マイアミは土砂降り
島根を出発し、トラックに揺られること大阪までおよそ12時間。そこから伊丹空港にて、アメリカ行きの便に乗るのだが、当時アメリカへ行く便は、日本航空、もしくはパン・アメリカンことパンナムしかなかった。そして、これ程の貨物を一気に運べる便となると、パンナムしかなく、これがまた非常に高い物についた。
因みに1960年代当時、日本から海外への渡航費用は、ざっと70万円。これは大卒初任給の約3年分に相当する。そして、芸能人がハワイで正月を過ごす様子が話題となる前夜でもあった。
それでも50年代と比べ、10万円も値下がりしているのだ。
日本がサンパウロ市政400周年記念レースに参加した8年前と比べると、経済成長のお陰で出雲としてはそんなに大した出費ではなかったが、当時1ドル=360円の壁は、あまりにも厚かった。
この時の田中氏は、渡航費用に目を剥いたという。そして、後にこう証言している。
『あの時の請求書は、社長に見せたらクビになるんじゃないかと思いましたね』
その時の渡航費用は、一説には1000万円を超えていたとも。これは現在の額に換算すると1億円以上だが、当時の日本の経済力を考えると、実際には2億円以上の感覚だろう。
途中ハワイを経由し、更にニューヨークを経てマイアミ空港に到着したのは、大阪を出発して実に30時間余り後のことであった。
当時、マイアミ空港は1949年 (昭和24年)に一新したばかりであり、最新鋭の設備を誇ったのもあって文句はなかった。というより、実はパンナムの本拠地であると同時に、嘗てはアメリカ東部で唯一入国管理局があったため、要はアメリカの空の玄関口としてのメンツもあったことから、それは必然でもあったのだが。
同時に、当時のアメリカは驚くことに、空港では日本人と言えども対応は紳士的且つ非常に鷹揚だった。特に、渦海と風也のパスポートを見た際の職員の驚きようは、最早何かを畏怖しているかのようであり、誰もが唖然とする他なかった。
それを証明するかのように、彼女たちのパスポートを切っ掛けに、管理官は入国審査すらせず殆ど顔パスだった。
正直、戦後間もない時代、関係者の大半が進駐軍から散々ジャップと蔑まれてきた体験もあっただけに、この対応には拍子抜けしたという。
既に貨物も到着しており、開幕戦の舞台となるセブリング・レースウェイまで輸送済みの筈である。因みにこの時も税関はノーチェックだったという。それは、タグにある物を見つけたからであったのだが、職員はそれについて大っぴらに口にしないため、一体何であるのかは未だ謎に包まれているのだが、モーター月報の関係者は察していたとも。
尚、誤解なきよう言うと、アメリカの税関によるチェックは非常に厳しく、他のチームの場合、フェラーリであっても何もかも調べられているのだ。
アメリカはセキュリティ・チェックに関しては決して甘い国ではない。
そして、勇躍現地へ向かおうと一歩外に出ると待っていたのは何と、土砂降りであった。
「おいおい何だよこれ。フロリダって確か晴々した場所の筈だろ」
そこへ風也が一言。
「それは単なるイメージですね。この時期のフロリダは意外と雨も多いですから」
フロリダというと、太陽が燦燦と照り付けるサンシャインシティのイメージが強いが、実際には四季もそれなりにあり、冬になると北部から東部に掛けて寒波が襲来し、雪が降ることもある。
但し、年間を通じて比較的温暖で過ごしやすく、アメリカの富裕層が避寒地として訪れることも多い。
フロリダのベストシーズンは夏から秋に掛けてであろう。秋には紅葉も観ることが可能だ。なので、日本人の間でも人気は高い。
実はWME開幕戦となるセブリング12時間は、フロリダが最も不安定な時期に開催されるのだ。
そして渦海も、
「これは浄化の雨と思いましょう。寧ろ我々を歓迎してくれているのです」
その一言が救いとなった。
果たして、この土砂降りは、歓迎なのか。それとも……




