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ほどけてしまった私たち  作者: サク


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前編 結び目を探して

二月の終わりから三月にかけての街は、毎年どこか落ち着かない。


日差しだけが先に春の顔をしはじめるのに、風はまだ冬のままで、朝の玄関を出た瞬間に首がすくむ。ドラッグストアの入口には花粉対策の棚が大きく張り出し、ティッシュと目薬とマスクが山になっている。沈丁花はもう匂っているのに、夜になると手の甲がかじかむ。春は来るらしい。でもまだ信用しきれない。そういう半端な季節だった。


今になって思えば、その頃にはもう崩れはじめていた。


最初におかしいと思ったのは、返信が遅いことではなかった。遅い日なんて前からあったし、仕事が忙しい時期なのだと聞いていたから、そこに文句をつけるほど子どもでもないつもりだった。


きつかったのは、返信に熱がなくなっていったことだった。


前は、返事が遅れても、その日の気配が少しは入っていた。会議が長引いたとか、昼に変な定食を食べたとか、駅前で高校生がふざけていたとか、どうでもいい一行が混ざっていた。そういう余計なものがあるだけで、その人の一日がこちらまで来る。


それがなくなった。


「了解」

「また連絡する」

「たぶん大丈夫」

「ごめん寝てた」


返事は来る。会話も切れてはいない。

でも、こちらへ向かってくる感じがなかった。前はたしかにあったはずの温度だけが、少しずつ抜けていった。


会う約束も同じだった。


前なら、来週の土曜にしよう、と決めたあとで、自然に時間や場所の話まで転がったのに、だんだん日にちだけ置かれるようになった。土曜か日曜か、昼か夕方か、前日の夜まで決まらない。こちらが聞けば答えは返ってくる。けれど、聞かなければそのまま沈む。


そういう小さなことは、いちばん始末が悪い。喧嘩にするには弱すぎるくせに、何度も重なると、ちゃんと痛い。


三月の初め、駅前のドラッグストアの前で待ち合わせをした日があった。風が強くて、店先ののぼりがばたばた鳴っていた。入口の横には花粉症コーナーができていて、「今年は早め対策」と大きく書かれている。私はそれを見て、「もうそんな時期なんだね」と言った。


彼はスマホから目を上げないまま、「そうだね」と返した。


たったそれだけだった。


でもその瞬間、目の前にある同じ景色を、一緒に見ていない感じがした。花粉の話をしたかったわけじゃない。ただ、同じ風を受けて、同じものを見て、ひとこと分け合う感じがほしかっただけだった。


それが地面に落ちたみたいに、そこで終わった。


帰り道、信号待ちをしているあいだ、私は自分のコートの袖口ばかり見ていた。何がつらいのか、その時は自分でもうまく言えなかった。これくらいで寂しいと思うのは面倒だろうか、と考えた。こんなことを言ったら重いだろうか、と考えた。でも一番きつかったのは、言えるかどうかより先に、言っていいかどうかを考えている自分に気づいた時だった。


その考え方そのものが、たぶんもう変だった。


言葉を選ぶ。

送る時間を選ぶ。

返事を急かしているように見えない文面に直す。

会いたいより先に、無理しないでね、と書く。


そうやって相手の機嫌に引っかからないように文章を曲げていると、自分が何を言いたかったのか、あとで分からなくなる。


三月に入ってすぐ、夜の電話で、「今度ちゃんと話したい」と言ったことがある。


責めたかったわけではない。ただ、最近少し寂しいことと、会う約束がいつも最後までふわふわしていることを、落ち着いて話してみたかっただけだった。


彼は少し黙ってから、「ごめん、今ちょっと余裕なくて」と言った。


その瞬間、胸の真ん中に冷たい板みたいなものが入った。

ああ、この話は今ここで置かれるのだと思った。責めたいわけでもなかった。ただ、受け取ってほしかっただけだったのに、それすら棚に上げられると、こちらの寂しさが宙に浮いたまま行き場を失う。


私はすぐに引っ込めた。

「うん、落ち着いた時でいいよ」

そう言って通話を切り、洗面所で手を洗った。水がやけに冷たかった。鏡の中の自分の顔を見て、またやった、と思った。言えなかったのではなく、言わないことを選んだ。その区別が、この頃ずっと曖昧だった。


それで終わったつもりだった。

でも、飲み込んだものは消えない。


三月半ば、彼からメッセージが届いた。


――明日、ちゃんと話そう。


その一文を見た瞬間、胃のあたりが固くなった。やっぱり、と思った。前にこちらが望んだ時には棚に上げられた言葉が、今になって急に向こうから差し出される。その順番だけでもう、ほとんど答えだった。


それでも私は待ち合わせに行った。

行かないで済ませられるほど、まだ割り切れていなかった。


駅前の広場は、風が抜けると急に寒い。噴水は冬のあいだ止まったままで、水のない石の鉢が夕方の光を鈍く返している。ベンチの金属も、案内板の柱も、触ったら冷たそうなものばかりだった。花壇の土だけが湿って黒く、そこだけ少し春だった。


待ち合わせは三時。

私は二時四十分に着いた。


早く着くのは癖だった。待たせたくないというより、待たれる側になるのが怖い。遅れるかもしれないと思われている時間に、胸がぎゅっとなる。でも今日は少し違った。早く来たのは、来る前に気持ちを整えたかったからだと思う。ここに来る前に、ひとりで立っていたかった。


三時を過ぎても彼は来なかった。

三時七分、三時十二分、三時十九分。

スマホを見るたびに時刻を確認して、また顔を上げる。噴水の止まった石の鉢を見る。花壇の湿った黒い土を見る。何も変わらない。ただ時間だけが過ぎていく。


ようやく来たメッセージは短かった。


――ごめん、少し遅れる


少し、なんだ、と思った。

二十分以上、人を外に立たせておいて、それでもその言葉を使うんだ、と。


彼が来たのは三時三十六分だった。少し急いでいるふうの歩き方で、でも本気で走ってきた感じはなくて、髪も乱れていなかった。遅れたことへの申し訳なさより、これから面倒なことを片づける気配の方が濃かった。


「前から少し考えてて」


そう言われた時点で、胸の内側ではもう何かがきしみはじめていた。

でも私は聞いた。最後まで聞こうと思った。


「たぶん、このまま会ってても、お互いしんどいと思う」


お互い。


その言葉を聞いた瞬間、視界の端がちりっと白くなった。私が話したいと言った時には余裕がなかったくせに、自分が終わらせたい時には、お互い、なのだと思った。


「お互い?」


「責めてるわけじゃないんだ」


「責めてないなら何」


彼は少し困ったように息を吐いた。

「だから、そういう言い方じゃなくて。ちゃんと来たじゃん、今日」


その一言で、胸の中の何かがきれいに切れた。


三十分以上遅れて。

前に私が求めた話し合いは棚に上げて。

最後だけ自分の都合で場所を指定して。

そのうえで、ちゃんと来たじゃん。


私は立ち上がった。勢いがついてベンチの脚ががたんと鳴った。


「何それ」


彼が目を見開いた。

「え」


「何それ」


一回目より、二回目の方が声が大きかった。近くを歩いていた人が一人、こちらを見た。


「ちゃんと来たって何。遅れてきて、それでその言い方するの」


「落ち着いて」


「落ち着いてるように見える?」


喉が熱かった。頬だけ風に冷やされて、変な感じだった。自分の声がどれくらい出ているのか、もう分からなかった。


「前に私が話したいって言った時は、余裕ないって言ったよね」

「……」

「その時は話せなくて、今は話せるんだ」

「そういう言い方しなくても」

「どういう言い方ならいいの!」


ここで、何人か足を止めた。


でもその時の私は、見られていることより、目の前の顔がまだきれいなままでいようとすることの方が許せなかった。


「お互いしんどいって何」

「実際そうだろ」

「そうじゃないでしょ!」


叫んだ声が、自分でもうるさいと思うくらい広場に広がった。噴水の鉢にいた鳩がばっと飛んだ。


「そっちがもういらないだけでしょう! 面倒になっただけでしょう! 私といるのがしんどかったなら、最初からそう言えばよかったじゃん!」


彼が「そういうことじゃなくて」と言った。

それを聞いた瞬間、涙が出た。ぽろぽろじゃなくて、急に堰が切れたみたいに出た。


「そういうことじゃないなら何!」


息が詰まって、声がひっくり返った。

でも止まらなかった。


「忙しい、疲れてる、また今度、落ち着いたら、って、ずっとそうやって先に延ばして、こっちが何か言おうとすると重いみたいな空気にして、最後だけお互いとか言わないでよ!」


ここで本当に人が集まり始めた。


通り過ぎるつもりだった人が少し離れた位置で立ち止まる。誰かが「大丈夫かな」と小声で言うのが聞こえた。若い駅員が遠巻きに様子をうかがっていた。少し離れたところでは、女の人がひとり、待ち合わせ中らしい顔でこちらを見ていた。その時は気に留める余裕もなかった。


彼は小さく「声が大きい」と言った。

私はそれで完全に駄目になった。


「大きくもなるよ!」


自分でもびっくりするくらいの声が出た。


「何か月もこっちは大きくならないようにしてたんだよ! 重いって思われないように、うるさいって思われないように、面倒って思われないように、ずっと小さくしてたんだよ!」


涙で前が滲んで、彼の顔がぼやけた。

でも、それでもまだ言いたいことが次から次へ出た。


「会う約束だって毎回ふわふわさせてたのそっちじゃん! 前にちゃんと話したいって言った時は無理だったくせに、何で終わらせる時だけちゃんと話そうなの!」


彼が「今ここで全部言わなくても」と言った。

その瞬間、周りの誰かが小さく息を呑んだ気配がした。


私は笑った。笑えていなかったと思う。鼻も喉もぐちゃぐちゃで、泣きながら歯を見せただけみたいな顔だったはずだ。


「今ここまで言わせたの、そっちでしょう!」


それからの私は、ほとんど泣き叫んでいた。


「もう好きじゃないって言えばよかったじゃん!」

「お互いにしないで!」

「自分だけきれいな顔するな!」

「私ばっかり好きみたいで、ずっと恥ずかしかったんだよ!」

「好きだったから飲み込んでたんだよ!」

「話したいって言った時、ちゃんと聞けばよかったじゃん!」


通りがかりの人が、もう完全に見ていた。

それでも止まらなかった。


私は最後にはしゃがみこんでいた。


膝から力が抜けて、石畳に手をついて、コートの裾が地面に広がった。泣き声なんて出したくなかったのに、喉の奥から子どもみたいな音が何度も漏れた。


「やだ……」


何が嫌なのか、自分でもうまく言えなかった。

終わるのが嫌なのか、この終わり方が嫌なのか、さっきまで好きだったはずの時間までまとめて汚されるみたいで嫌なのか、もう分からなかった。

ただ、嫌だった。ほんとうに、それしか残っていなかった。


私は顔を上げて、涙でぐしゃぐしゃのまま叫んだ。


「帰って!」


彼が固まった。


「帰ってよ!!」

「……でも」

「もう見たくない! お願いだから帰って! 優しい顔しないで! 帰って!!」


彼はさすがにまずいと思ったのだろう。まわりの視線を気にして、何か言いかけて、結局そのまま引いた。

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