第九話:つづきの予感
ホテルのドアを開けた瞬間、
「おっそ」
という声が飛んできた。
ソファに寝転がっていた拓実さんが、片目だけ開けてこちらを見る。
「もう昼近いんだけど」
その隣で、クッションを抱えた澪がにやにやしていた。
「LINEしたでしょ」
え、そうなの?
思わず湊さんの方を見ると、スマホをポケットに戻しながら、いつも通り涼しい顔をしている。
「心春とコンビニ行ってくるって」
「いや、どんだけ遠いコンビニ行ったんだよ」
拓実さんが面白そうに笑う。
「す、すみません……話してたら、つい……」
否定したつもりなのに、声にまったく説得力がない。
「まぁ、仲良くなったなら、よかったよ」
拓実さんはくすっと笑った。
湊さんは特に否定もせず、ただ肩をすくめるだけ。
……動揺したのは私だけか。
⸻
「とりあえずさ、腹減ってない?」
拓実さんのひと言で、四人で近くのパスタ屋に入ることになった。
店内は昼前で、ほどよく静かだった。
席に座り、メニューを開いた瞬間、自然と目が止まる。
――ナスとトマトのパスタ。
さっき湊さんと話していたせいで、どうしてもこれが食べたくなった。
「これにしようかな」
注文を終えて、少しして料理が運ばれてくる。
「わ、美味しそう……」
思わず声が漏れる。
やっぱり好きな味。
フォークを運ぶたび、自然と口元が緩んでしまう。
すると、
「ね、ナスちょうだい」
そう言われた瞬間、思考が止まった。
湊さんのフォークが、当たり前みたいに私の皿に伸びてきて、ナスをひと切れすくっていく。
そして何事もなかったかのように、
「……うん、美味しい」
と呟いた。
一瞬、時間が止まった気がした。
「ちょっと待って」
澪の声。
「え、もしかして2人、もう付き合ってるの?」
「なんで?」
湊さんは相変わらず涼しい顔で返す。
澪は机に突っ伏す勢いで笑った。
「いやいやいや!それもう完全にカップルのやつだから!」
「……ちが……」
否定しようとしたのに、声が詰まる。
拓実さんまで笑いながら言う。
「お前、勝手に食べんなよ。悪いな心春ちゃん。こいつ、心開いた相手には距離感バグるタイプだから」
湊さんは少しだけ困ったように笑って、私を見る。
「心春が美味しそうに食べるから……つい。嫌だった?」
普通なら嫌かもしれない。
でも、嫌じゃない。むしろ、嬉しい。
だけどそれを言葉にする勇気はなくて、
「さっきナスの話してたから……食べたいかなって思ってた。美味しいお店でよかったね」
なんでもないふりをして答えたけれど、内心はずっと落ち着かなかった。
意識しすぎてるの、バレてないといいな。
⸻
食事を終えて、店を出る。
「じゃ、そろそろ解散かな」
澪のその言葉で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
湊さんと拓実さんは、今日の夜には関東へ帰るらしい。
わかっていたことなのに、急に現実を突きつけられた気がした。
この人と並んで歩くのも、きっとここまで。
全部、ただの「旅行の思い出」になる。
……そうなるはずなのに。
このまま帰るのが、どうしようもなく辛かった。
「澪、私ちょっと買い物して帰る」
「え、そうなんだ」
「うん。付き合ってくれてありがとうね」
「じゃ、私は先帰るね〜」
軽く別れの挨拶を交わした、そのとき。
「心春」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。
振り返ると、湊さんがこちらを見ていた。
「俺も……買い物、ついて行く」
「え……?」
「どうせ、まだ時間あるし」
「俺はホテル戻って寝てるから、ゆっくりどうぞ」
後ろで拓実さんが、にやにやしながら言った。
⸻
結局、二人でショッピングモールを歩いた。
でも、服を見ても雑貨を見ても、何も頭に入ってこない。
隣に湊さんがいる。
それだけで、もう十分だった。
「ちょっと、歩きすぎたかな」
「……うん」
気づけば、小一時間ほど経っていた。
「そろそろ、帰ろうか」
その言葉に、胸の奥が静かに沈む。
駅へ向かう道。
朝よりも少しだけ騒がしくなった街。
それでも、並んで歩くこの時間が、やけに愛おしかった。
そして、別れ際。
「心春、LINE教えて」
息が止まった。
「え……?」
「え?嫌なの?」
嫌なわけがない。
胸の奥がじわっと熱くなって、慌ててスマホを取り出す。
「……ううん。でも……いいの?湊さん、連絡とか苦手そうなのに」
言ってから、余計なこと言ったかも、と後悔する。
でも湊さんは少し考えるようにして、
「苦手っていうか……」
ほんの一瞬の間。
「連絡先知らないと、どうにもできないでしょ」
その言葉が、胸に静かに落ちた。
「……本当に、いいの?」
この先を、期待しても…
湊さんは不思議そうに言う。
「何がダメなの?」
私は小さく首を振って、勇気を出す。
「……私……湊さんがいいなら、電話とかも……したいかも」
言い終わった瞬間、顔が熱くなる。
でも湊さんは驚いたように瞬きをして、それからふっと笑った。
「……うん。むしろ、電話の方がいいかも。LINEだと返信遅くなるし、素っ気なく見えるかもしれないし」
その言葉が、胸の奥に残った。
連絡先を交換する。
画面に表示された「湊」という名前が、やけに現実感を持っている。
「……ありがとう」
湊さんが小さく言った。
「こちらこそ……」
ふたりとも、少しだけ笑っていた。




