後編 指先に残るもの
私はその足音が遠ざかっても、しばらく泣き続けた。
立ち上がれなかった。息がうまく吸えなくて、胸が痛くて、鼻水まで出て、ひどかった。見苦しいなんて言葉じゃ足りないくらい、ぐしゃぐしゃだった。
その夜のことは、数日たっても頭から離れなかった。
恥ずかしかった。
あんなふうに泣いたことも、人に見られたことも、しゃがみこんで動けなくなったことも、全部嫌だった。布団に入ると、自分の裏返った声が耳の奥でまた鳴った。
でも、それ以上に、頭の中に嫌な理由がどんどん増えた。
前に話したいと言った時は受け取らなかったこと。
そのくせ終わらせる時だけ「ちゃんと」を持ち出したこと。
遅れてきておいて「ちゃんと来たじゃん」と言ったこと。
人前で声が大きいと私をたしなめたこと。
あんなあとで、周囲にどう話すつもりなのか、なんとなく想像できてしまうこと。
好きだった日のことを思い出そうとしても、その上から嫌な理由が何枚もかぶさった。楽しかった店の照明より、待ち合わせで曖昧に笑われた顔の方が先に浮かぶ。手をつないだ帰り道より、ドラッグストアの前でスマホを見たまま「そうだね」と返されたあの感じの方が、ずっと鮮やかだった。
思い出が薄いんじゃない。嫌になる理由が多すぎて、そちらが前へ出てくるだけだった。
三月の終わり、私は美沙に会った。
住宅街の角の喫茶店で、窓の外には小学校の桜が見えた。まだ満開ではなかったけれど、枝先がやわらかく霞んで見えるくらいには咲いていた。店に入るとコーヒーの匂いがした。コートを脱ぐほどではないけれど、着たままだと少し暑い。そういう半端な日だった。
美沙はもう席についていた。顔を上げて、「お疲れ」とだけ言った。
席につくなり、私は言った。
「別れた」
美沙は驚かなかった。
「うん」
「駅前で、すごい騒いだ」
それを言う時、自分でも顔が熱くなった。
「泣いたとかじゃなくて、ほんとに騒いだ。人が止まるくらい」
「何言われたの」
慰めの言葉も、大変だったねも、なかった。それがありがたかった。
私はひとつずつ話した。遅れてきたこと。お互いしんどいと言われたこと。最後に「ちゃんと来たじゃん」と言われたこと。
話している途中で、手が震えた。恥ずかしい話をしているはずなのに、喋れば喋るほど、恥ずかしさより腹が立ってくるのが分かった。
「それで私、叫んで」
「うん」
「すごかった。たぶん、通った人みんな見てた」
「うん」
「ほんとに最低」
「そうかな」
私は顔を上げた。
「最低じゃない?」
美沙はカップを持ったまま、少し間を置いた。
「みっともなかったとは思う。でも、そこだけ見ても仕方ない」
私は黙った。
「前から変だったじゃない」
その言葉に、胸の奥が少し動いた。美沙はすぐ続けなかった。コーヒーを一口飲んで、それからようやく続けた。
「会う約束、前日まで決まらないって前から言ってたでしょう。返事が来ないと不安だけど、催促すると面倒そうだからできないって言ってたし、ちょっと寂しいって言うだけでも重いと思われそうで怖いって言ってたでしょう」
私はテーブルの木目を見た。
たしかに私は、その話をずっとしていた。
「でも、忙しかったのかもしれないし」
「忙しい人はいるよ」
「優しい時もあったし」
「あるでしょうね」
「でも、優しい時があったことと、雑に扱われてたことは別だよ」
その言葉が、妙にまっすぐ入った。
その言い方が一番近かった。悪意たっぷりに傷つけられたというより、丁寧に扱う気がなくなっていた。だから、ひとつひとつは小さく見えた。でも小さいからこそ、こちらばかりが気にしすぎかもしれないと飲み込んでしまった。
「前に、ちゃんと話したいって言ったよね」
美沙がそう言った時、私は思わず顔を上げた。
「覚えてたの」
「覚えてるよ。今は余裕ないって言われたって言ってた」
その瞬間、胸の中で何かがきれいに噛み合った。私が話したいと言った時には先に延ばして、向こうが終わらせたい時だけ「ちゃんと話そう」だったのだ。
私はそこで初めて、あの夜の自分を少しだけ許せた。
正しかった、とは思わない。きれいでもなかった。でも、急に狂ったわけではなかった。
その数日後、奈緒から連絡が来た。
「ねえ、今週会えない?」という短いメッセージで、用件は書いていなかった。奈緒はいつもそうだ。本題は会ってから話す。だから逆に、これは何か報告があるのだということが分かった。
会ったのは駅ビルの上のカフェだった。奈緒はすでに飲み物を頼んでいて、私が座るより先に「アイスにした?ホット?」と聞いてきた。こちらの分まで頼もうとする。そういう人だった。頼んでもいないのに動いてしまう、だからこそ何でも知っている。奈緒のまわりには自然と情報が集まった。
少し雑談してから、奈緒が切り出した。
「ちょっと言いづらいんだけど」
前置きが入った時点で、私はだいたい分かった。奈緒が言いづらいと言う時は、たいてい私に関係がある。
「彼、ちょっと喋ってるみたい。別れ話した時に感情的になられて大変だった、とか。前から少し重くて、しんどかった、とか」
やっぱり、と思った。実際に聞くと、腹の底が冷えた。
「言いふらしてるってほどじゃないよ。ただ、聞かれた時に、そういうふうに。でも変だなとは思った」と奈緒は急いで続けた。「あそこまでなるって、よっぽどだよ。普段そんなふうに人にぶつけるタイプじゃないし。前から約束のことで悩んでたの、何人か知ってるしね。あっちが被害者みたいな顔してると、あれ?ってなる」
その言葉に、少し肩の力が抜けた。私が飲み込んでいたことを、見ていた人がいたのだと分かった。
しばらくして奈緒がグラスの氷をストローでくるくると回しながら、声のトーンを変えた。何か言おうか迷っている時の、奈緒の癖だった。
「もう一個だけ言っていい? あの日の広場にいたんだって、彼が最近よく話してた子」
奈緒はストローから手を離して、一回だけ私の顔を見た。
「待ち合わせ中だったみたいで。その場では普通にうわってなったみたいなんだけど、あとで彼があの夜のこと喋るじゃない。大変だったとか、重かったとか。そしたらなんか嫌だったな、って。泣いてた相手がいたのに、そんな感じで話すんだ、みたいな。それで前ほどじゃなくなったっぽい」
そうか、と思った。あの場所で、あの夜に向けて、もう次の人が決まりかけていたのだ。
ちゃんと来たじゃん、という言葉が頭の中で鳴った。遅れてきて、三十分以上外に立たせて、それでもそう言えた顔の意味が、ようやく少し分かった気がした。あの人にとって、あの日はもうそれほどの重さしかなかったのだ。それでも私への「重かった」の一言は、届くところへ届いていた。
四月の半ば、散り始めた桜の下で、去年も一昨年も顔を出していた花見があった。奈緒から「来る?」と連絡が来て、少し迷ってから行くと返した。
彼は来なかった。
誰かが「そういえば来てないね」と言い、別の誰かが「去年はずっといたのにね」と笑った。話題はそのまま転がって、「最近どうしてるんだろ」「あの子とも結局どうにもならなかったらしいよ」「え、そうなの」「なんか自然消滅っぽいって聞いた」と、誰ともなく続いた。それだけだった。深追いする人はなく、すぐ別の話になった。
缶の表面の水滴を親指で拭いながら、私はその流れをしばらく聞いていた。
妬ましかったのは本当だった。引きずっているのはこちらだけで、向こうはもう次へ動いていると思っていた。でも後始末もそんなものか、と思うと、妬ましさより先に、ただ疲れた気持ちが来た。あの夜にあれだけのものを残していった人が、その先もそういうふうに生きていくのだと思うと、怒りとも哀れみとも言えない何かが、胸の底にしずかに沈んだ。
帰り道、桜の花びらが歩道の端にたまっていた。
嫌になる理由は、今もひとつがひとつを引いてくる。前は好きだった顔つきまで、その列の後ろに押しやられていく。そのことを寂しいと思う気持ちと、それでもしかたないと思う気持ちが、まだ交互に来た。
ただ、丁寧に扱われなかったのだということだけは、骨の近くに残っている。
信号が青に変わった。私は振り返らずに渡った。




