ドクトル、ルシフェルと会う
朝起きたら、すでにはるなは出勤した後だった.ご飯と味噌汁と鮭の切り身ときんぴらごぼうと白菜の漬物がテーブルの上に置いてある.よかったら食べてくださいとメモがある.
「おお、なかなかうまそうだな」と日本の朝食を堪能した後、昨日借りたはるなの亡き父の背広を着る.たたんだ背広を見て軽く一礼して、「それではお借りいたします」とかつての戦友に対する礼節を重んじる、「らしからぬ」堕天使だった.ワイシャツと背広を着た.ネクタイも置いてあるのだが、これはいいか、診察の時に面倒だからな.
テーブルにもう一枚、紙が置いてあるのを見つけた.それにははるなの勤めている病院の簡単な地図が書いてあった.メモを見て、矢印の通りに辿ると病院はあった.その角を曲がると病院だ.
大きな看板.病院名は、「なにぃ!天使会、セント・ミカエル病院だ!」
前にも述べたように、ミカエルは宿敵である.
「やめよかな、でもなんかはるなに悪いし、でもよりによってセント・ミカエル、どうしよ、行こうか、やめよか」、
散々迷った挙句に病院の中に「エイ!」とばかりに入っていった.何もあのミカエルの野郎が医者をしていることはあるまいと冷静に考えたからだ.彼にとってミカエルが出てくるかもという仮定の話より、頭痛の方が遥かに大きな問題だったから.
昨日はるなに教わった通りに受診申込書、と問診票を日本語で書いた.
脳神経外科の担当医は、なになに、「独取警一」だあ?昨日取り急ぎでっち上げた俺の名前も結構たいそうな感じだが、医者の名前もそれに負けず劣らず大仰だった.(ドクトリ先生だからドクトルか、なんかはるなそんなこと言ってたな、これからはこいつはドクトルとよぼう)
診察室の前のベンチで待つこと1時間くらい、ルシフェルの仮の名前が呼ばれた.「鬼丸厳一郎様、3番診察室にお入りください」
診察室の先生は、眼鏡をかけていた.頭はハゲていない、白毛もない.ちょっと小太りかもしれない.座っているから背丈はわからない.あまり高そうに見えない、なぜなら椅子の下の足は短かそうだから.穏やかな顔をしている.問診票を見て時々ちらりとこちらを見る.
「まず、お名前と誕生日を教えてください」
昨日練習した通りに答えた.誕生日も設定通りに言えた.
「昭和27年2月14日生まれです」という感じである.
「西暦で言うと?」「1952年です」
先生は、干支まで聞いてきた、「おっしゃー」
「昨日練習したからわかるぜ、辰年だろ」
「ですね、じゃ、2月14日は何の日ですか?」
「(え、しらね、そんなの想定問答集になかったぞ)」
今日の日付、場所、ここは何科ですか?とか色々聞かれた.
先生の指の動きを追視して、左右上下を見させられた.
目にライトを当てられた.
「瞳孔、不同無し、対光反射問題なし」ドクトルはぶつくさ言っている.
「目の見え方は問題ないですね、視野がかけるようなことは?」
ドクトルに指示されて、片目で指が動いているのを見させられた.
チラチラ動いているかどうかがわかるかと聞かれた.
「見え方の問題はありません」
「指が二つに見えたりはしませんか」ということも聞かれた.
「一本です」と真面目に答えた.
「どちらかの手が動きにくいとか、歩けないとか、痺れがあるとかもないですね.」
「そういう異常はありません」
「麻痺やら感覚障害はなさそうか・・・」
「立って歩いてみてください、今度は、まっすぐ足を揃えて立ちましょう、
そう、それで、目を閉じてみましょう」
言われる通りにした.目を閉じた時にちょっとふらっとしそうになったが
「ロンベルグはマイナス、と」とドクトル言った.
先生は、問診票を見て、ぶつぶつ言っている.
「飲酒、喫煙はしない.大きな怪我もしたことないか、なんかお薬飲まれてますか?」
「何も・・・」
医者は問診用を続けて読む.
「ほー.以前に頭から娘が生まれた時に、斧で、娘の足元から頭蓋骨ごと、切断されて、その傷口が痛む、ふむふむ、それでその娘さんは今どうされているのですか?」「うーんと娘のアテナは知恵と戦争と織物と工芸の神をやってるさ.もう初陣は終わってるぜ」ルシフェルが話しているのに無視してその先生は続ける.
「はあ、前頭部ですよね、松果体ではなくて、成熟奇形腫か何かでしょうか?奇形腫がそれこそ人一人の形になることはまずないはずなんですがね.その遺伝子はどうなるのでしょうね.でもその子は女となるとまったくわからなくなりますね.うーん、と言いながら、独取先生は、ルシフェルの頭からアテナが生まれたという本来あり得ない事実を何となく受け入れてしまっている.
「傷口を拝見しますね、わーこれはすごい、傷の治りがあまりに綺麗で.正中の上矢状静脈洞を横切る形で、骨をバッサリ切って、出血はしなかったんでしょうかね、私、以前に転落で、頭頂の頭蓋骨骨折と両側の急性硬膜外血腫の手術でとんでもないこと経験したことあるんですよ、頭頂の骨片を一気に取り除いてしまったもんだから、上矢状洞から大量に出血しましてね、たまたま、月曜の午前中で、手術室で他の手術がなくて、麻酔の先生がそうがかりで輸血してくれたりしたからその患者さん助かりましたけどね.何と出血が14000mlで輸血を濃厚赤血球40単位やってんですよ、いやー大変でした」
「あの先生!」と看護師さんが怖い目で医者を睨みつけて声をかけた.
「そうでした、失礼しました、そうですね、あなたの頭の傷、頭蓋骨の割れ方、一刀両断でこの切開をしたとしたらこの先生は神がかり的な腕の先生ですね、いやー会ってみたいです.手術見学できないかな、どこの何先生ですか?」
「あ、これは、仲間のヘパイストスっていう鍛冶屋の親方がきったんだが、そんなに上手く切れてるのかい」
「かじやさん?」
「おお、ヘパはよ、俺のダチで、腕のいい刀鍛冶さ、種子島の鉄砲も奴が壊して、構造を調べて、新しく作ったのを大量生産したって話だぜ」
ドクトルは「鬼丸厳一郎さん」の熱弁についていけない感じがした.脳外科ではなくて、精神科?統合失調症?の可能性も念頭に、もう一度冷静になって診察してみた.神経学的な局所症状はないようだ.間欠的に襲ってくる頭痛が問題.斧できった?というのが信じられないのだが、傷口の治りも悪くはない.かつて少年漫画で、胞状奇胎を摘出して、人工の手足をつなげて女の子を作ったという医者がいたように記憶しているが、それは奇形腫の間違いだっただろうか、など色々考えた.今日は採血一式、下垂体のホルモン、PLAP,hCG,等、おっとAFPもか.松果体胚細胞腫瘍関連のマーカーを見て、日を改めて造影含めたMRIを撮らせてもらうことにした.いや待てよ、胚細胞腫瘍のマーカーは免疫組織染色か、じゃ標本がないと意味がないからやめておこう、PLAPも髄液でなくてもいいのだっけ、まあ今日は髄液の検査はやめておこう、考えて、その日の診察は終わった.
ドクトルは今日の仕事が早く終わって、まだ少し明るいうちに帰宅である.途中で食事をしていくことが多い.コンビニ弁当買って帰ることもある.
少し離れたところをはるながぶつぶつ草やら花に話しかけながらふらふらと歩いている.
「あの、楠本さん.」ドクトルは声をかけてみた.はるなの苗字は楠本という.昼間の患者はどうやら楠本はるなの父の縁者というので、聞いてみた.
「楠本さん、今日の朝来た患者さん、あのなんて言いましたっけ、いかつい名前の、あそうそう、鬼丸さん、鬼丸厳一郎さん、なんですが、なんでも楠本先生のお知り合いとか聞いたのですが」ドクトルは、はるなの父に何度か教えを乞うたことがある.いわば師弟関係である.
「うーんよくわからないんです、なんでも鬼丸さん、昨夜うちに転がり込んできて、私の父の部屋に泊まり込んで、こいつは俺の古い戦友だ、なんて言ってるんですけど.でも父は戦争には行ってないですし、自衛隊のお医者さんでもなかったので.」
「不思議な人ですね.あの患者さんの話はギリシャ神話にある話なんですよ、ゼウスという神がある日、頭を痛がって、ヘパイストスというオリンポスの鍛冶屋の親方が、斧でスパッときって女の子の出産を手伝ったていう話、あの人、娘さんの名前はアテナだって言ってました.神話ではその生まれた女の子は知恵と戦争の女神のアテナって言うんです.神話を読んで影響された精神病の患者が夢物語をしていると言う感じでもない、本で知ってることを自分のことみたいに話すことができる人もいるのですが、そう言う精神を病んでいる感じは全くない.今度一度脳のMRIを取る予定にはしているのですけど、何かお父さんに聞いたことはありませんか?」(お、流石にドクトルは物知り.なんでも知っているな、)と感心しながら、知らんふりをした.
「父がお友達を家に連れてくることなんてなかったですしね、あの人には会ったことないと思います.父からそれらしい人の名前聞いたこともないですし.いつも夜は仕事でない時はすぐ帰ってきて部屋にこもって勉強している人でしたからね、どう言う関係なんでしょうか.」
実はルシフェルは金星の化身で、地獄の堕天使の首領で、さらに由緒正しい神の御曹司なんだが、親御さんと大喧嘩して天国追い出されて、みすぼらしい格好で天から降ってきて、その後、孔雀の羽の色の大天使に変身したこと、言っても信じてもらえないだろうし、何よりはるなも変な人とドクトルに思われるのは、今は嫌だった.
「楠本先生は、神話とか、聖書の話とか、中世の哲学とか、宗教とか、歴史は好きな人でしたっけ?」
「本棚にはそう言う本ありますよ.でもあまり読んでいるとこを見たことはないのですけど・・・」
「不思議だ」を繰り返しながら、首をかしげている.話をしている時、実ははるなはドキドキしっぱなしだったのだ.そんなことには全くお構いなしのドクトルは、それじゃと言って、どこかに足早に行ってしまった.はるなを食事に誘うと言うこともなしに.
ドクトルは、夕ご飯はコンビニで買ってきた.それにしても便利な時代になったものだ.
24時間営業、正月も休みなしの店が出てきたから、一人で生活が長いドクトルには非常に助かった.ドクトル宅に電子レンジなどという最新家電器具はない.だから生姜焼き弁当は店の人に温めてもらう.牛乳やらお茶、ジュースといった飲み物とかヨーグルト、アイスと、温めたお弁当は当然別の袋に入れるだから弁当を温めてもらう日には袋が二つずつ増える.
レジの袋がまだ無料の頃だ.毎日くれるからビニール袋で部屋がいっぱいになってちょっと困っていたところ、レジ袋有料政策という斬新な政策の大転換で、レジ袋が有料になった.家に散乱していた、コンビニの袋は、目に見えて少なくなった.レジ袋有料化、私は、いい政策だと思う.
家のドアを開けるて、一階の広間に行き電気をつけると、一斉に子供たちが声をかけてくれる.鉢植えの雪割草である.
風に吹かれた鈴の音、遠くに子供の声?耳を澄ませると、歌うような話し声が聞こえる.雪割草たちの、合唱が始まる、
「お父さん、おかえり」
「お父さんおかえり、喉乾いた」
「今日はね、雨が降ってね、向こうに虹がかかってね」あれ、窓とカーテン閉めてたよね.
「僕たち外見えるよ、」「見えるよ」そうか、心の目ってやつかな?
「あ、お父さんのご飯、生姜焼き弁当だ、みんな,お父さんのご飯、生姜焼きだよ」一斉に「おおー」というどよめきが起こる.
ドクトルはスターになった気分が毎晩味わえる.家に帰るのが楽しくなるそんな日常である.




