婚約破棄されたのでグーパンしたら、王太子殿下が真実の愛に目覚めました
「セシリア・フォン・アルヴェール! 月も星も見守るこの夜に、俺は高らかに告げよう。お前との婚約を破棄する!!……ぐはぁ!!!」
王太子レオンハルト殿下が、薔薇の花びらごと会場の床を滑った。
金の刺繍が入った純白の礼服。燭台の光を吸ったような金髪。湖より青い瞳。白馬と薔薇と竪琴が似合いすぎる、いかにも絵本から出てきた王子様の顔面。その顔面が、いま真紅の絨毯の上で頬を押さえている。
楽師の弓が止まった。貴婦人たちの扇が止まった。給仕の銀盆の上で、葡萄酒だけが小さく震えていた。
わたくしの拳は、まだ引ききれていない。足裏が床をつかんでいる。背筋は、公爵令嬢として叩き込まれた礼法のまま。腰だけが、前世の道場を思い出していた。
念のため申し上げておく。わたくしは、「婚約破棄」という単語だけで王太子殿下を殴ったわけではない。
その直前まで殿下は、会場の中央で、わたくしがいかに地味で、華がなく、月下の薔薇に選ばれし俺の隣に立つには淡すぎる存在で、俺の詩を理解せず、俺の横顔を見ても頬を染めず、俺という太陽に向かって咲かぬ可哀想な蕾であるかを、たいへん美しい声で朗々と語ってくださっていた。しかも、背後では従者が薔薇を撒いていた。撒きすぎである。
「お前はいつも澄ました顔で俺の隣に立っていた。俺が詠んだ詩にも涙せず、俺が贈った薔薇百本にも微笑み一つ返さず、白馬で庭を三周した時も拍手すらしなかった」
拍手が必要だったのか。
「セシリア。俺は孤独だった。王宮という金の鳥籠の中で、皆が俺を称えた。俺の剣を、詩を、横顔を、朝日に透ける髪を、民を見つめる憂いの瞳を称えた。だが、お前だけは違った」
「違うというより、長いですわ」
「お前だけは、俺を見ても平然としていた。俺が薔薇をくわえて振り返っても、ただ『花弁が落ちております』としか言わなかった」
「実際、落ちておりました」
「俺は愛を求めていた。なのに、お前は俺に礼儀しか返さなかった。俺の詩は、お前の胸に届かなかったのだ」
届いたことはある。頭痛として。
誰も止めなかった。地味だと笑われても、愛が見えないと責められても、王太子妃に足りないと会場の真ん中で切り捨てられても、周囲は王太子殿下の美声と薔薇と金髪に押されて沈黙していた。
わたくしは笑うしかなかった。公爵令嬢だから。王太子の婚約者だから。ここで怒鳴れば、令嬢としての品位が問われるから。
そもそも、これは今日だけの話ではない。
八歳の時、殿下は「未来の王妃には詩心が必要だ」と言って、星空の詩を三十七篇聞かせた。わたくしは途中で眠らなかった。
十歳の時、殿下は白馬で中庭を三周し、「未来の王妃よ、今の俺を見て何を思う」と聞いた。わたくしは「馬がかわいそうです」と言わなかった。
十二歳の時、殿下は薔薇を百本贈ってくださった。わたくしは香りで頭痛を起こしながらも礼を述べ、三日間、部屋を薔薇に占領された。
十四歳の時、殿下の自作恋詩集が公爵家に三十部届いた。わたくしはそれを暖炉に入れなかった。客間の花瓶の高さ調整に使われたことも、殿下には告げなかった。
十五歳の夜会では、靴擦れで足が痛くても、殿下の隣で笑っていた。殿下が「俺の隣に立つ女は笑み一つで場を照らせ」とおっしゃったからである。
十六歳の時、殿下は「俺のために泣かない女は冷たい」と言った。けれど、王太子妃教育では、人前で泣くなと教えられていた。
それでも、わたくしは耐えた。殿下が王太子だったから。わたくしが婚約者だったから。この方の隣で、王家に恥をかかせてはいけないと思っていたから。
そして今夜、殿下は胸に手を当て、たいへん美しい角度で顎を上げた。
「セシリア。太陽に照らされている花が、自分の幸運を知らぬとは哀れなものだ。お前は、俺に愛されている自分の幸福すら理解していない」
その一言で、胸の奥の糸が切れた。
わたくしの礼儀を。
我慢を。
仕事を。
この方は今、全部、自分への恋心が足りないせいにした。
「あ、もう我慢しなくていいんですのね」
踏み込んだ。
師範の声が、遠い記憶の底から響く。肩で打つな。腰を入れろ。拳はまっすぐ。
絹の手袋に包まれた拳が、王太子殿下の美しい顔面へ、たいへん正確に到達した。感情的ではなかったと思う。型は、きれいだった。
結果が、今である。
殿下は、絨毯の上に座り込んでいた。殿下のために撒かれていた薔薇の花びらが、頬に一枚貼りついている。演出としては失敗していた。湿布としても、おそらく効果はない。
殿下の悪友で、侯爵家令息のユリウス様が、グラスを落としかけていた。その隣で、側近のノエル様だけが真っ青だった。
「……痛いな」
殿下が、床から声を出した。
怒鳴られる。そう思った。王族の顔面を殴ったのである。しかも会場の中央で。しかも薔薇つきで。公爵令嬢とはいえ、これはだいぶ危ない。
しかし、殿下は怒鳴らなかった。頬を押さえたまま、ゆっくりと身を起こす。碧い瞳が、妙に輝いている。
「痛い。だが、悪くない。いや、これは何だ。今まで浴びたどんな賛美より、俺に届いた」
嫌な予感がした。
殿下は、青あざになりかけた頬に薔薇の花びらを貼りつけたまま、晴れやかに笑った。
「セシリア。お前の愛、しかとこの身に刻まれた」
「刻まれたのは拳の跡でございます!!」
「なるほど。お前は詩ではなく拳で語る女だったのだな。薔薇ではなく拳。涙ではなく拳。甘い囁きではなく拳。俺は今まで、愛とは月光のように柔らかく降り注ぐものだと思っていた。だが違った。愛とは、顎の奥まで響くものだったのだ」
「絶対に違います!!」
ノエル様が片手で顔を覆った。ユリウス様は、完全に逃げる準備の足になっていた。周囲の貴族たちは、理解できないものを見た顔で固まっている。殿下だけが、勝者のように立っていた。
殴られた側であることを忘れているのではないだろうか。
「俺も、お前の愛に応えられる男になろう」
「応えなくて結構でございます!!」
「ふ、ふはは……ははははは!」
殴られた方の笑い方ではなかった。どちらかといえば、世界を手に入れた方の笑い方である。
「今日は人生最良の日だ! 王太子として称えられた日より、剣技大会で優勝した日より、初めて自作の恋詩集が五百部刷られた日より、今この瞬間の方が胸が熱い!」
「恋詩集を刷っていたのですか」
「初版は完売した」
「誰が買ったのですか」
「母上が四百九十七部」
「それは完売ではなく回収ですわ!!」
会場の端で、誰かが小さく吹き出した。
殿下は気づかない。青あざになりかけた頬を押さえたまま、きらきらと笑っている。
「セシリア。俺は今、初めて生きている実感を得た。この痛み、この高鳴り、この胸の熱。間違いない。これは、真実の愛だ」
「着地地点がおかしすぎますわ!!」
「見ろ、ノエル。世界が違って見える」
「殿下、まず医師へ」
「薔薇はこれほど赤かったか。燭台の火はこれほど美しかったか。床に落ちた俺の影すら、今は詩になりそうだ」
「殿下、詩より脳を」
「愛があると、このように世界が美しく見えるのか。なんということだ。今なら百二十七行の詩が書ける」
「その前に診察を受けてください」
殿下は、青あざになりかけた頬を押さえたまま、勝ち誇ったように立っていた。頬に貼りついていた薔薇の花びらが、はらりと床へ落ちる。
「セシリア。俺は分かった。お前は俺の隣で静かに飾られる女ではなかった。お前は俺の目を覚ます女だったのだ」
「殿下の目を覚ますために、王太子妃教育を受けていたわけではございません」
その時だった。
「レオンハルト」
低い声が響いた。
場が、別の意味で凍った。王妃陛下である。白銀の髪を結い上げ、深い藍のドレスをまとった王妃陛下が、会場奥の階段からゆっくり降りてこられた。扇は閉じている。扇が閉じている王妃陛下は、だいたい怖い。
殿下の顔から、ほんの少しだけ血の気が引いた。
「母上」
「婚約破棄を宣言し、公爵令嬢を公衆の面前で侮辱し、返礼として拳を受けた。ここまでは見ました」
「おお、母上も見届けてくださったのですね。今宵、俺の頬には夜明けが」
「詩に逃げず、まず黙りなさい」
「はい」
王妃陛下は、殿下の頬の青あざを一瞥し、次にわたくしの拳へ視線を移された。わたくしは、急いで礼を取った。
「王妃陛下。大変申し訳ございません。わたくしは、王太子殿下に対し」
「セシリア嬢。手は痛めていませんか」
「……少し、じんじんしております」
「冷やしなさい。顔面は意外と硬いのです」
会場の空気が、さらに分からない方向へ転がった。
王妃陛下は、殿下を見る。
「レオンハルト。あなたの頬はあとで医師に見せます。ですが、その前に確認します。婚約破棄は、あなたの正式な意思ですか」
「母上。俺の胸には今、破棄の荒野ではなく薔薇の朝が来ています」
「答えなさい」
「婚約破棄は撤回します」
「撤回できると思っているのですか」
「俺は王太子です」
「だから何です」
その一言で、殿下が黙った。
会場に、ようやく人の呼吸が戻った。王妃陛下の声は荒くない。怒鳴ってもいない。ただ、閉じた扇の先が殿下の胸元へ向けられているだけで、騎士の剣より怖かった。
「あなたは先ほど、この場にいる者たちの前で、セシリア嬢を侮辱しました。婚約者としての長年の務めも、王太子妃教育の努力も、本人の人格も見ず、自分が愛されていない不満だけを並べました。その上で婚約破棄を宣言した。王太子の言葉は、恋詩ではありません」
「……ですが、俺は今、真実の愛に」
「その真実の愛とやらは、相手の話を聞かなくても成立するものですか」
殿下は、初めてわたくしを見た。まっすぐではある。ただし、頬に薔薇の跡が残っているせいで、真剣さの半分くらいが台無しだった。
「セシリア。お前は、俺を愛していないのか」
「愛しておりません」
会場のどこかで、誰かが息を飲んだ。
殿下は固まった。
わたくしは拳を握り直した。殴るためではない。指が震えそうだったからだ。
「殿下がわたくしを愛していたとも思っておりません。殿下は、ご自分を称えるわたくしが欲しかっただけです。いつも隣に立てと命じながら、わたくしの足がどれほど痛いかは見なかった。笑えと求めながら、わたくしが眠れているかは聞かなかった。薔薇を贈ってくださっても、わたくしが薔薇の香りで頭痛を起こすことは覚えてくださいませんでした」
殿下の喉が、小さく動いた。
わたくしは、足元の花びらを見た。赤い。多すぎる。踏まれて、絨毯に張りついている。
「殴ったのは愛ではありません。限界です」
殿下は、何か言おうとして、言えなかった。
初めてだった。レオンハルト殿下が、わたくしの言葉の上に自分の言葉をかぶせなかった。俺は、俺が、俺なら、と続けなかった。ただ、青あざになりかけた頬を押さえ、情けないほど静かに立っていた。
王妃陛下が、閉じた扇を下ろされた。
「セシリア嬢。あなたの拳については、正式には褒められません」
「承知しております」
「ただし、今夜の件は、王太子側の重大な侮辱と婚約破棄宣言を先に調査します。公爵家には王家から使者を出します。あなたは今夜、帰って休みなさい」
「ありがとうございます」
「手は冷やしなさい」
「はい」
殿下が、そこで一歩進み出た。ノエル様が即座に腰にしがみついた。
「殿下、今は近づかないでください。殿下が一歩出るたびに、何かが悪化します」
「ノエル、離せ。俺は今、セシリアに謝罪を」
「今の殿下は謝罪に薔薇と詩を混ぜます。危険です」
「混ぜない」
「本当ですか」
「一節だけ」
「やはり危険です」
ユリウス様が腹を抱えていた。王妃陛下のこめかみに、細い筋が見えた。
「レオンハルト」
「はい、母上」
「謝罪は、相手が受け取れる形で行いなさい。あなたが気持ちよくなるためにするものではありません」
「俺が、気持ちよくなるため……?」
「今そこからですか」
ノエル様の声が乾いていた。
殿下は、ゆっくりとわたくしを見る。
「セシリア。では、俺はどうすればいい」
初めてだった。殿下が、わたくしに命じなかった。決めつけなかった。笑わなかった。ただ、聞いた。
その事実が、腹立たしいほど遅すぎて、少しだけ胸に引っかかった。
「まず、人の話を最後まで聞くことですわ」
「分かった」
「次に、わたくしを背景扱いしないこと」
「分かった」
「詩で会話を上書きしないこと」
「難しい」
「そこは即答しなさいませ!!」
「努力する。だが、心が震えると韻を踏みたくなる」
「震えても黙る訓練をなさいませ」
「それは、もはや修行だ」
「今から修行ですわ」
会場のあちこちから、こらえきれない笑いが漏れた。
王妃陛下が扇で口元を隠された。たぶん笑っている。いや、笑っていないことにしておいた方が身のためである。
「薔薇を百本単位で持ち込まないこと」
「分かった。では九十九本に」
「一本から考え直しなさいませ」
「一本……それは、もはや薔薇ではなく孤独ではないか」
「薔薇は本数で身分を失いませんわ!!」
「最後に、殴られて喜ばないこと」
殿下は、そこで黙った。
かなり長く黙った。
ノエル様が、小声で「ここが一番大事です」とささやく。ユリウス様が「ここで詩を詠むなよ」と笑いを噛み殺す。
殿下は、頬に貼りついた薔薇の花びらをつまんで、真剣に考え込んだ。
「……努力する」
「即答できない時点で不安しかございません!!」
「だが、俺は初めて努力すべき場所を知った。セシリア。お前の拳は、俺の慢心を砕いた」
「わたくしの拳に教育機能をつけないでくださいませ」
殿下は、急に膝をついた。
会場がまた凍った。王太子が、公爵令嬢の前に片膝をついたのである。普通なら求婚の姿勢である。普通ではない今夜においても、だいぶ嫌な予感がする姿勢だった。
殿下は、まっすぐにわたくしを見上げた。頬は赤い。青あざが出始めている。薔薇の花びらも一枚だけ髪に絡んでいる。
ひどい顔だった。
なのに、声だけは妙に真面目だった。
「セシリア・フォン・アルヴェール。俺は、今夜お前との婚約を破棄すると宣言した。その言葉は取り消さない」
ノエル様が小さく息を吐いた。王妃陛下は何も言わない。わたくしの指先から、少しだけ力が抜けた。
「俺は、お前の婚約者である立場に甘えていた。お前が隣にいるものだと思い、俺を見るものだと思い、俺を称えるものだと思っていた。だから、婚約者としての俺は今夜終わる」
ここまでは、よかった。
本当に、ここまではよかった。
殿下は、そこで晴れやかに笑った。
「明日からは、一人の詩人として、お前に求愛する」
「台無しですわ!!」
「婚約者ではなくなった。つまり、もう一度口説く権利が生まれた」
「なぜ権利が生まれるのですか!」
「俺は諦めない男だ」
「諦める練習から始めてくださいませ!!」
「任せろ。まずはお前の話を聞く。薔薇は一本。詩は短歌程度。距離は三歩。殴られても喜ばない努力をする」
「最後の項目が不穏すぎますわ!!」
王妃陛下が、ついに扇で額を押さえた。
「レオンハルト。今日はもう医師へ行きなさい」
「母上、俺は今、重要な成長を」
「医師へ」
「ですが」
「医師へ」
「はい」
王妃陛下の三度目はなかった。ノエル様が、すぐさま殿下の腕を取る。近衛騎士が二人、なぜか少し笑いながら近づいた。
殿下は連れていかれながら、わたくしへ振り返った。
「セシリア!」
「何でございましょうか!」
「明日、話を聞きに行く!」
「来なくて結構でございます!」
「では、三日後に!」
「そういう意味ではございません!」
「分かった。手紙で都合を聞く!」
わたくしは、言葉に詰まった。
聞いた。
今、たしかに都合を聞くと言った。
遅い。遅すぎる。拳と王妃陛下の説教を経て、ようやくそこなのか。
けれど、殿下は満面の笑みだった。人生で初めて扉の場所を見つけた犬みたいな顔だった。
「セシリア。俺は変わる!」
「まず医師に診てもらってからおっしゃいませ!」
「分かった!」
殿下は、今度こそ連れていかれた。髪に薔薇の花びらを一枚残しながら。勝者でも敗者でもなく、たぶん初めて人の話を一つだけ聞いた男として。
会場に残されたわたくしは、ようやく息を吐いた。
拳が痛い。王太子を殴った事実も痛い。明日以降の社交界を考えると胃も痛い。
それでも、胸の奥に絡まっていた細い糸は、もう切れていた。
わたくしは、王妃陛下へ深く礼をした。
「王妃陛下。今夜の件、改めてお詫び申し上げます」
「謝罪は受け取ります。けれど、あなた一人の責ではありません。今夜は帰りなさい。公爵家には、こちらから説明します」
「ありがとうございます」
「それと、セシリア嬢」
「はい」
「拳は、冷やす前に握りすぎないように」
王妃陛下は、そこでほんの少しだけ目元を緩めた。
「綺麗な型でした」
「……恐れ入ります」
褒められていいのか、悪いのか。
わたくしは分からないまま、絹の手袋の内側で、じんじんする拳をそっと開いた。
その夜、わたくしと王太子レオンハルト殿下の婚約は、正式に破棄されることになった。
そして翌朝。
公爵家の門前には、医師の包帯で頬を固定され、薔薇を一本だけ持ち、門からきっちり三歩離れた場所に立つ王太子殿下がいた。
門番が、困り果てた顔でこちらを振り返る。
「お嬢様。王太子殿下より、『本日はお話を聞きに参りました。詩は二行まで。殴られても喜ばない努力中です』とのことでございます。なお、『薔薇は一本です』と、たいへん誇らしげに付け加えておられます」
わたくしは窓を閉めた。
殿下は、窓越しにたいへん嬉しそうに手を振っていた。
まだ、努力が足りない。




