イタリアン・スパイ
モデナに於いて、打倒IZUMOを合言葉に、新型マシン開発が決まった。
そうなると、動きは速い。
製図室では直ちにニューマシンの図面が描かれ、エンジンの図面が完成すると同時に工場へ持ち込まれ、工作機械が唸りを上げてフル稼働に入る。
これまでDOHCとV型12気筒から一転してOHV水平対向6気筒への大転換にも関わらず、機械工は躊躇なく部品を作り上げていく。
尚、クランクシャフトに関してはこの時点で水平対向用と180度V型用と二つ作られた。何しろこの時点では、相手がどちらなのかは不明だったからである。
この時、その様子を複雑な心境で見つめていた技術者がいた。
男の名は、ジョアッキーノ・コロンボ。
実は、彼こそフェラーリに栄光を齎したエンジンの生みの親である。
フェラーリは草創期、1.5リッタースーパーチャージャーを試したこともあった。しかし、4.5リッター12気筒の方が、総合的には優っていた。
尚、この時の設計者はコロンボではない。
史実では既にフェラーリにはいなかったが、この世界ではフェラーリに在籍していた。57年以前にも御家騒動があったにも関わらず、それでも残留を選んだということは、恐らくコメンダ・ドーレとの間で何かしらの裏取引があったのだろう。
尤も、彼は1987年の死去まで一切を語ることはなかった。本来ならフェラーリを去っていてもおかしくなかった彼の慰留は、フェラーリの歴史に於ける謎の一つとされている。
フェラーリに於いて随一のキレ者と言われているが、それまでの成功の方程式に対する大転換は、やはり心理的抵抗があった。
だが、フェラーリにとってミレミリアと並び、象徴的なレースであったセブリングで敗れたことは、大転換を促す程のショックであったのは想像に難くない。
だが、コロンボをして、まだ何かが足りないと感じていた。そして、エンツォに日本行を申し出る。だが、彼も同じことを考えていたため、コロンボの申し出を即座に承諾した。
これは推測だが、コロンボの慰留は、こうした行動の速さと、エンツォとしばしば意見の一致をみていたことが最大の理由と見て間違いない。
というのも、その仕事の早さと厳しさ故、コロンボは部下からは大いに嫌われていたからである。なので、御家騒動で彼がいなくなることを密かに臨んでいた者は多かった。
翌日には、日本へ向かうアリタリアにて、機上の人となっていた。恐ろしい程の行動の速さである。
だが、その情報は、在伊日本大使館から電報が政府へ打たれ伝えられていた。
その際、イタリアもアメリカと並ぶ映画大国であり、実は歴史に残らない所謂C級映画も無数にあったため、敢えて映画のタイトルに準えていた。
尚、ネットで動画投稿が一般的になってきたことで広く知られるようになったが、イタリアでは昔から同人誌ならぬ同人に近い素人映画の制作が盛んである。だが、中には名作級も少なくない。
その時、こう書かれていたという。
『イタリアン・スパイが、近日公開予定……』




