁に指先を触れさせる。
「……いた」
彼の声は、泣きそうだった。
少女はまだ眠っている。
目を開けることも、彼に返事をすることもできない。
水槽の中で育ちきらない体は、まだ世界へ出ることを許されていなかったからだ。
騎士は水槽の向こうの少女を見つめた。
「でも、俺ではどうやら、間に合わなかったらしいや」
それは、彼自身に向けた言葉だった。
黒い獣が部屋へ踏み込んでくる。
床が軋み、壁に亀裂が走った。
騎士は水槽に背を預けるように立ち、再び剣を構え歯を食いしばる。
もう勝てるはずがないことくらい、彼にもわかっていた。
それでも彼は、少女の前で膝をつかない。
たとえ自分の命が潰えようとも、何も守ることができなかったとしても。
眠る少女の前で、諦める姿を見せるわけには、いかないのだ。
だって彼は、この世界に生まれ命を継いできた、明日を生きようとする人間だから。
「すまない」
騎士は涙を流しながらも、誇り高く謝罪した。
「君を起こしてやれなかった。君に、青空を見せてやれなかった」
そんな騎士を夢で追う少女は、違う、と叫ぼうとした。
謝らないで。
あなたはずっと戦っていた。
誰も信じてくれない中で、誰よりも未来を信じていた。
あなたは、私の主人公。
だから謝らないで。
けれど、少女には声がなかった。
ましてや、いまはまだ指一本動かせない。
水槽の中で眠るだけの未完成な命は、彼に触れることもできなかったのだ。
騎士は覚悟を決めて、剣を握り直した。
「もし、いつか目を覚ますのなら」
獣が跳び、騎士が踏み込んだ。
折れない剣が、黒い魔力の中で火花を散らす。
──未来を、怖がらないでくれ。
夢はそこで途切れた。
それから少女は、何度も何度も同じ夢を見た。
騎士はいつも走り、いつも戦い、いつも最後に水槽の前へたどり着く。
そして少女は、いつも何もできないまま見ているだけだった。
それがたまらなく苦しかった。
どうして、と眠りながら思う。
どうして私は、あの時に目を覚ませなかったのだろう。
どうしてこの手は、あの人に届かなかったのだろう。
どうしてあの人は、最後まで立たなければならなかったのだろう。
胸の奥に、まだ名前を知らない感情が生まれていく。
それは悲しみよりも熱く、怒りよりも痛かった。
夢の中の騎士が、少女にとっての最初の物語だった。
最初の光であり、最初の主人公だった。
だから、あんな終わりを認めたくなかったのだ。
あの人が誰にも信じてもらえず、誰にも報われず、水槽の前で朽ちていく未来なんて、嫌だった。
そうだ、嫌だ。
嫌なのだ。
だってそんなのは、悔しいから……。
その瞬間、長い眠りの底で何かが灯る。
少女はゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、薄い青の揺らぎ。
そして自分が液体の中にいるのだと理解するまで、少し時間がかかった。
水槽の外では、古びた魔導灯が弱々しく瞬いている。
部屋は夢で見た時よりもずっと静かで、ずっと暗い。
装置が軋む音がした。
長い年月を耐えていた水槽が、ようやく役目を終えるように震える。
足元から液体が引いていき、少女の体が重みを取り戻す。
肺が初めて空気を求め、喉が焼けるように痛んだ。
前面の扉が開いた瞬間、少女は床へ倒れ込む。
初めて触れる床は、とても冷たかった。
しかしその硬さも、空気の乾きも、髪が頬に張りつく感触も、何もかも初めてだった。
何度も咳き込みながら、少女は震える腕で体を起こす。
部屋には誰もいない。
壊れた机もあるし、ひび割れた壁だって見える。
何より夢で見た白い施設は、もう白くなかった。
時間に削られ、静寂に沈み。
誰かの帰りを待ち続けたまま古びた、古い施設。
けれど、水槽のすぐそばには彼がいた。
騎士鎧の骸が、水槽にもたれるように座っている。
少女はその姿に、息を呑んだ。
それは、夢の中で何度も見た主人公の背中だった。
砕けた肩当てに、深い爪痕の残る胸甲。
最後まで手放さなかった無銘の剣。
そのどれもが、眠りの中で見続けたままそこにある。
少女は、ゆっくりと近づいた。
足はまだ、うまく動かない。
生まれたばかりの体は頼りなく、床に散らばった破片を踏むたびに痛みが走った。
だけどそれでも、少女は立ち止まれなかった。
騎士の前に膝をつく。
もう彼は動かないのだろう。
骸に声はなく、夢の中で聞いた「まだ終わりではない」という意志も、今は部屋のどこにも残っていない。
少女は震える手を伸ばし、鎧に触れた。
冷たい、あまりにも冷たい。
まるで、この騎士が最後に負けてしまったことを、示すかのように……。
「……悔しい」
そこで、少女の口から声が出る。
それは初めて聞く、自分の声だった。
少女はその響きに驚き、それからもう一度、胸の奥にあるものを確かめるように言った。
「悔しい、です」
これは決して、悲しいだけではない。
だって、胸が押し潰されそうだった。
夢の中で見ていた人が、ここで一人きりで眠っていたことが、悲しくないはずがなかった。
けれど、それだけではなかったのだ。
少女は騎士を助けたかった。
あの人が走っていた時に、隣を走りたかった。
あの人が獣の前に立った時に、一緒に剣を振りたい。
あの人が水槽越しに謝った時に、違うと伝えたい。
あなたは負けてなんかいない。
あなたの勇気は、ここに届いていた。
そう言いたかった。
なのに、最後は間に合わなかったのだ。
少女の頬を、温かなものが伝う。
何が起きたのかわからず、指先で触れる。
その指は濡れていた。
水槽の液ではなく、自分の中から溢れてきた不思議なものだった。
でも少女は知っている。
これは、涙、というものだと。
その言葉を、どこかで知っていたのだ。
少女は騎士の手元に目を落とす。
彼は、剣を抱えるようにして眠っていた。
刃は古びているのに、決して折れてはいない。
ひどい戦いを越えてきたはずなのに、剣はまだ剣の形を保っている。
少女は両手でそれを持ち上げた。
剣は、とても重かった。
でも、ただの金属の重さではない。
少女が重く感じたのは、騎士が握り続けた時間の重さが宿るから。
誰にも信じてもらえなくても、怖くても、痛くても、最後まで手放さなかったものの重さを感じ取っているのだ。
少女はその想いの全てを受け入れて、剣を胸に抱く。
水槽の中で眠っていた時にはなかった熱が、胸の奥で燃えている。
そこにあるのは誰の命令でもなかった。
施設の役目でも、作られた理由でも、誰かに刻まれた使命でもない。
ただ、あの人の勇気をこんな形で、終わらせたくない。
そんな想いを抱きながら、少女は涙を流し続ける。
そして泣いたまま、騎士に向かって頭を下げた。
「──あなたの勇気と、夢の続きを」
古い施設の奥で、何かがかすかに鳴る。
それは装置の再起動音にも似ていたし、遠い鐘の音にも似ていた。
少女の胸の奥に灯った熱が体中へ広がり、冷え切っていた指先に力を与えていく。
少女は剣を持ち、立ち上がった。
歩き方はまだぎこちないし、何度もよろめき、壁に手をついた。
それでも、もう水槽へ戻ろうとは思わない。
外へ出る扉は、半分瓦礫に埋もれていた。
しかし少女が剣をそっと触れさせると、古びた封鎖機構が息絶えるように崩れる。
隙間から光が差し込む眩しさに目を細めながら、少女は外へ出た。
外に出ると、そこには爽やかな風があった。
夢の中では黒く濁っていた空が、今は青い。
施設の周囲には草が生い茂り、崩れた壁を蔦が覆っている。
遠くには、かつての塔の残骸が森の中から突き出していた。
砕けた窓の破片が、朝の光を受けて星のように光っている。
きっと世界は一度、滅びたのだろう。
それでも草は伸び、鳥は飛び、風は少女の濡れた頬を撫でていく。
少女はそんな優しい光景を見て、剣を握り直した。
夢の中で騎士が見たかったはずの青空が、そこにあったからだ。
「見えていますか。あなたの信じた明日が、ここにありますよ」
そこに返事はない。
けれど少女は、背中を押された気がした。
だから一歩、前へ踏み出す。
騎士がたどり着いた場所から、騎士が見られなかった未来へ。
少女の主人公が望んだ、世界の明日へ。
そうして少女は、歩き出した。




