スーパーチャージャー
エンジンは、当初から過給機付とすることが決められていた。
なので、エンジン本体も、それを前提として設計している。そして、当時過給機と言えば、所謂ターボではなく、スーパーチャージャーであった。
そのスーパーチャージャーは、ルーツ式と遠心式があるが、迷うことなくルーツ式を選択した。
ここまではよかったのだが、問題となったのは駆動源である。
「社長、やはり、常識に従い、クランクシャフトから取るべきでは……」
「いいや、トランスミッションのプライマリーギアから取りたい」
そう、過給機は通常ならエンジンから直接動力源をとるのだが、それだとロスが大きすぎる。実際、数値上の出力は増加しても、増加分の半分はコンプレッサーの駆動に食われてしまうのだ。
その上、様々なロスが加わるため、実質的な出力増強効果は精々15%くらいである。それでも過給機を装着した方が有利なのは、回転の上がるスピードが速くなるためである。
しかし、元より出力追求の上では不利なOHVである以上、過給機装着のメリットをもっと拡大したいのが本音であったし、技術陣もその点について異論はなかった。
だが……
「ミッションから取るなんて、これまで前例がないじゃないですか。それでもしもドライバーに何かあった日には……」
ミッションから取ることで、理論上エンジンによる駆動ロスは回避できる。だが、それはミッションに負荷が掛かることを意味するため、ミッションブローのリスクがあった。
実は、ミッションブローは、エンジンブロー以上に恐い。何しろ一瞬にして何もかもが制御不能に陥るのだ。
技術陣の心配も尤もであろう。但し、既にこの頃にはミッションから動力を取る方式自体は実用化されていた。だが、それは停止中であることが殆どか、走行中でもごく低回転のため、殆ど負担はないに等しい。
しかし、事がレースになると話は別である。実は、エンジン以上に負荷が掛かるのが、トランスミッションなのである。仮にベンチテストで問題がなかったとしても、走行中とは条件が異なるため、参考にはならない。
技術陣の抗議も無理のないことだ。
再び開発がストップしたことで、耕平は宍戸重工に出張の予定があったため、ついでに相談に乗ることにした。
因みに当時、広島と島根を繋ぐ交通網で代表的なのは国道54号線で、まだ舗装はされてなかったし、赤名トンネルも開通前夜だったため、峠をくねくねせねばならず、片道だけで6時間は要した。
赤名トンネルが開通するのは昭和39年、国道54号の舗装完了は、昭和46年のことであり、この時点ではまだ先のことである。
現在は尾道松江線の開通により、2時間もあればアクセス可能となったが、国道54号線の重要性そのものは、今も変わっていない。
というのも、どちらかが機能不全に陥ったとしても、山陽と山陰を繋ぐ貴重な連絡道なのである。特に54号線は、冬は雪に閉ざされ梅雨のシーズンには土砂災害のリスクもあるものの、復旧が比較的容易な点で、まさに命の道と言えよう。
まだ高速道路もなかった時代、最終的に8時間掛かって漸く宍戸重工に到着した耕平。だが、疲れを癒す間もなく、仁八に相談に乗ってもらうことにした。
「成程。いいアイデアじゃないか」
「だろ?だが、若手は利く耳持ちやしない。まあ無理もないけどな」
そのリスクを気にしている点については、仁八も同意はした。だが、
「けれども感心はしないな。そんなことでは進歩なんてありはしない。確かに前例がないんだからドライバーへのリスクが恐いのは当然だが、こっちには既に前例がある」
そう、SSDでは、二輪にスーパーチャージャーを搭載しており、その動力はミッションのプライマリーギアから取り出していた。
二輪の場合、四輪と比べるとリスクは低いとはいえ、さすがにこれは冒険であった。それでも問題はなかったのである。
仁八は続ける。
「実はだな、遠心式より、ルーツ式の方がリスクは低いぞ」
そう言ってのけるのには、ある理由があった。
実は、戦後間もない時期、復興を急ぐために生き残った工場はフル稼働状態、更にそれでも足りず生産性の飛躍的な向上が求められた。
電力は余っていたとはいえ、その電力インフラが復興に追われていたため、宍戸重工としては、産業用エンジンで発電するしかなかった。その時、飛行機用のスーパーチャージャーの部品として、爆撃機用に試作していたルーツ式が使われないまま終戦を迎えていた。
このため、発電量を上げる目的からフライホイールに直結して使った。というのも、皮肉にもクランクシャフトに接続する部品が不足しており、それしか選択肢がなかったのだ。
緊急事態とはいえ、結果は良好だった。しかし、遠心式を装着したエンジンは、残念ながらオーバーヒートしてしまい、修理に一か月を要した。
SSDではその遠心式を用いたのであるが、その理由はDOHCと相性が良く、加えて二輪は高回転であるため、接続によるリスクは殆ど問題にならないことであった。
また、ルーツ式のドッカンな特性は、コントロール性を著しく損なう。因みにホンダは50㏄ことグループAに於いて、翌年ルーツ式の装着に踏み切るのだが、あれは50㏄という特殊な条件の為せる業であった。
遠心式の場合、最低でも5万回転以上。このため、その超高回転がエンジンに多大な悪影響を及ぼす。つまり、エンジンに直結した場合、エンジン回転を速める方向に作用してとんでもない負荷が掛かる。
だからプライマリーギアを介して駆動する方式を選んだ。
「成程。お前がそう言うなら、十分説得力はあるな」
「だろ?だが、論より証拠だ。これをやる。これを見せればさすがに誰も文句は言わないだろう」
そう言って、仁八が手土産の代わりに寄越したのは、SSDのマシンのエンジン周りの図面であった。
「い、いいのか?それは機密だろう」
「お前の会社の技術がなければ、SSDの栄光はなかったんだ。その御礼だと思ってくれ」
そして三日後。戻って来て早速技術陣に図面を見せると、誰もが食い入るように見つめていた。
「な、何だこの緻密な図面は。さすがに栄光を掴んだマシンの図面は違うな」
「それよりどうだ?納得がいったろ」
「こ、これならイケるかもしれません」
これによって、漸く平行線だった意見が纏まり、開発は再び前進を始めた。
一週間後、過給機がミッションの上に上下方向且つ横置きに装着され、早速ベンチテストに掛けたところ、驚くべき数値が記録された。
「うおおおお!?な、なんだこの数値は!?」
出力計を見ると、予想されていた300馬力を軽く上回り、400馬力を超えていた。これは、3リッター且つOHVであることを考えれば、驚異的な数値である。尚、戦前を代表するGPマシンであるメルセデスベンツW154では、同じ排気量で過給機を装着し、480馬力であったが、8気筒且つDOHCである。
それに対し、こちらはOHV6気筒、更にターンフローと、出力追求の上で不利な要素がテンコ盛りであることを考えると、これは驚異的と言わざるをえない。
ある意味、20年以上離れているとはいえ、当時最強のマシンだったメルセデスをも超えていたと言えよう。
尚、実際の出力ロスは、恐らく20%前後だったのではと思われる。それでもかなり優秀な数値であり、出力増強効果に至っては、50%は超えているだろう。
これから先、細部の改修や煮詰め、インタークーラーの装着などが残っているが、取り敢えず峠は越えたと言える。
こうして、また一歩、ルマンプロジェクトは実現に近づいていくのであった……