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いよいよ世界へ

 日本で初めて開催されたWMEで、まさかの国産車による快挙に、全国は大いに沸き立った。


 だが、WMGPと異なり、それでWMEが日本で認知されたとは言い難かった。元より計画していたことだが、出雲産業ではこの現状を憂い、何としても翌年のルマン制覇が日本の自動車産業の発展のためにも不可欠だと痛感していた。


「気が付けば、目標がいつかはではなく、デビューイヤーでの制覇となってしまったか」

 仁八と並んで考えるスケールの大きさには自信があった耕平だが、ここまで急激に膨張することになろうとは。さすがに戸惑いを隠せない。


 そして時は経ち、昭和37年 (1962年)を迎え、世間は年末年始に浮かれている中、無論出雲産業も正月休みに入っていたのだが、当然一部例外もある。


 それは、IZUMOとして参戦するメンバー。何しろ3月には開幕戦セブリング12時間レースがあるため、来月にはアメリカへ行かないと問題になる。

 なので、メンバーは大わらわだった。それにしても、事前に分かっていたとはいえ、いざその時が迫ると、予想以上に次から次へとすべきことは山積みであった。


 既に梱包を終えた機材は、これからトラックに積み込まれてアメリカへと向かう。因みにその総量は実に20トン。これは、90年代のF1並の量であるが、耐久は当時からそのくらいは普通であった。というより、当時の欧州勢と比べても倍はあったと思われる。

 何しろまだノウハウすらロクになく、加えて日本からの参戦となる位置的な不利も重なる以上、これは仕方がない。


 富士6時間で、耕平は密かに舞台裏を見ており、ある程度は参考にしているのだが、それでもこれだけの量が必要だったのだ。何しろその中には、欧州勢すら導入してなかった秘密兵器もある。

 何しろ耐久レースは、というよりモータースポーツは本質的には個人競技というより団体競技に近いが、取り分け耐久はモータースポーツの中の団体競技、或いは野球のような組織力が大いに問われる競技でもあるのだ。


 また、一旦出発すると、最終戦となる11月まで帰国することもない。ルマンなど、重要なレースでは耕平も観戦に来ることはあるだろうが、耕平は出雲産業の経営もあるため、ある男に監督を託していた。

 その男の名は、田中次郎。史実なら、まだ存命であったプリンス自動車に籍を置いているところだが、この世界では戦後、航空機の研究開発禁止に伴い、出雲産業へと再就職。農機や産業機械の開発に従事していた。


 そして、実は耕平にとって大学の二期先輩であり、確かに設計そのものは耕平の手によるが、あのマシン誕生は、彼のアドバイスなくしては有り得なかった。

 同時にマネージメントにも長けており、富士スピードウェイが落成した際には自らアマチュアレースに出場、その時のデータを基にチーム運営を行ったのも彼である。

 徹底した現場主義者であり、その時の活きたデータは、後々世界を大いに脅かすことになるのだ。


 そして出発当日、

「それでは、宜しく御願いします」

「ああ。心配はいらないよ。アンタこそ、大船に乗ったつもりで、この出雲の経営に専念してくれ」

 当人の当時の立場は技術部長であり、社長に対してとんでもな物言いだが、耕平が寧ろ頭を下げる辺り、どれだけの大物であるかが窺い知れよう。


 こうして、IZUMOによる世界制覇への長い道のりが始まる……

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