第五話:戻れない距離
「……ずるいのは、どっちなん……」
喉の奥まで出かかった言葉は、結局声にならなかった。
私はただ視線を落としたまま、黙り込む。
静けさが、部屋に満ちていく。
呼吸の音。
体温。
すぐ隣にいるという事実。
それだけのことで、こんなにも意識が乱されるなんて。
「……心春」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥がひゅっと引き上げられる。
顔を上げると、湊さんはすぐそこにいた。
近すぎて、ちゃんとピントが合わない。
「……ちょっと、近くて……ドキドキするけん……」
離れてほしい、と言いたいはずなのに。
言葉はそこまで辿り着かない。
湊さんは一瞬だけ目を細めて、困ったように笑った。
「……ごめん」
謝っているくせに、距離は変わらない。
——むしろ、ほんの少しだけ近くなっている。
肩が触れている。
腕も、触れている。
クッション越しじゃない、はっきりとした体温。
「……心春ってさ」
低く、落ち着いた声。
「俺のこと、そんなに好きなの?」
心臓が、どくんと鳴る。
「……うん。タトゥー入ってるのも、タバコ吸うのも……全部かっこいいって…私…」
言ってしまった、と遅れて気づく。
でも、もう隠す意味もなかった。
「……変なの」
湊さんが小さく笑う。
最初は、ただかっこいいと思っただけだったのに。
今は、こんな距離にいて、触れている。
湊さんの手が、ソファの上で私の手に触れた。
絡めるわけでもなく、ただ重なるだけなのに、心臓が跳ね上がる。
視線が絡む。
「……もしさ」
声が、少しだけ低くなる。
「今、俺がもっと近づいたら……嫌?」
頭では「早すぎる」「危ない」と警鐘が鳴っているのに、
胸の奥ではまったく違う答えが広がっていく。
「……嫌、じゃない……」
やっとのことで、そう言った。
湊さんの目が、静かに鋭くなる。
ゆっくり、ほんとうにゆっくりと、顔が近づいてくる。
息が混ざる距離。
あと数センチ。
世界が、静かに止まったように感じた。
——そのとき。
「……ん……」
向こうのベッドから、寝返りの音。
二人とも、ぴたりと動きを止める。
次の瞬間、湊さんは小さく息を吐いて、ほんのわずかに距離を戻した。
「……ただの寝返りか。タイミング悪いな」
苦笑混じりにそう言って、ほんの少しだけ距離を取る。
……あ。
胸の奥に、はっきりとした感情が残った。
——がっかり、している。
(……なに期待してたんだろ、私)
そう思った、次の瞬間。
「……っ」
視界がふっと揺れた。
次の瞬間、唇にやわらかい温もりが触れた。
思考が、完全に止まる。
すぐ目の前に湊さんがいて、少し困ったようで、でもどこか覚悟したような表情をしていた。
「……ごめん」
低い声。
でも、その目には、後悔の色なんてなかった。
「……今の、我慢できなかった」
心臓の音が、うるさすぎる。
「……嫌だった?」
そう聞かれて、私は首を横に振った。
すると湊さんは、ほんの少し目を細めて、口元をゆるめる。
「……やっぱりね」
まるで、最初からわかっていたみたいに。
「心春の反応、わかりやすすぎ」
からかうようで、でも声は落ち着いていて、余裕があって。
「……そんな顔で見られてて、何も感じないわけないでしょ」
その声が、あまりにも優しくて、強くて、ずるい。
私は何も言えなくて、ただ息を詰めたまま見つめ返すしかできない。
湊さんは、ほんの少しだけ笑った。
「……その顔」
「ほんと、ずるいよ」
まるで、私が悪いみたいな言い方なのに。
声はどこまでもやさしくて、楽しそうで、余裕があって。
悔しい、と思うのに。
逃げたい、なんて少しも思わない。
その距離は、もう動かない。
肩が触れたまま。
体温が伝わったまま。
逃げ場なんて、今の私には必要なかった。




