笑顔にしたい伯爵様と、「いいえ」を知らない公爵令嬢
エレノア・ヴァレストンは、幼い頃から一度も「いいえ」と言ったことがなかった。
ヴァレストン公爵家の長女として生まれた彼女には、幼少の頃から多くの教師が付き、礼儀作法、語学、歴史、舞踏、音楽、社交術に至るまで、貴族令嬢に必要とされるすべてが叩き込まれた。
完璧であること。それがエレノアに求められた役目だった。
彼女自身が何を好み、何を嫌い、何をしたいと思うのか――そんなものは、誰にも問われなかったし、エレノア自身も深く考えたことがなかった。
丁度、その日も同じだった。
父に呼び出され、扉の向こうに入った瞬間、彼女は今日という日が自分の人生にとって重要な節目になるのだと悟った。それでも顔色一つ変えずに歩き、父と母の前で優雅に一礼する。
「お呼びでしょうか、お父様」
「エレノア。お前の婚約が決まった」
その一言を、彼女は受け止めた。
「お相手は、アーデン侯爵家の嫡男だ。家格も申し分ない。先方も前向きに話を進めておられる」
おめでとう、と母が微笑む。侍女たちも、扉際に控えていた執事も、拍手をしていた。
「光栄に存じます」
それが正しい返答だった。
父は満足そうに頷いた。話はそれで終わりだった。彼女の意志を確認する必要など、どこにもない。公爵令嬢の結婚は家の結びつきであり、選択ではないのだから。
部屋を出て廊下を歩きながら、エレノアは少しだけ不思議な気持ちになった。
自分自身の事なのに、まるで他人の人生の話を聞いたような気がしたからだ。
その夜、鏡の前で髪を梳かれながら、侍女は言った。
「お嬢様は本当にお美しくていらっしゃいますから、きっとどなたからも羨ましがられますわ」
エレノアは「そう」とだけ答えた。
羨ましい、という感情が、彼女にはよくわからなかった。
何かを欲しいと思ったことが、ほとんどなかったからだ。
◇
婚約発表の前触れとして開かれた春の夜会は、華やかだった。
王都でも指折りの名門が集まるその場で、エレノアはいつも通りの完璧な令嬢でいた。
ドレスの裾を乱さず、笑みを向け、求められた受け答えを間違いなくこなす。誰が見ても非の打ちどころのない姿だった。
けれど、彼女の胸は驚くほど冷え切っていた。
この夜会の先に、自分の未来が決まる。そうわかっているのに、どこか現実味がなかった。
「ヴァレストン令嬢」
声をかけられ、エレノアは淀みなく振り向いた。
そこにいたのは、婚約者のルシアン・アーデンだった。
アーデン伯爵家の長男。いや、今は父の隠居に伴い、すでに爵位継承が決まっていると聞く。けれど彼には、社交界において少々妙な評判があった。
気まぐれで、縛られることを嫌う。必要最低限の社交はこなすが、権威や常識にあまり頓着しない。狩猟に出たかと思えば、突然遠方の領地を見に行き、数か月も王都に戻らないことがある。名門の嫡男でありながら、貴族らしからぬ自由さを持つ男――それがルシアンだった。
「初めまして。ルシアン・アーデンです。噂はかねがね」
そう言って彼は、社交辞令めいた微笑を浮かべた。
初対面の相手に向けるにはいささか砕けた口調だったが、不思議と無礼には聞こえなかった。
「エレノア・ヴァレストンでございます」
ルシアンはその一連の動きを眺めてから、ふっと目を細めた。
「なるほど。確かに噂通りだ」
「どのような噂をお聞きになっているのか、少々不安ですわ」
「あらゆる所作、全てが完璧な令嬢だと」
あまりにも迷いなく言われて、エレノアはわずかに目を瞬かせた。
褒め言葉だった。社交界では、誰もがそう言う。ヴァレストン公爵家の長女に相応しい。非の打ちどころがない。美しく、賢く、慎み深い。そう評されることには慣れていた。
けれど、彼の口から出た「完璧」は、どこか感じが違った。
「光栄です」
いつものように返すと、ルシアンは少しだけ首を傾げた。
「本当にそう思ってるのか?」
エレノアは一瞬、返答に詰まりかけた。
だがそんな様子を悟られぬよう、すぐに微笑みを保つ。
「皆さまにそう仰っていただけるのでしたら、嬉しく思います」
「答えになってないな」
さらりと言われた言葉に、エレノアは初めてこの男に対して戸惑いを覚えた。
普通なら、ここで話は終わる。褒め言葉を交わし、二、三の当たり障りのない話題を挟んで、互いに別の相手のもとへ移る。それが夜会での初対面の流儀だ。
なのにルシアンは、まるでその流れを最初から無視しているようだった。
「……アーデン様は、随分と率直でいらっしゃるのですね」
「よく言われる」
悪びれる様子もなく答える。
「ヴァレストン令嬢は、そういうのはお嫌いか?」
「嫌う理由もございませんわ。ただ、少し驚いただけです」
「それならよかった」
よかった、と言いながら、彼はそれほど安堵した顔もしていなかった。
エレノアは彼のことを、噂でしか知らなかったが、実際に向かい合ってみると、その印象は少し違った。
確かに気負いはない。だが単なる放埓さではないのだ。目の前の男は、自分がどう見られるかを承知したうえで、それでもなお自然体で立っているように見えた。
「今夜はずいぶん騒がしいな」
会話を切り替えるようなその言葉に、エレノアも自然と応じた。
「ええ。春の夜会ですもの。毎年華やかではありますが、今年は特に人が多いように感じます」
婚約の件はまだ正式には公表されていない。だが、社交界の者たちは噂に敏い。名門同士の動きなど、誰かが気づいていてもおかしくなかった。
エレノアが何も言わないでいると、ルシアンはその沈黙ごと見透かしたように言った。
「やはり、気になってしまう」
ルシアンは、広間のざわめきを背にしたまま、少しだけ声を落として言った。
「君は、作り笑顔が上手のようだ。本心がまったく分からない」
エレノアは少しだけ眉を寄せた。ここで不快そうにするのは簡単だ。けれど、なぜかそうする気にはなれない。
「アーデン様は、人を困らせるのがお上手なのですね」
「そうか? たいていは、もっと無難に済ませるんだが」
「でしたら、今日は特別に失礼でいらっしゃるのね」
「かもしれないな」
平然と認められてしまい、エレノアは返す言葉を失った。普通なら、ここで相手は謝るか、話を濁す。だがルシアンはそうしない。
「君は、ずいぶん退屈そうに笑うんだな」
その瞬間、エレノアの胸の奥がひやりと冷えた。
誰にも知られていないと思っていたものを、いきなり言い当てられた気がしたからだ。
「……失礼ですわ」
なんとかそれだけ返すと、ルシアンは小さく肩をすくめた。
「そうだろうな。ただ、嘘は言ってない」
エレノアは思わず彼を見た。無礼だと思う。けれど、それ以上に戸惑っていた。
今まで誰一人として、彼女の笑みにそんな感想を向けたことはない。完璧だと褒められこそすれ、その奥に何があるのかを問われたことなどなかった。
ルシアンはしばらく彼女を見つめていた。
「気を悪くしたなら謝る。すまなかった」
思いのほか素直な謝罪に、エレノアはわずかに目を見開いた。
もっとも、謝られたからといって、胸のざわめきがすぐに収まるわけではない。むしろ、そこまで率直に言われると、こちらもただ社交辞令だけで返すのが少し卑怯に思えた。
だからだろうか。エレノアは自分でも少し驚くような言葉を口にしていた。
「では、お詫びに一曲いかがでしょう」
ルシアンが軽く眉を上げる。
「もしかしたら、踊ることでお互いが分かり合えるかもしれませんよ?」
言ってから、自分らしくない誘い方だったと気づいた。
ルシアンはそんな彼女を見て、ふっと口元を緩めた。
「よく言うな。でも、まあそうだな。一応君の婚約者でもあるし」
ルシアンは一歩進み出ると、改めて彼女の前に手を差し出した。
「受けよう。君にそこまで言われて断るほど無粋じゃない」
差し出された手を見つめ、エレノアは何故かほんの一瞬だけ躊躇った。
それでもエレノアは静かに息を整え、白い手袋に包まれた自分の手をその上に重ねた。
「では、お願いいたします」
「こちらこそ」
ルシアンの手は、貴族の男らしく整っていながら、思っていたよりもしっかりとしていた。剣や馬に触れてきた者の手だと分かる。
広間の中央へ歩み出ると、周囲の視線が自然と集まった。ヴァレストン公爵家の令嬢と、自由人と名高いアーデン家の嫡男。しかも近く婚約が公表されるであろう二人だ。興味を引かないはずがない。
それでもルシアンはまるで気にした様子もなく、決められた位置に立った。音楽が流れ始め、エレノアも教わった通りに一歩を踏み出す。
舞踏は得意だった。幼い頃から何度も繰り返し教え込まれたもののひとつであり、失敗することなどほとんどない。今日もそのはずだった。
だが、ルシアンと踊るそれは、これまで知っていた舞踏とはどこか違って感じられた。
「お上手なのですね」
思わず漏れた言葉に、ルシアンは小さく笑った。
「それは褒められているのか」
「事実を申し上げただけです」
「君にそう言われると、何だかむず痒くなるな」
軽口のようでいて、声は落ち着いている。その余裕が、またエレノアの調子を狂わせた。
回転し、再び向かい合う。会話を続けるには十分な距離でありながら、相手の表情はきちんと見える。ルシアンの瞳は、噂で聞くような気ままさだけでできているわけではなかった。むしろ静かで、よく見ている目だった。
「アーデン様も、噂ほどには型破りではないのですね」
「残念だったか?」
「少し意外だっただけです。もっと強引な踊り方をなさるのかと思っておりました」
「見くびられていたな。これでも一応、名門の息子だ。表に出る場で無様は晒せない」
その返答は、エレノアにとって意外だった。
自由気ままに振る舞う男という評判ばかり耳にしていたせいか、彼が家の名や立場を軽んじていないことが、少し不思議に思えたのだ。
「……意外ですわ」
「何が」
「もっと、そういったことには無頓着な方かと」
ルシアンは一瞬だけ目を細め、それから少し肩をすくめた。
「自由でいることと、何も背負っていないことは別だろう」
エレノアは息を呑む。
「噂だけ聞けば、そうは思われないかもしれないが、俺にだって立場はある。家も領地も、放っておけば勝手に回るようなものじゃない。必要なことはやるし、果たすべき責任から逃げるつもりもない」
彼の言葉には気負いがなかった。ただ当然のことを述べているだけのようだった。
その自然さに、エレノアはかえって言葉を失う。
自由に見える者は、何も持たない者だと思っていた。縛られないからこそ軽やかに振る舞えるのだと。けれど彼は違う。背負うものを知った上で、それでもなお自分の足で立っている。
それはエレノアの知らない類の人物であった。
「君は」
ルシアンがふいに問いを返してくる。
「舞踏は嫌いか」
「……嫌い、と考えたことはありません」
「好きでもないんだな」
指摘されて、エレノアはわずかに視線を伏せた。
「必要なものですから」
そう返すと、ルシアンはすぐには何も言わなくなり、舞踏の型を崩さぬまま、彼はしばらく考え込むように沈黙した。
やがてルシアンは、ひどく静かな声で言った。
「なるほど……君の言っていた通りだ。踊っていたら、君のことがだいぶ分かってきた」
エレノアは顔を上げた。
「と、いうと?」
「君は、自分の主張がない上に、好きも嫌いも分からないんだろう」
「そうでしょうか?」
それでも表情だけは崩さずに問い返すと、ルシアンは少しだけ眉を上げた。
「じゃあ、君は一番好きな食べ物は何だ?」
唐突な問いだった。
だが彼の目は至って真面目で、からかっている様子はない。
エレノアは思考を巡らせた。好きな食べ物。これまでそんなことを、真面目に考えたことがあっただろうか。食卓にはいつも季節に応じた上等な料理が並び、作法に従って口に運んできた。美味しいかどうかを感じることはあっても、それを「好き」なのかは良くわからなかった。
「そうですね……美味しければ、それが好きです」
「それは、好きなものがある人間の答えじゃない」
「では、アーデン様ならどうお答えになるのですか」
「俺か?」
ルシアンは少しだけ考え、それからすぐに答えた。
「焼きたての肉だな。塩が利いていて、外が少し焦げているくらいがいい。あとは葡萄の煮込みも好きだ」
あまりにも迷いがない。
その即答ぶりに、エレノアは目を瞬いた。
「随分とはっきりしていらっしゃるのですね」
「好きなものを聞かれたんだから、好きなものを答えただけだぞ」
「皆が皆、そう簡単に答えられるものではないと思います」
「では、甘いものと辛いものは?」
ふいに、エレノアは自分から問い返していた。
「甘いものの方が好きだな」
「即答ですね」
「そっちはどうだ」
聞き返されて、エレノアはまた言葉に詰まる。
「……どちらでも」
「ほらな」
そう言われると、反論が難しい。
エレノアは少しだけ口を閉ざした。舞踏の最中でなければ、もっときれいに言い繕えたかもしれない。だが音楽に合わせて動き続けるこの時間は、不思議と取り繕う余裕を奪っていく。
「別に、それが悪いと言いたいわけじゃない。ただ君は、ずっと“正しい答え”を選ぶことに慣れすぎて、自分の答えが分からなくなってるんだろう」
「自分の答え、ですか」
「ああ。好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか。そういう単純なことほど、君は考えたことがないんじゃないか」
エレノアはすぐには返せなかった。
好きな食べ物ひとつ、答えられなかったのだ。それ以上のことを問われたところで、明快な答えが出るはずもない。
何も言わず、ただ音楽に合わせて足を運びながら、ひとつ考えをまとめるような間を置く。その沈黙は気まずいものではなかったが、エレノアにとっては奇妙に落ち着かなかった。まるで、次に彼が何を言うのかで、自分の中の何かがまた少し変わってしまうような予感があったからだ。
やがてルシアンは、思案を終えたように口を開いた。
「そうだな……明後日、予定はあるか?」
「明後日、ですか」
「ああ」
エレノアは頭の中で予定を辿る。午前は刺繍の教師が来るはずだが、午後は空いていたはずだった。母との茶会の約束もない。厳密には侍女に確認すべきなのだろうが、少なくとも大きな予定は入っていない。
「ええ、大丈夫ですが」
そう答えると、ルシアンはわずかに頷いた。
「俺とデートをしないか。もちろん、家の許可は取るようにする」
エレノアは、本当に今度こそ返事を失った。
デート。
あまりにも気軽に、けれど不思議とふざけてもいない口調で告げられたその言葉が、耳の奥に妙に長く残った。
婚約者同士なのだから、二人で出かけること自体はおかしな話ではない。むしろ、将来を見据えて関係を深めるための機会として、周囲から勧められても不思議ではない。
それなのに、彼女の胸はまるで初めて知らない世界の扉を開かれたかのように落ち着かなかった。
「……随分と急なお誘いですのね」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
ルシアンは少しだけ苦笑する。
「そうかもしれないな。だが、君と話していて思ったんだ。こういう場所でいくら言葉を交わしても、君はたぶん、いつもの君のままだろう」
「いつもの私、ですか」
「完璧な君のままだ」
その言い方に棘はなかった。
「だが、外なら少し違うかもしれない。夜会でも舞踏会でもない場所なら、君も少しくらいは、自分が何を好きで何を嫌うのか考えられるかもしれない」
エレノアは彼を見上げた。
からかいでも、思いつきの遊びでもなかった。彼は本気でそう言っているのだ。
「家の許可は取る」とわざわざ口にしたのも、そのためだろう。エレノアの立場を分かったうえで誘っている。
自由な男だと思っていた。だが彼の自由は、何もかもを無視して突き進む種類のものではないらしい。
「どちらへ行かれるおつもりですの」
気づけば、そう尋ねていた。
断るでもなく、咎めるでもなく、興味本位が先に出たことに、エレノア自身が少し驚く。
ルシアンはそれに気づいたようだったが、あえて何も言わなかった。
「王都を歩こう。買い物をしよう。それに、色々なものを食べよう」
あまりにも率直な誘い文句に、エレノアは一瞬だけ目を瞬かせた。
もっともらしい名所や、由緒ある庭園の名が挙がるものと思っていたのだ。どこかの邸宅に招かれるとか、格式ある店に立ち寄るとか、婚約者同士の外出として聞こえのいい行き先を。
だがルシアンの口から出たのは、拍子抜けするほど飾り気のない言葉だった。
それはまるで、少女が夢見るような、気軽でささやかな外出のようにも聞こえた。
「……随分と、可愛らしいご提案なのですね」
思わずそう言うと、ルシアンはわずかに眉を上げた。
「そうか?」
「もっとこう、アーデン様らしい場所を仰るのかと思っておりました。狩猟場とか、乗馬とか」
「君を初めて連れ出すのに、そんなことしてどうする」
ごく自然に返されて、エレノアは口を閉ざした。
初めて連れ出す。その言い方が妙に胸に残る。
ルシアンは気にした様子もなく続けた。
「歩いていれば、君がどこに目を留めるか分かる。店に入れば、何に興味を持つか分かる。食べ物を前にすれば、少しは好き嫌いも見えるだろう」
そこまで言ってから、彼は少しだけ口元を緩めた。
「それに、俺がそういうのを嫌いじゃない」
自由気ままな男という評判からは想像しにくいが、この婚約者は案外、花や菓子や小物を眺めて歩くような時間も好きなのかもしれない。
不思議な人だ、と改めて思った。
ルシアンはそんな彼女の反応を確かめるように一拍置いてから、静かに言った。
「嫌なら無理にとは言わない。君はたぶん、今まで“嫌です”と言う機会もなかったんだろうが、今回は違う。嫌なら嫌でいい」
その言葉は、エレノアの胸にははっきり届いた。
嫌なら嫌でいい。
それはごく当たり前のはずの言葉なのに、彼女にとっては少し異質だった。
だからだろう。エレノアは反射的に、慣れた形で答えようとした。
「では、母上に……」
「今、ここで聞きたい」
エレノアは思わずルシアンを見上げた。
彼は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「母君に相談するのはいい。だが、その前に君がどう思うのかを聞きたい。家がどう言うかじゃなくて、君が行きたいのか、行きたくないのかを」
エレノアは返事ができなかった。
そんなふうに問われたことが、ほとんどなかったからだ。
行きたいのか。行きたくないのか。
頭の中で言葉だけは反芻できるのに、それをすぐ口に出せない。答え方が分からないのではない。答えを探すという行為そのものに慣れていないのだと、今さらのように気づかされる。
「私は……」
そこまで言って、エレノアは言葉を切った。
彼に見つめられながら、エレノアは自分の心を探る。王都を歩くこと。買い物をすること。色々なものを食べること。どれも彼女にとっては馴染みのない時間だった。少なくとも、誰かに連れられるのではなく、自分の興味のままに歩くような外出はしたことがない。
けれど、想像すると少しだけ胸が動いた。
知らない店先。並ぶ菓子。人のざわめき。何を選ぶかを、その場で考える時間。
怖くないわけではない。何を見て、何を選び、どんな顔をすればいいのかさえ分からない。けれど、それでも。
「……行きたいです」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
ルシアンは一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「そうか」
たったそれだけの返事だった。だが、妙に胸に残る声だった。
認められたような気がしたのかもしれない。今の拙い答えでも構わないのだと、そう言われたような気がした。
「じゃあ、約束だ。家には俺からも話を通す」
「……はい」
「服装はラフで良い。好きな洋服で来てくれ」
エレノアは何も言えず、ただ小さく頷いた。
やがて最後の一音が広間に溶け、二人は静かに礼を交わす。周囲から拍手が起こり、夜会のざわめきが戻ってきた。
ルシアンの手が離れていく。
あの時間がわずかに惜しいと感じた自分に、エレノアは気づかないふりをした。
◇
明後日は、驚くほどあっさりやって来た。
思い返してみれば不思議なことだった。公爵家の令嬢が男性と二人で外出するなど、本来ならばもっと慎重に扱われてもよさそうな話なのに、今回は「婚約者だから」という理由で、信じられないほどすんなり話が通ったのである。
もちろん、まったく何も言われなかったわけではない。
前日の夕方、母はエレノアを自室に呼び、ソファへ座るよう静かに促した。向かいに腰かけた母は、いつもの優雅な微笑みを浮かべたまま、けれどどこか探るような目で娘を見ていた。
「アーデン様から、明日の外出についてお話をいただきました」
「はい」
「婚約者同士なのですから、不自然なことではありません。けれど、あの方は少々……自由な方だと伺っています」
少々、という言い方に抑えが利いているだけで、母が本当はもっと別の表現を使いたいのだろうことは、エレノアにも分かった。
「ご不安ですか、母上」
「不安というより、心配かしら」
母はティーカップを受け皿へ戻し、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「あなたは今まで、こういう事は無かったでしょう。王都の街を歩く、というのは、今までとは少し勝手が違うでしょう」
その言葉は咎めるものではなかった。むしろ、母なりの配慮なのだろう。
「それでも、行ってみたいと思いました」
口にした瞬間、母の表情がわずかに変わった。
驚き――とまではいかない。だが、意外そうに目を細めたのは確かだった。エレノアが自分から何かを「したい」と表すことは、ほとんどなかったからだ。
「……そう」
母はしばらく娘を見つめていたが、やがて小さく息をつき、穏やかに微笑んだ。
「でしたら、気をつけて行っていらっしゃい」
それ以上、余計なことは言わなかった。
だが問題は、そのあとだった。
「お嬢様、どのドレスをお召しになりますか?」
翌朝、侍女たちにそう問われた時、エレノアは初めて立ち尽くした。
衣装部屋には数えきれないほどのドレスが並んでいる。淡い色のもの、刺繍の華やかなもの、夜会向きのもの、茶会向きのもの、訪問着として無難なもの。用途に応じて整えられたそれらは、今までなら何の迷いもなく選べた。行き先に応じ、相手に応じ、その場に最もふさわしい一着を着ればよかったからだ。
けれど今日は違う。
ルシアンは言った。服装はラフでいい。好きな洋服で来てくれ、と。
好きな洋服。
どれが好きなのか、エレノアにはよく分からない。いつだって、似合うもの、相応しいもの、求められるものを選んできたのだ。自分が「好きだから」という理由で袖を通した服など、思い出せない。
「お嬢様?」
不思議そうに呼ばれて、エレノアはようやく意識を戻した。
「……少し、考えたいの」
そう答えると、侍女たちは顔を見合わせた。だがすぐに一歩下がり、「かしこまりました」と控えた。
衣装部屋の中は静かだった。
エレノアは一着ずつ視線を巡らせる。華やかな薔薇色のドレスは目を引くが、さすがに街歩きには向かない。紺色のドレスは落ち着いているが、どこか堅すぎる。アイボリーのものは柔らかいが、少し大人びすぎる。
そうして迷っているうちに、端の方にかけられていた一着が目に留まった。
淡い水色の、飾りの少ないドレスだった。
これまでほとんど手に取ることがなかった一着。けれど今、そのドレスは不思議と目を離しがたかった。
「……これにするわ」
侍女の一人が目を丸くした。
「こちらでございますか? 少し簡素では……」
「ええ。今日は、これがいい気がするの」
言いながら、エレノアは自分で自分に少し驚いていた。
“これがいい”。
そんな言い方をしたのは、いつ以来だろう。
鏡の前で着替えを終えると、そこに映る自分はいつもの公爵令嬢より幾分やわらかく見えた。豪奢ではない。けれど、窮屈さが少しだけ薄れている気がした。
「お嬢様、本日は……どこか雰囲気が違って見えます」
「そうかしら」
「はい。少しだけ、楽しそうでいらっしゃいます」
その言葉に、エレノアは鏡の中の自分を見つめた。
楽しそう。
そんなふうに見えるのかと、少しだけ胸が落ち着かなくなる。
屋敷の正面玄関へ向かうと、すでにルシアンが待っていた。
エレノアの姿を見た瞬間、ルシアンはほんの少し目を見開いた。
「その色、似合うな」
あまりにも自然に言われて、エレノアは一拍遅れて頬が熱くなるのを感じた。
彼はそう言って、馬車へ乗るよう促した。
「さて、行こうか。王都は午前の方が面白い」
「面白い、ですか」
「ああ。店のオープンが一番良いんだ」
意味が分からず、エレノアが首を傾げると、ルシアンは可笑しそうに笑った。
「行けば分かる」
馬車はほどなく王都の中心部近くで止まった。
エレノアは窓の外を見て、小さく息を呑んだ。普段彼女が見る王都は、屋敷の馬車の窓から流れていく整った街並みか、観劇場や貴族街の入口あたりばかりだ。けれど今日降り立った場所は、それよりずっと人の生活の気配に近かった。
石畳の道には朝の陽光が差し込み、焼きたてのパンの匂いが風に乗っている。店先では花売りの少女が色とりどりの花束を並べ、通りの向こうでは果物を積んだ荷車が止まっていた。人々の足取りは忙しないのに、どこか生き生きとしている。
「これが……王都の、いつもの朝なのですね」
思わず零れた呟きに、ルシアンが隣で頷いた。
「貴族街にいると、あまり見ないだろ」
「ええ……とても」
エレノアは周囲を見回した。視界に入るものすべてが新鮮だった。店の看板。行き交う人々の服装。聞こえてくる値段交渉の声。何もかもが、彼女の知っている社交界の静けさとは違う。
「まずはパン屋だ」
「パン屋……?」
「色々なものを食べるって言っただろ」
そう言って彼が指した先には、小さな店があった。窓辺にずらりと焼き立てのパンが並び、扉が開くたびに香ばしい匂いが流れてくる。
ルシアンは当然のように扉を開け、エレノアを中へ招き入れた。
店内は思ったより狭く、けれど温かかった。小麦とバターの香りに満ちていて、それだけで胸のあたりがふわりと緩むような気がする。
「どれが気になる」
彼女は恐る恐る棚を見た。丸いパン。細長いパン。果実を煮詰めたものが乗ったもの。砂糖のかかったもの。
その中で、ふと小さな蜂蜜色の焼き菓子に目が留まる。表面に少しだけ照りがあって、つやつやと光っていた。
「……これは」
指差すと、ルシアンは店主へ向かって「それを二つ」と告げた。
「好きそうだと思った」
「まだ、好きと決まったわけでは」
「でも気になったんだろ」
そう言われると、否定できない。
受け取った焼き菓子をひと口かじる。表面は薄くぱりっとしていて、中はやわらかく、ふんわりとした甘みが舌に広がった。
エレノアは思わず笑顔になる。
「……美味しい」
零れた声は、自分でも驚くほど素直だった。
ルシアンはそんな彼女を見て、満足そうに頷いた。
「良かった。連れてきた甲斐があったな」
言われて、エレノアは少しだけ気恥ずかしくなる。
けれど不思議と、今はそれを隠そうという気になれなかった。手の中の焼き菓子へ視線を落とし、もうひと口かじる。
「……こういうものを、自分で選んで食べる機会は、ほとんどありませんでした」
そう言うと、ルシアンは「だろうな」と短く答えた。
その返事には驚きも同情もなかった。ただ、彼女のこれまでをなんとなく想像した上で納得しているような声だった。
「屋敷では、出されたものをいただくだけですもの。もちろん、どれも美味しいのですが……」
「自分で選ぶのとは全然違う」
「ええ」
エレノアは頷いた。
まさにその通りだった。味がどうこうというだけではない。並んだものの中から自分の目が止まったものを選び、それを手に取り、実際に口にする。その一連の流れに、小さいながら喜びがあるのだと、初めて知った気がした。
「じゃあ今日は、それをいくつか覚えていけばいい」
「覚える?」
「君が何を見て足を止めるか。何を食べて嬉しそうにするか。そういうのを、一つずつだ」
当たり前のように言われて、エレノアは少しだけ黙った。
「……では、これは覚えておかなくてはなりませんね」
焼き菓子を少し持ち上げて見せると、ルシアンが口元を緩める。
「蜂蜜のお菓子は、好きかもしれません」
店を出ると、朝の光はさっきよりも少し強くなっていた。通りを行き交う人も増え、花売りの声や荷車の軋む音が重なり合って、街全体がゆっくり目を覚ましていくようだった。
エレノアは手の中の包みを見下ろし、それから周囲へ視線を巡らせる。
今まではただ通り過ぎるだけだった王都が、今日はひどく細やかに見えた。店先に吊るされた布の色、果物籠の艶、通りを横切る子どもたちの笑い声。どれも、これまでは気にも留めなかったものばかりだ。
「次はどちらへ?」
気づけば、自分からそう尋ねていた。
ルシアンはそれを聞いて、わずかに目を細める。
「雑貨屋に寄る。君が気になっていそうだったからだ」
「どうしてそう思われるのです」
「今、花屋の前を通る時に少し歩くのが遅くなった」
指摘されて、エレノアは思わず立ち止まりかけた。
「……よく見ていらっしゃるのですね」
「せっかくのデートだからな。君が何を好きになるのか、見逃したくないんだ」
あまりにもさらりと言われて、エレノアは返事に詰まった。
ルシアンはそんな彼女の様子を面白がるでもなく、当然のように歩き出す。
さっき口にした「美味しい」も、「好きかもしれない」も、ほんの些細な言葉だった。けれど、その些細な言葉が、自分にとっての好きが何なのか分かっていくのかもしれない。
そう思うと、これから先に並んでいるものを知るのが少しだけ楽しみになった。
それはきっと、エレノアにとって初めての感覚だった。
◇
その日、二人は王都をよく歩いた。
雑貨屋では小さな硝子細工を眺め、花屋では季節の花の名前を教わった。ルシアンは意外なほどそういうものに詳しい。
可愛らしい意匠の小箱を手に取って真剣に細工を眺めたり、色とりどりのリボンを前にして「こっちの方が可愛いと思う」などと平然と言ってのけたりする姿は、やはりどこかエレノアの想像から外れていた。
昼には小さな食堂に入り、スープと焼きたての肉料理を食べた。ルシアンが以前言っていた通り、塩の利いた肉は香ばしく、噛むたびに旨味が広がった。彼が得意げに「ほら、好きだろう」と言った時には悔しいような気もしたが、実際に美味しかったのだから反論はできなかった。
そのあとも、果実を薄く煮詰めた菓子を買い、通りの端で楽器を奏でる青年の演奏に足を止め、古書店では表紙の綺麗な詩集を手に取った。
気づけば、空は夕暮れの色へと変わり始めていた。
西へ傾いた陽射しが石畳を橙に染め、王都の賑わいも大分静まり返っていた。
「どうだった? 初めてのデートは?」
その問いかけに、エレノアは一瞬だけ目を瞬いた。
「そうですね」
少しだけ考えてから、エレノアは素直に答えた。
「初めてのことばかりでしたので、少し緊張しました。ですが……アーデン様のお陰で、楽しい一日になりました」
言い終えたところで、ルシアンはなぜかすぐに返事をしなかった。
ただじっと彼女を見て、それから小さく息を吐く。
「アーデンじゃなくていい」
「え?」
「これからは、ルシアンと呼んでくれ」
あまりに真っ直ぐ言われて、エレノアは思わず言葉に詰まった。
「俺は、家同士の取り決めで婚約した相手だから、というだけで終わらせたくない。そして、婚約者として君に接してるつもりはない」
ルシアンははっきりと言った。
「少なくとも、今日一日を過ごして、それはもう無理だと分かった」
「つまり、婚約を破棄をするって事でしょうか?」
エレノアがそう問うと、ルシアンはすぐには頷かなかった。
「そうなんだが、少し違う」
彼は続けて話す。
「家同士が決めたから結ばれる。その形のまま、何となく君と一生を決めたくないんだ」
「……」
「俺は、君に“決められた相手”として隣にいてほしいわけじゃない。君が自分で選んだ相手として、隣にいてほしい」
その言葉に、エレノアの胸が揺れる。
「家が決めたからではなく、君自身が選ぶために。俺自身もまた、家の都合ではなく、自分の意志で君に向き合うために」
ルシアンは苦く笑った。
「もちろん、簡単な話じゃない。両家にとっても面倒だし、君にも負担をかける。だから、これは俺の勝手な理想かもしれない」
そこまで言ってから、彼はわずかに目を細めた。
「でも、今日の君を見たら、それでもそうしたいと思った」
「今日の、私を……?」
「ああ」
ルシアンは迷わず頷く。
「蜂蜜の菓子を食べて笑った顔も、自分で服を選んできたことも、行きたいと口にした時の声も、全部だ」
エレノアは言葉を失った。
どれも些細なことだ。けれど彼は、その些細な一つ一つをちゃんと見ていたのだと分かる。
「そんな君を、最初から家の都合に組み込まれた婚約者のまま扱いたくない」
彼の声音からは、本気だと伝わってくる。
「俺は、君と真面目に付き合いたい」
その一言に、エレノアの頬が熱くなった。
それは婚約よりも曖昧で、けれど婚約よりもずっと個人的で、ずっと彼自身の言葉だった。
「家の名前じゃなく、立場じゃなく、エレノア個人に向き合いたい。君にも、ルシアン・アーデンという一人の男として見てほしい」
エレノアはしばらく何も言えなかった。
今まで結婚とは、家と家の話だった。そこに“個人として選ぶ”という考え方が入る余地はないと思っていた。だが彼は、それを当然のように差し出してくる。
「……それは、とても贅沢な願いですわね」
ようやく絞り出した言葉に、ルシアンは少しだけ笑った。
「そうだな。たぶん、かなり」
「普通なら、家が決めてくださることを有り難く受け入れるべきなのでしょう」
「君はそう思うか?」
問い返されて、エレノアは口を閉ざした。
少し前までなら、迷うことなく頷いていたはずだった。
家が決めたことを受け入れる。それが正しく、それが穏当で、それが貴族令嬢としての務めなのだと、そう信じて疑わなかっただろう。
けれど今は違う。
あれらを知ってしまったあとでは、ただ“決められたから”という理由だけで未来を決めることが、前よりもずっと難しく思えた。
エレノアはふっと小さく笑った。
「いいえ」
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「確かに、ルシアンの言う通りかもしれません」
ルシアンの表情がわずかにやわらぐ。
エレノアは彼を見つめたまま、ゆっくりと言葉を継いだ。
「そうですね。私も、家としてではなく、貴方と真剣に付き合いたいです」
そこまで口にしてから、少しだけ息を整える。
「ここまで、私のことを見ようとしてくださった方は、初めてでした」
エレノアはそう言って、少しだけ目を伏せる。
「完璧だと褒められることはあっても、その奥に何があるのかを気にされたことはありませんでした。私自身でさえ、あまり気にしてこなかったのです」
ルシアンは何も言わずに聞いていた。
「ですが今日、私は確かに楽しかったのです。何を食べたいのか、何に目が留まるのか、何を美しいと思うのか――そういうことを少しずつ知っていくのが、思っていたよりずっと嬉しかった」
夕暮れの光が、静かに彼女の横顔を照らしている。
「そして、それを一緒に見つけてくださる相手が貴方だったことも……とても、嬉しかったです」
そこまで言うと、ルシアンが息をつく気配がした。
安堵したような、けれどまだどこか信じきれないような、そんな静かな吐息だった。
「エレノア」
名前を呼ばれて、彼女は顔を上げる。
ルシアンは少しだけ困ったように笑っていた。
「そういうことを真っ直ぐ言われると、俺の方が参るな」
「……ルシアンでも、そのようなことがあるのですね」
夕陽はもうすっかり低くなっている。王都の街並みはやわらかな橙に染まり、人々の影も長く伸びていた。
その中でエレノアは思う。
結婚とは、家と家の話だと、ずっと信じていた。そこに個人の気持ちが入り込む余地などないのだと。
しかし、愛のないはずの婚約でも、互いに歩み寄れば、そこに愛は生まれる。
何を好きで、何に心を動かされるのか。
本当は、その先で二人がどう向き合うかで、いくらでも意味は変わっていくのだ。
いつか後日談を書こうと思います。




