婚約破棄された令嬢は、"真実の愛"を騙る男を帳簿で斬りますの ― 公爵令嬢エレノアの裁き ―
◆ 第1章 婚約破棄の宴 ◆
冬の王都は、氷のように澄んだ光を吊るしていた。
宮廷舞踏会の大広間では、シャンデリアが冷たい星座のように揺れている。
弦の音は、誰もが気づかぬほどわずかに上擦っていた。
エレノアは白い扇を閉じ、掌にその冷たさを置いた。
視線は高くも低くもなく、ただまっすぐ前を測る。
胸のうちに、数字の呼吸が一度だけ乱れた記憶が、薄い影のように横たわっていた。
やがて、人波が左右に割れた。
レオン・モランが、若い仕立屋の娘を伴って進み出る。
彼の足取りは芝居がかった軽さを帯びていて、空気は彼のために過剰に静まった。
「皆の者、聞け!」
レオンの声は高く、天井の金に跳ね返ってから落ちた。
「私は真実の愛を見つけた!」
「ゆえに、婚約を――解消する!」
グラスのどこかが、乾いた音で割れた。
弦が一拍、遅れる。
群衆の笑いは、笑いでないものの気配をまとった。
エレノアは姿勢をわずかに正した。呼吸をひとつ、冷やす。
扇の骨が、手の中で静かに揃う。
彼女は一歩進み、声を整えた。
「……それが正式な通告、という理解でよろしいのですね?」
レオンの顎が、勝者のかたちに持ち上がる。
隣の娘――ミレイユが、小さく会釈した。
その礼は真面目で、まだ事態の重さよりも、礼儀の作法を守ろうとする手つきの方が強かった。
群衆の間を、軽いざわめきが滑っていく。
同情、興味、そして甘い残酷。
舞踏会は、物語の香りに弱い。
ギルベール・アルディエ公爵は、娘の半歩後ろに立っていた。
目は笑っておらず、声も上げない。
だが空気は、彼の沈黙で秩序を思い出した。
「その言葉は記録しておこう。」
公爵は淡々と告げた。
短い言葉のあとに、静寂が沈む。
それは、紙の上に線が引かれるときの静けさに似ていた。
感情ではなく、記録の側へ世界がずれる。
レオンは肩をすくめ、芝居を続けた。
「誤解してほしくない、エレノア。
僕は、いや、私は――彼女のためにすべてを捨てる覚悟だ。」
ミレイユの指先が、ドレスの縫い目を探るように震えた。
自分の仕事の習慣が、無意識に指を動かす。
針はなく、糸もない。
あるのは言葉だけで、言葉は布ほど正直ではない。
エレノアは答えなかった。
答えないことが、もっとも正確な返礼になる場がある。
沈黙は、軽い虚飾を降ろす重りである。
扇を下ろす手が、ごく小さく揺れた。
胸の奥、薄い影――“数量の呼吸が合わない”という記憶が、冷たい輪郭を増す。
恋の熱ではない。数字の煙だ。
彼女は視線を父へ送る。父はわずかに頷いた。
それは、手続きを始める合図であり、父娘のあいだで長く共有されてきた合図だった。
「本日の舞踏は、ここまでにいたしましょう。」
公爵の声が、会場の温度を一段下げた。
音楽がほどけ、礼が連鎖する。
礼は秩序の最小単位だ。
エレノアは一礼して身を引く。
扉へ向かう足音は、群衆の間にきれいな線を描いた。
拍手も野次も、彼女の背を汚すほどには大きくない。
ミレイユが、思わず一歩、彼らを追いかけかけた。
しかしレオンの手が、彼女の手首を軽く止める。
恋の手つきは、いつだって観客の方を向いている。
廊下は冷たく、長い。
壁の燭台が、炎を細く立てている。
炎は揺れるが、進むべき道は揺れない。
公爵は歩を緩めず、短く言った。
「怒りを、冷やせ。」
エレノアは頷く。
頷きは、宣誓より信頼できるときがある。
胸の温度は低く、視界は明るい。
「……承知いたしましたわ。」
二人の靴音が、規則正しく続く。
その等間隔は、やがて数字の拍子に重なる。
数字は、嘘を嫌う。
曲がり角で、執事のリュシアンが待っていた。
銀の盆に、湯気をほんのわずか残した紅茶が二つ。
彼は一礼し、薄い笑みを添える。
「今宵の音楽は、少々劇的でございましたな。」
公爵は受け取りながら、視線だけで応じた。
エレノアはカップを唇に寄せて、熱の具合を測る。
冷めかかった紅茶は、丁度よい温度だった。
「劇は、舞台の上だけで結構ですわ。」
エレノアは静かに言う。
言葉に刺はなく、刃だけがあった。
リュシアンは小さく目を細めた。
「記録係の出番でございます。」
公爵は頷き、扉を押す。
先にあるのは、紙、羽ペン、封蝋、そして、王へ向かう道筋。
恋の仮面は剥がせるが、記録は残る。
背後の大広間では、まだ少しだけざわめきが続いていた。
氷のシャンデリアは、何事もなかったように光っている。
光は、いつだって理性の味方だ。
エレノアは扇をたたみ直し、掌の中心に置いた。
「怒りを冷ませば、正確に刺せますの。」
その独白は、息よりも静かで、針よりも真っ直ぐだった。
そして二人は、記録の部屋へ消えていった。
宴は終わり、手続きが始まる。
世界が、少しだけ整う音がした。
◇◇◇
◆ 第2章 公爵邸の夜 ◆
公爵邸の書斎は、冬の夜気を遠ざけるように静かだった。
炉の青い小さな炎が、紙の端を柔らかく照らす。
窓の外で、庭の冬薔薇が風を一度だけ受けた。
エレノアは机の前に立ち、薄い帳簿を胸の前で揃えた。
手のひらの温度は落ち着いている。
怒りは、まだ芯で熱を持っていたが、表には出さない。
ギルベール・アルディエ公爵は、対面の椅子に腰をかけていた。
背筋は一直線で、机上の羽ペンは真横に置かれている。
その並びが、部屋の秩序の単位になっていた。
リュシアンが盆を運び入れる。湯気は控えめで、香りは淡い。
彼は無言でカップを置き、控えた。
エレノアは扇を脇に置き、帳簿を開く。
指先が紙の目をなぞり、呼吸を合わせる。
ページが一枚、静かにめくれた。
「申し上げますわ、父上。」
声は低く、ひとつだけ揺れて、すぐに静まる。
数字を言葉にする前の、礼の揺れだった。
「彼の帳簿は、数字が息を合わせていませんの。」
部屋の空気が、わずかに締まる。青い炎が、芯で小さく跳ねる。
公爵の視線が、帳簿の数字に落ちていく。
「記録は、粉袋二百の入庫。」
エレノアは一行ずつ、間を置いて読む。
「倉庫口の伝票は、百五十。」
「翌日の出庫が、なぜか百三十。」
一行ごとに、静寂が紙の上に置かれる。
沈黙は、数字を際立たせる余白になる。
怒りではなく、手続きの呼吸が部屋に広がる。
公爵は短く頷いた。
「恋ではなく、数字の嘘だな。
……怒りは消すのではない。冷やすのだ。」
エレノアは、胸の熱に薄い蓋を置く。
蓋は冷たいが、呼吸は楽になる。
その冷たさが、言葉を正確にする。
「婚約者でございましたから、目録の閲覧権限がありましたの。
……そこで、不一致が繰り返し現れました。」
「繰り返し、か。」
公爵は羽ペンを取る。ペン先から、細い音が立つ。
「ええ。数字の呼吸は、嘘をつくときに乱れますの。」
エレノアは視線を落とし、ページの角を指で揃える。
手は落ち着いていた。
リュシアンが、静かに咳払いをひとつ。
「お嬢様、紅茶は“理性の温度”にてございます。」
彼は微笑の皺を一筋だけ増やした。
エレノアはカップを持ち上げ、口元で温度を測る。
さきほどよりも、わずかに冷えている。
語るのに適した温度だった。
公爵は紙束を引き寄せ、言った。
「王へ出す。書面でだ。」
短い言葉は、部屋の四隅を整える。
決められた線に沿って、ものごとが置かれていく感覚。
エレノアの肩の力が、少しだけ下りた。
「文言は簡潔に。」
公爵はリュシアンへ視線を送る。
「余白は、理性のために空けておけ。」
「承知いたしました。」
リュシアンは新しい羊皮紙を広げ、定規で端を整える。
「見出しは『軍需物資目録における反復的不一致について』
……詩心は控えめにしておきましょう。」
公爵の口元が、目に見えぬ程度に動いた。
エレノアは、そのわずかな緩みを見逃さない。
緩みは、信頼の別名である。
彼女は帳簿の該当箇所に、薄い紐の栞を差し込む。
「関係伝票の写しも添えましょう。
数日分を並べると、呼吸の乱れが連なって見えます。」
「並べろ。」
公爵は即答した。
「数字は、行列で語らせるのが一番だ。」
羽ペンが走る。
事件の名は書かれない。
書かれるのは、数と日付と場所だけだ。
リュシアンが、封蝋の支度をする。
赤い蝋が匙で温められ、ゆっくりと溶けて丸くなる。
赤は、秩序の色だ。
「陛下は、お喜びになりますかな。」
リュシアンが軽く首を傾げる。
「詩のように短い報告書を好まれますゆえ。」
「詩は会食の飾りだ。」
公爵は書きながら言う。
「王は理性の皿しか召し上がらん。」
エレノアは、机上の紙を束ね直す。紙の角が、正方の端にぴたりと揃う。
整う音が、小さく耳に心地よい。
彼女は一度だけ深呼吸をした。
胸の熱はもう、形を持たない。冷やされた怒りは、言葉の芯になっている。
「父上。」
エレノアは視線を上げる。
「私は――立場を失っても、記録の側に立ちますわ。」
公爵はペンを置き、短く頷いた。
頷きは、承認であり、祝意であり、別れの準備でもある。
娘が娘だけではなくなる瞬間は、音を立てない。
「よい。」
公爵は封書を差し出した。
「ここに押せ。」
エレノアはゆっくりと、印章を受け取る。
指に重みが移り、血の温度と蝋の温度が釣り合う。
赤い滴が紙に落ち、円がひとつ、生まれた。
小さな音がした。
封蝋が、冷えながら固まる音。
それは、理性が形になる音だった。
リュシアンが封書を掲げ、柔らかく笑う。
「これで、恋より重いものがひとつ、できあがりましたな。」
エレノアは微笑というより、呼吸をひとつ明るくした。
「恋のお話は、帳簿を閉じてからにいたしましょう。」
公爵は立ち上がる。外套を羽織り、手袋を嵌める。
夜は深いが、理性は眠らない。
「王宮へ行く。」
公爵は扉へ向かいながら言う。
「記録は、早いほど清い。」
エレノアは一礼した。見送る所作は、寸分の狂いもない。
狂いがない所作は、人を支える。
扉が静かに閉まった。
書斎に残ったのは、青い炎と紙の匂い。
紅茶は、今度は冷めてもよい。
エレノアは席に戻り、控えの写しにペンを置いた。
ペン先が一瞬だけ止まり、すぐに走り出す。
数字は、もう息を合わせ始めている。
窓の外、冬薔薇の影が、月に短く触れた。
夜は長い。けれど、手続きは確かに進んでいる。
◇◇◇
◆ 第3章 王の裁可 ◆
夜明けの光が、王宮の高窓から静かに差し込んでいた。
金の房を揺らす風が、まだ冷たい。
けれども、その空気には「理性が動き出す朝」の香りがあった。
ギルベール・アルディエ公爵は、封書を両手で抱え、王の執務室の前に立った。
扉の向こうには、王と国の秩序がある。
扉のこちらには、父としての怒りがある。
その境界線に立つとき、男は常に自分を整えねばならない。
「アルディエ公爵、謁見の許可が下りました。」
侍従の声が響く。
公爵は頷き、扉が静かに開かれた。
王室の執務室は広く、だが冷たくはなかった。
棚には無数の記録帳、机には封蝋を押された報告書の山。
書類がこの国の血脈であることを、誰もが理解していた。
アルフレッド王は、窓際に立っていた。朝光を受け、銀の髪が淡く輝く。
手には、半分ほど飲まれた紅茶のカップ。温度はもう、理性のそれだった。
「来たか、ギルベール。」
王は穏やかに言う。声は低く、しかし響く。
理性の声は、静かであっても人を動かす。
「はい、陛下。」
公爵は一礼し、封書を差し出す。
赤い封蝋が朝日に光り、王はそれを興味深げに見た。
「娘の件だな。」
「はい。……そして、王国の数字の件でもあります。」
王は受け取った封書を、指で撫でながら微笑する。
「恋の熱は冷めるが、不正の証拠は冷めぬものだ。」
封を割る音が、室内に短く響く。紙の匂いが広がり、静寂が訪れた。
王は報告書を読む。行間に、冷たい秩序の息吹がある。
数値、日付、署名。
その整いが、美しくさえ見える。
「……ふむ。」
王は短く息を吐き、目を上げる。
「恋の名のもとに帳簿を乱す。見事な詩的愚行だ。」
口元に淡い笑み。だが目には一片の温度もない。
公爵は言葉を選ぶように応じる。
「詩にすがる者ほど、数字を恐れるものでございます。」
王は紅茶を一口。
「なるほど。では、数字の方を信じよう。」
机の脇に控えていた宰相が、落ち着かぬ様子で一歩出た。
「し、しかし陛下、これは一族の問題にございます。
恋愛のもつれに、監査院を――」
「宰相。」
王の声が一段低く落ちた。
「王国の帳簿に、“身分の欄”はない。」
その一言で、宰相の顔色が変わる。
王は視線を紙から離さず、言葉だけを続けた。
「不正は不正だ。愛で帳簿が満たせるなら、我が国は恋人たちで溢れていよう。」
室内に小さな笑いが生まれる。リュシアンが横で軽く咳払いしながら、低く囁いた。
「陛下のお言葉、まるで詩のようでございますな。」
王は片眉を上げ、皮肉を返す。
「詩とは、理性の飾りだ。飾りが多ければ、数字が見えぬ。」
宰相は口を閉ざすしかなかった。
封書の中の数字たちが、すでに王の理性に証明されている。
人の弁明より、記録の整合こそが真実だ。
王は机に戻り、羽ペンを取り上げる。
インク壺に静かに浸し、命令書の一行目を書き記した。
『監査院を動員せよ。』
筆跡は流れるようで、冷たい。理性は感情より速い。
王の筆は、それをよく知っている。
「王国の監査院に通達を。
本件を“恋愛事件”ではなく“国家の数字の問題”として扱う。」
宰相が沈黙する。
書記官が命令を写し取り、封蝋を準備する。
手続きの音が次々と鳴る。それは、理性の鼓動のようだった。
公爵は静かに頭を垂れる。
「御英断にございます、陛下。」
王は羽ペンを置き、封書を差し出す。
「恋の熱に浮かされぬ者が、秩序を守る。
君の娘は、よく教えたな。」
公爵は微笑とも頷きともつかぬ表情で答えた。
「娘は、母の静けさを受け継ぎました。」
「ならば、王国はしばらく安泰だ。」
王は紅茶を飲み干す。
カップの底に、薄く残る光。その透明さが、理性の証明のようだった。
リュシアンが王の机に近づき、文書を整える。
「封蝋の色はいかがいたしましょうか、陛下。
赤でございますか、それとも――」
「赤でいい。」
王は即答した。
「秩序の色だ。」
蝋が垂れ、封が押される。
「パチリ」と音がして、空気が変わる。
封蝋の香が、熱を持たずに残る。
リュシアンが書状を両手で掲げた。
「王命、発せられました。」
公爵は一礼し、踵を返す。
王はその背を見送りながら、低く呟いた。
「恋を演じた男に、数字の詩を読ませてやるとしよう。」
扉が閉じ、執務室には再び朝の光だけが残った。
窓辺の紅茶がわずかに揺れ、
その影が書類の上に、正確な線を落とす。
理性は、今、国を動かし始めた。
◇◇◇
◆ 第4章 監査の始まり ◆
王命が発せられてから三日後。
王都の外れにある軍需倉庫の鎖が、重たい音を立てて外された。
冬の朝の冷気が、錆びた鉄の匂いを鋭くする。
「封印、解除。」
監査官が短く告げ、文書に印をつける。
その筆跡は、まるで刃のように整っていた。
傍らで、リュシアンが両手を背に組んで見守っていた。
寒気の中、吐息だけが白い。
「倉庫というのは、正直者でございますな。」
誰にともなく呟き、淡い笑みを浮かべる。
扉が開く。光が差し込み、粉塵が舞った。
金属製の器具や麻袋が並ぶはずの空間に、思ったよりも隙間が多い。
数字が、ここでは影の形をしていた。
監査官が帳簿を開き、読み上げる。
「粉袋、記録は二百。現物、百三十。」
ペン先で数字を打つように叩きながら、淡々と続ける。
「鎖の番号札に不一致……封印の紋も擦れている。」
リュシアンは、静かに相槌を打った。
「恋は軽いですが、数字は重いもので。」
監査官はちらりと笑う。
「愛に重量の単位はございません。」
その短いやり取りが、冷えた空気の中で唯一の柔らかさになった。
やがて倉庫の奥から、別の兵士が駆け寄ってきた。
「監査官殿、こちらの棚にも不一致が。装備の記録と現物が、倍以上の差です。」
紙がめくられるたびに、空気が揺れる。
それは音ではなく、理性の波だった。
数字が語るとき、人は沈黙するしかない。
◇◇◇
同じころ、公爵邸の書斎では、エレノアが報告書の写しを前にしていた。
窓辺の光は青く、まだ冷たい。
机上の紅茶は手つかずのまま、湯気だけが残っている。
彼女は報告書に目を通しながら、静かに筆を走らせた。
書くのは感情ではなく、順序。整理とは、理性の最小単位だ。
「在庫数不一致、五件。
封印の損傷、三件。
伝票の再利用、二件。」
声に出して読むと、部屋の空気がわずかに締まる。
数字の呼吸が乱れるたび、心の中の冷気が形を増す。
それでも筆先は迷わない。
扉を叩く音。
「失礼いたします。」
リュシアンが報告書を抱えて入ってきた。
旅の冷気を連れてきたように、襟元に白い霜が光る。
「倉庫は、正直でございました。」
彼はいつもの口調で、少し皮肉を混ぜた。
「恋の名では隠しきれぬほどに。」
エレノアはペンを止め、顔を上げる。
「数字は、真実を裏切りませんのね。」
「はい、お嬢様。裏切るのは、いつだって人の方でございます。」
リュシアンが微かに肩をすくめた。
彼女は報告書を受け取り、整える。
文字の列が目の前で並び、整合の美がそこにあった。
「……ありがとうございます。父上にお渡しします。」
リュシアンが一礼して退室したあと、部屋は再び静まる。
エレノアは息をつき、扇を閉じる。
怒りではなく、覚悟が胸の奥で形を取っていた。
「恋という名の煙。
でも、煙は風があれば消えますわ。」
小さく呟き、ペン先をインク壺に戻す。
◇◇◇
同じ時刻、侯爵家の邸では、レオンが荒れた声を上げていた。
「なぜ監査官などが倉庫に! どういうことだ!」
机を叩く音が、虚しく部屋に響く。
ミレイユはその横で、怯えたように立ち尽くしていた。
「れ、レオン様……王命だと聞きました。監査院が……」
「そんなはずがあるか!」
レオンは怒鳴り、だが声の裏に焦燥が滲む。
「これは恋の問題だ! 愛のために婚約を破棄したんだ! 誰も俺を責められはしない!」
その叫びに、ミレイユはわずかに顔を上げる。
「……本当に、愛のためだったのですか?」
レオンの動きが止まった。
ミレイユの声は震えていたが、そこに初めて理性の輪郭があった。
「あなた、いつも数字の話を避けていました。
倉庫の帳簿を見せて、と言ったときも。」
「黙れ!」
レオンの声が空気を裂いた。
けれど、裂けたのは言葉の方ではなく、彼自身の虚勢だった。
外では、王の使者が馬蹄の音を響かせていた。
土の上に封書を落とす音。赤い蝋の封が、朝日にきらめく。
監査官がその封を拾い、印を確認する。
「監査完了報告書、陛下宛。署名、確認。」
封蝋が押され、音がした。
「パチリ。」
小さな音だが、それで一つの真実が閉じられた。
◇◇◇
夕刻、公爵邸の窓から淡い橙が差していた。
エレノアは報告書の控えを閉じ、視線を遠くにやる。
その目には疲れも悲しみもなく、ただ静かな確信があった。
「父上……これで、十分ですわね。」
彼女の声は風よりも穏やかだった。
背後で公爵が頷く。
「倉庫が語ったなら、もはや人の口は不要だ。」
エレノアは扇を閉じ、微笑にもならぬ表情で答える。
「数字こそが、真実の証人。
……そして、沈黙こそが、その証言書ですわ。」
窓の外では、冬の光がゆっくりと沈んでいく。
王都は静かに夜を迎え、理性の火がまた一つ、灯る。
◇◇◇
◆ 第5章 愛の崩壊 ◆
王城の聴聞室は、冬の光をそのまま閉じ込めたように冷たかった。
白大理石の床が、足音を細く返す。
集められた廷臣たちは息を潜め、空気が少しずつ凍っていく。
壇上には王。隣には公爵。
そして、正面の席にはレオン・モランとミレイユ・クレール。
背筋を伸ばして立つエレノアの姿が、まるで“秩序”そのもののように映っていた。
監査官が静かに進み出る。手には厚い報告書。
赤い封蝋が割られ、紙の匂いが広がる。
「報告いたします。
侯爵家軍需倉庫における在庫数、記録二百袋に対し、実数百三十。
その他、装備数不一致、封印損傷、伝票再利用。
不正の可能性、高と判断いたしました。」
会場がざわめく。
レオンの頬が引きつる。
その背後で、ミレイユが両手を胸に当て、震える指を隠そうとしていた。
王が、報告書を受け取る。一枚目をめくりながら、短く息を吐いた。
「恋に落ちるのは良い。だが、帳簿まで落とすのは、少々困る。」
言葉に笑いはない。ただ事実の音として響く。
誰も反論できない種類の皮肉だった。
レオンは立ち上がった。
「ま、待ってください陛下! これは誤解です!
私は愛のために、すべてを――」
「愛のために、在庫を減らしたのか。」
公爵の声が、それを遮った。
低く、鋭い。怒りではなく、手続きの音に似ている。
「ち、違います!
ミレイユは……彼女は何も知らない! すべては私が――愛のために!」
「愛で帳簿を満たせるなら、」
王がゆっくりと顔を上げる。
その視線は冷たく、同時にどこか哀しみを含んでいた。
「この国は恋人たちで溢れていよう。」
会場に、誰かの息が詰まる音が響いた。
それは笑いでも涙でもない。
人が理に打たれたときの、無音の反応。
ミレイユが顔を上げた。その目は、初めて真実を見る者の色をしていた。
「……レオン様、本当に……“愛のため”だったんですか?」
レオンは言葉を失い、声が出ない。
沈黙は、自白より雄弁だった。
エレノアは一歩も動かない。
手にした扇を静かに閉じ、ただその場に立つ。
誰の目も彼女に釘付けになるが、彼女の瞳は一点、王の机上の報告書だけを見ていた。
監査官が最後の一文を読み上げる。
「――虚偽報告の疑いあり。王国法第十四条、会計不正に準ずる。」
王は椅子に深く座り直し、短く命じた。
「幕を下ろせ。」
その一言で、衛兵たちが動く。レオンは呆然と立ち尽くし、手を伸ばす。
誰も、その手を取らない。ミレイユでさえ。
エレノアはその姿を見つめ、何も言わなかった。
沈黙は、もはや防御ではない。裁きの言葉を超える、最後の理性だった。
ミレイユが涙をこぼした。
それは後悔というより、現実を受け入れる痛みの涙だった。
彼女の指先が震えながら、自分の胸を押さえる。
「……ごめんなさい。」
小さな声が、静寂を裂く。
エレノアの視線が、わずかに彼女へ向いた。
目が合う。
エレノアは頷いた。
その頷きに、怒りも勝利もない。ただ、人としての秩序があった。
公爵が立ち上がる。
「陛下、判決文の草案を整えます。」
王は頷き、封蝋の印章を取り上げた。赤い蝋が溶け、命令文の端を染める。
その音――「パチリ」。
封が押される音は、鐘のように響いた。
それが、この日の終わりの合図だった。
◇◇◇
聴聞室の外、廊下の長い影の中。エレノアは扇を胸の前で静かに開く。
そこに風はない。けれど、空気は少しだけ軽くなっていた。
背後から父の声がする。
「怒りを冷やしたな。」
「はい。」
彼女は扇を閉じ、視線を遠くへやる。
「冷やせば、ようやく息が整いますの。」
王都の外では、夕刻の鐘が鳴り始めていた。
恋の幕が下り、理性の夜が始まる。
◇◇◇
◆ 第6章 軍法会議の裁き ◆
冬の光が白く、王城の石壁に差し込んでいた。
その明るさは、あらゆる陰を拒むようだった。
軍法会議の扉が開くと、静寂が迎え入れる。
王は長卓の中央に座し、公爵は右隣に控えていた。
宰相と将官たちが列を成す。
机上には、一枚の判決文と、赤い封蝋の小壺。
今日、この国の理性が形を取る。
書記官が声を張る。
「侯爵家軍需不正事件、審理最終日。被告、レオン・モラン侯爵家次男。」
言葉は形式的だが、その響きには冷たい決意があった。
レオンは席に座らされていた。その目には疲労と後悔が混じっていた。
もはや声を上げる気力もない。
舞台の幕はすでに閉じていることを、本人が一番よく知っていた。
王は視線を上げずに、報告書をめくる。
紙の音が室内を支配する。
その一枚ごとに、国の秩序が更新されるようだった。
「証拠、報告書、すべて確認した。」
王の声は低く、穏やか。
「恋という言葉では、数字の不整は埋められぬ。
……王国の帳簿は、誰の恋にも従わない。」
宰相が、恐る恐る口を開く。
「陛下、侯爵家の功績を鑑み、情状酌量の余地を……」
だが、その声は最後まで届かなかった。
公爵がわずかに椅子を動かし、書類を閉じる。
「法は感情を抱かぬ。だからこそ、正しい。」
宰相は口を閉ざした。
王の横顔は微動だにしない。
その静けさこそ、権威の証明だった。
羽ペンが再び紙を滑る。インクが、黒い線として残る。
それは情の色ではなく、記録の色。
王は短く息を吐き、筆を置く。
「侯爵家の軍需監督権、停止。再審の余地なし。
……名誉は、理に背かぬ者が持つものだ。」
書記官が震える手で判決文を受け取る。
封蝋が温められ、赤が溶ける。
溶けた蝋の表面に、王の印章がゆっくりと押し当てられた。
「パチリ」――。
その音が響くたびに、室内の空気が固まる。
理性の完結は、いつだって音ではなく、静止で告げられる。
王は印章を戻し、封書を掲げる。
「これをもって、王国は秩序を取り戻す。
恋に浮かれた者どもに、数字の冷たさを教えるがよい。」
将官たちが一斉に頭を垂れる。公爵も深く礼を取り、短く答えた。
「理の御名において。」
その一言で、すべてが閉じた。
レオンは沈黙のまま立たされた。声を発しようとしたが、空気に阻まれる。
王も、公爵も、もはや彼を見ない。
見ているのは、記録だけだった。
ミレイユは傍らで、静かに泣いていた。
それは誰に見せるでもなく、ひとりの人間として流す涙。
彼女の涙が、唯一この部屋の中で温度を持っていた。
「退廷を。」
王の声で衛兵が動く。
扉が開き、冷たい空気が流れ込む。
冬の光が一瞬だけ、判決文の封蝋を照らした。
その赤は、血の色ではなかった。
秩序の色だった。
◇◇◇
王城を出たあと、公爵とリュシアンは廊下を歩いていた。
リュシアンが低く息を吐く。
「これで、恋の詩は終わりましたな。」
公爵は口の端をわずかに動かす。
「詩は終わっても、帳簿は残る。」
「理性の詩というものも、ございますな。」
リュシアンが笑う。
「陛下の筆跡、実に韻律が美しい。」
「王は詩人ではない。」
公爵は言う。
「詩の言葉を使わずに、国を整える者だ。」
二人の靴音が廊下に響く。
それはまるで、封蝋の音の余韻のようだった。
◇◇◇
その夜、王の執務室では最後の文書が束ねられていた。
王はそれを見届け、灯を一つ消す。
窓の外、雪が静かに降り始める。誰も声を上げない。
それでよかった。理性の勝利は、いつだって静寂で包まれるものだから。
封蝋の赤がまだ温かいうちに、夜が更けていった。
◇◇◇
◆ 第7章 父と娘の夜 ◆
夜の王都は静かだった。
雪は止み、庭の冬薔薇が月の光を受けて白く光っている。
その花弁には霜が降りていたが、不思議と冷たさを感じさせなかった。
エレノアは、庭の小径をゆっくりと歩いていた。
薄い外套の裾を指でつまみ、吐く息を整える。
空気は澄み、遠くの鐘が微かに響く。
王国は眠っている。だが、理性だけはまだ目を覚ましていた。
ベンチの上には、銀の茶器が置かれている。
湯気が淡く立ちのぼり、月光と交わってひと筋の白を描く。
その横に、公爵――ギルベールが座っていた。
いつもと同じ姿勢、いつもと同じ静けさ。
だが、その沈黙の奥には、ようやく父親の温度があった。
「来たか。」
公爵が紅茶を注ぎながら言う。
湯気が二つの間を流れ、やがて一つに混じる。
「はい、父上。」
エレノアは軽く頭を下げて隣に座る。
受け取ったカップの中では、琥珀の液体が小さく波打っていた。
昼間、王城で押された封蝋の赤とは対照的に、その色は穏やかだ。
しばらく、何も言わなかった。
ただ、紅茶の湯気と薔薇の香りが混ざり合い、夜の呼吸になっていた。
言葉よりも静寂のほうが、二人には似合っていた。
やがて、公爵が口を開いた。
「怒りは、まだ熱いか。」
エレノアは少し考えてから答える。
「……ええ。けれど、その熱を持ったまま歩けるようになりました。」
公爵の目が細くなる。
その表情には、理性の満足と父の誇りが重なっていた。
「熱を保ったまま歩けるのが、大人というものだ。」
エレノアは微笑んだ。
「わたくし、きっと少しだけ大人になりましたのね。」
「少しどころではない。」
公爵は軽く笑い、ティーカップを傾ける。
「今日の紅茶は、冷める暇がない。」
「……父上が淹れてくださったからですわ。」
エレノアの声は柔らかい。
理性の人にしては珍しく、感情の色が乗っていた。
公爵は視線を空に向けた。
「王も言っていた。“理性の中に詩があるとき、国は静かに回る”と。」
「詩……」
エレノアはその言葉を繰り返した。
胸の奥に、あの日の痛みが遠く過ぎていくのを感じる。
あの宴で受けた屈辱も、帳簿をめくった夜も、いまは一つの旋律のようだった。
「詩とは、数字の間にある沈黙のことですわね。」
「なるほど。」
公爵の目が細くなり、わずかに頷いた。
「娘ながら、なかなかの詩人だ。」
二人の間に、静かな笑いがこぼれる。
風が薔薇を揺らし、香りが少しだけ流れた。
夜の空気は冷たいが、その冷たささえ、どこか優しい。
リュシアンが少し離れた場所から近づいてきた。
銀盆を持ち、淡い微笑を浮かべている。
「お二人のご様子を拝見していると、紅茶も安心して温かいままでございます。」
公爵が苦笑を漏らす。
「お前は相変わらず、理屈を香りに混ぜる男だな。」
「理性とは、温度の管理でございますゆえ。」
リュシアンは恭しく頭を下げ、再び下がっていった。
その後ろ姿が消えるまで、エレノアは目を細めて見送った。
公爵が紅茶を置き、娘を見た。
「エレノア。」
「はい。」
「これからも、怒りを恐れるな。ただし、冷やしてから使え。」
エレノアは一瞬、胸に温かい痛みを覚えた。
父の教えが、ようやく自分の血肉になったのだと理解する。
「はい。……冷やしてから、正確に刺しますわ。」
二人の笑いが重なる。
それは静かな、しかし確かな親愛の音だった。
月が庭を照らす。
冬薔薇の白が、夜の青に溶けていく。
その花の下で、エレノアはゆっくりと立ち上がった。
外套の裾を整え、背筋を伸ばす。
「父上、わたくし……明日、ミレイユの店へ行ってみます。」
公爵は驚かなかった。
むしろ、それをすでに知っていたように頷く。
「行け。赦しは、秩序の一部だ。」
エレノアは深く礼をした。
「ありがとうございます。」
月光が二人を包む。
その光は冷たくも、やわらかかった。
理性と情がようやく交わる場所――。
冬薔薇の庭で、紅茶の香が、最後まで温かく漂っていた。
◇◇◇
◆ エピローグ 赦し ◆
朝の光が、ゆっくりと王都を包みはじめていた。
夜の霜が溶け、石畳の隙間に淡い水の線を描く。
風は柔らかく、冬の終わりを告げるようだった。
仕立屋《ミレイユの店》の窓には、白いカーテンが揺れていた。
ミレイユは両手を布の上に置き、しばし動かずにいた。
その手は、針の跡で細かく荒れている。けれど、その指先には、確かな力が戻っていた。
扉の鈴が、小さく鳴る。朝の静けさを割らぬような音で。
ミレイユが顔を上げた瞬間、彼女の瞳が見開かれた。
「……エレノア様。」
その声は、息よりも小さかった。
驚きと戸惑い、そして後悔と憧れが入り混じっていた。
エレノアは扉の前に立ち、薄い灰色の外套を脱いだ。
仕立屋の中は暖かく、糸と布の匂いが心を落ち着かせた。
「お久しゅうございますわ、ミレイユ。」
その声は、優しいが、芯がある。
紅茶の湯気のように、静かに空気を満たしていく。
ミレイユは慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「も、申し訳ありませんでした……。あの時、わたしは……何も知らずに……」
「ええ。」
エレノアは一歩進み、視線を布に落とす。
「知らなかったことは、罪ではありませんの。
選ばなかったまま、流されたこと――それが痛みを残すだけ。」
ミレイユの肩が震えた。
言葉が喉の奥でつかえて、涙が先にこぼれる。
エレノアは彼女に近づき、机の上の布を指でなぞる。
「この布、とても美しい色ですわ。」
「……はい。新しく仕入れた糸で織ったんです。」
ミレイユは袖で涙を拭きながら答えた。
「もう一度、きれいなものを作りたくて。」
「なら、お願いがございますの。」
エレノアは微笑を浮かべた。
「この布で、ひとつ仕立てていただけますか? 私のために。」
ミレイユは息を呑んだ。
「……わたしに、ですか?」
「ええ。」
エレノアは柔らかく頷いた。
「資格ではなく、選択の問題ですわ。
あなたが、もう一度“誰かを着飾らせたい”と思えるなら。」
ミレイユの手が震えながら、布を握る。
その手には、もう怯えも迷いもなかった。
彼女は泣きながら微笑し、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……。必ず、美しく仕上げます。」
「楽しみにしておりますわ。」
エレノアは軽く会釈をし、扉へ向かう。
振り返ると、窓から差し込む光が、布の上に落ちていた。
その光はまるで針のように、まっすぐで優しい。
外に出ると、風が頬を撫でた。
朝の空気は冷たいが、心地よい冷たさだった。
遠くで鐘が鳴る。
新しい一日が、秩序とともに始まる。
エレノアは一歩、石畳の上を進む。
扇は手の中にあり、紅茶の香がまだ心に残っていた。
怒りはすでに消え、ただ静かな温もりだけが残っている。
「赦しとは、整えることですわね。」
独り言のように呟く。
風がその言葉を運び、朝の光に溶けていく。
仕立屋の窓では、ミレイユが針を動かしていた。
その針先が光を反射し、ひとすじの金糸のように輝く。
新しい布の上で、彼女の手は止まらない。
罪ではなく、希望を縫うために。
エレノアは歩みを止めず、王都の通りを進む。
背中には、光が重なっていた。
それは、赦しという名の理性の光――
世界を静かに整える、美しい朝の色だった。
ーーfin.
長編作品を連載中です!
⇒『婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!【長編版】』
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
お楽しみいただけましたら、ぜひ★やブックマーク、感想をお願いします。
(とても励みになります!)




