モデナでの悲報及び朗報
セブリング12時間の後、フェラーリの監督は一旦帰国することになった。というのも、フェラーリへの結果報告は、電話ではなく口頭でするのが決まりなのである。
無論、エンツォは自宅のテレビで見ていて既に結果は知っているのだが。
正直、モデナに敗北の報をせねばならない監督は、1521年にマルティン・ルターが神聖ローマ帝国皇帝に自らを弁護するため向かう際、警護の兵が語り掛けたと伝えられる、とある言葉を思い浮かべていた。
『坊さんよ、坊さん、アンタの逝く道は大変だよ……』
因みに、イタリアはカトリックの国であり、ルターはプロテスタントであるが、彼の心情に、つい同情してしまった。
何しろ今から会いに行くのは、神聖ローマ帝国皇帝ではなく、北の教皇なのである。まさか、自身をルターと重ねることになろうとは。
レバノン杉の明るい色調の扉の向こうに、件の北の教皇がおわしておられる。
まさに、最後の審判に向かうような心境で、ドアをノックした。
尚、日本では三回だが、外国では四回である。というのも、三回とはトイレノックであり、この場合、北の教皇に三回なんて失礼極まりないことは言うまでもない。
日本人は、やりがちだと思うので、この先の日本の未来のためにも、これは最低限知って於いていただきたい。また、意識して四回叩くようにするのもいいだろう。
声が響いてくることはない。それは当然だろう。そして、監督はドアを静かに開けた。これが懺悔室ならどんなに楽だろうかと。これから報告に向かうのは、懺悔ではなく最後の審判なのである。
そして、悲報の報告の前に、北の教皇の怒声と同時に、レバノン杉の執務机を叩く音が響き渡った。これなら閻魔様に沙汰を下される方がマシだ。
「何たることだ、何たることだ!!何故我々が日本のマシンに敗れなければならんのだ。言った筈だよな。275に死角はないと。だが、現実問題として、あのIZUMOの前でチェッカーを受けることは叶わなかった。それも二度もだ!!今、WMGPでは故国は悉く後塵を拝している有様、その上自動車業界までもが後塵を拝して、どの面下げて私は国民に謝れというのだ。これでは面目丸潰れではないか!!」
北の教皇の激怒は尤もであろう。この時代、二輪は今のところまだ互角の戦いと言えるが、タイトルを悉く奪われていたのは事実であり、自動車は文字通り最後の砦であった。
このままでは自動車でさえ日本勢の後塵を拝することになるのは時間の問題だと危機感を抱いていたのは、何も彼だけに限ったことではない。
日本人にはピンとこないかしれないが、欧州に於いてレースでの戦績は自動車業界にとっても将来に関わる程重要なのである。ましてや日本と違い、欧米では自動車は文化でもある。
誰でもそうだが、アイデンティティを脅かされれば危機感を抱くのは当然だろう。何しろ日本勢の後塵を拝するということは、この場合勝ち負けを言うのはナンセンスだと思うが、誇り高き欧州文化の敗北であり、最早死ねと言われているに等しい。
こちらからすれば理不尽極まりない話だが、何故欧米が、あれやこれやと日本に対して、様々なジャンルでルール変更などの難癖をつけてくるのか。御理解いただけるだろうか。
ジャパンバッシングとは、文字通り彼らにとっては生死に関わる問題なのである。数々の理不尽は、彼らの立場からすれば、生き死にを賭けた死に物狂いの戦いに他ならないことを、我々は寛容に受け止める必要があるだろう。
日本及び日本人は、舶来文化に対して呆れるほど寛容なためにピンと来ないが、こういった無神経は、後々問題となりかねない。
寛容は良いことには違いないのだが、それは言い換えれば異国文化に対する敬意の欠如に繋がりかねないのである。
なので、形だけでもいいので、我々は舶来文化に対してもう少し有難がる風潮が必要だろう。特にこれからは。その意味では、西洋かぶれと言われても、明治大正期の方がまだマシだった。
こうなったのは、戦後の復興を急ぐ中で、気が付けば世界を凌駕してしまったことにあり、そこに悪意はないにせよ、僅か15年程で世界を制するまでになった日本に対して、警戒心どころか敵意を抱くのも無理のない話で、復興を急ぐ中で相手に敬意を払うことを忘れてしまったのは間違いない。
急いでいると、そういったことを考える余裕がなくなるのだが、それが後に日本にとって成熟期とも言える80年代から90年代、エコノミック・アニマルと揶揄された原因でもある。だが、当の日本人は殆ど気付いてなかった。
だからこそ、これから先、相手を改めて見つめ直す必要があるだろう。日本化もそれはそれで構わないのだが、舶来由来の品をそのまま売る必要もあるのではと思う。それこそ輸入をもう少し増やしても構わない。
それ程までに、日本製品が世界を席巻しているのだ。
話を戻そう。
嵐はいつかは過ぎ去る。
北の教皇の嵐は、激しいが過ぎ去るのも早い。次の瞬間には、既に冷静なコメンダ・ドーレに戻っていた。有体に言えば、これは一種の儀式でもあったのだが。
しかし、その儀式を受ける関係者は、堪ったものではない。
「報告と言っても、敗北の報だけではないだろう」
そう言って、エンツォは机の上に数枚の写真を並べる。
「実は朗報と致しまして、僭越ではありますが、あのIZUMOに勝つには、少なくとも同じ構造を採用する以外ありません」
それは、フェラーリのアイデンティティを否定するに等しい報告であった。だが、エンツォは冷静であった。
「成程な。やはりそうか。それしか解決策はあるまい」
因みに、史実に於いて、フェラーリが半世紀ぶりに耐久へカムバックした時も、エンジンはトヨタと同じ6気筒ターボであった。本来なら12気筒でもと思うだろうが、そこがフェラーリである。
その選択が正しかったことは、現在の健闘が証明している。
だが、当然コメンダ・ドーレの要求は厳しいものであった。
「それなら、何としても今年中。遅くとも最終の富士にはデビューさせろ。それが開発の条件だ」
この時、フェラーリは (見せ掛けの)経営危機を脱したばかりであり、加えて市販車もスケジュールが押し詰まっており、剰え275Pの熟成も進んでいなかった。
どう考えても無理である。
だが、北の教皇の発言は、主の声にも等しい。チーム監督は開発にも責任を負っていた立場上、現実を直視するなら無理ですと言いたいところだったが、言える筈もない。
この時、開発費以前に、人的リソースが圧倒的に足りない。コメンダ・ドーレもそれは分かっていた筈だ。それを承知の上で敢えて言うということは、彼も壮絶な覚悟を抱いていることを意味する。
「わ、分かりました。何としても間に合わせます」
そして、監督も壮絶な覚悟と共に、前線へ戻っていく。
こうして、モデナは昼夜違わぬ突貫スケジュールが組まれることになった。
この時代、フェラーリはF1にも参戦しており、フォーミュラマシンはそれこそ一か月で開発可能であったが、耐久マシンは非常に時間が掛かるのだ。
なので、モデナは地獄も斯くやという修羅場と化すことに。今だったら間違いなく労働基準法違反その他で大いに叩かれるだろうが、当時はそうではなかった。
そして、誰もが栄光の担い手であることを自覚していた以上、誰一人文句を言う者はいなかった。
そして誕生することになるのが、この年の最終戦からIZUMOと死闘を繰り広げ、66年から漸く栄光を手にすることになる、ディーノ306Pシリーズである……




