波乱の後半戦
ドライバーが渦海に交代する際、関係者の間からどよめきが聞こえていた。
「おい、あのIZUMOのマシンに乗り込もうとしているの、どう見ても幼女だぞ」
その動揺は、フェラーリも例外ではなかった。コメンダ・ドーレは意外とそうでもなかったが、監督は明らかに動揺している。あんな子供が乗って大丈夫なのかと。
尚、功はそんなドライバーの交代シーンもきっちり撮っている。ていうか、彼も動揺していたのだが。
「おいおい、あんなのが乗ってるなんて、犯罪だろ」
それは、オタク、萌えが定着している21世紀現在なら誉め言葉だが、果たして60年代当時はどうであろうか、判断の分かれるところである。
尤も、当時から日本では実写、二次元問わず子供が大活躍する作品は少なくなく、これも立派な日本の伝統文化であった。
乗り込んだ渦海に、耕平が告げる。
「一応分かってはいると思うが、次はゴールの1時間前にピットインだ」
「了解」
敢えて5時間目と言わず、ゴール1時間前と言ったのがミソである。というのも、5時間目と言うと、レーサーはそこに意識が集中しがちになって、非常に危ない。だが、ゴール1時間前と言えば、話は違う。この方が心理的な負担が少ないのである。
耐久では、こういった言葉一つでさえも気を遣うべきなのだ。尤も、それは耐久に限ったことではない。
3分が経過したところで、渦海に交代したマシンは、ピットを勢いよく飛び出していく。同じく誘導ミサイルの如く追随していくフェラーリ。
現時点で、共に周回数は同じ。となれば、どちらかがしくじるまで分からないという、危うい均衡の上に成り立っていた。
「ふう。それにしても、フェラーリが背後霊の如く見えるのって楽じゃないわ」
どうにか前半戦を無事乗り切って使命を果たした風也は、途端に傍らの椅子に崩れ落ちる。やはり、女性に、ていうか少女にとって、耐久レースはハードだったのだ。
因みに、女性でも勝機があるカテゴリーは、耐久レースとWRCくらいしかない。スプリントレースは全滅で、後はカートレースくらいか。しかし、男女が互角以上の戦いが可能であるが故、カートレースは死亡事故こそ少ないものの、世界的にも大惨事が多いことは、意外と知られていない。
耕平も、そんな風也を見つめつつ、自分の人選が間違ってなかったことを確信するのだが、やはり1カーエントリーは何かと心許ない。
かといって、現在問題なのは、そのツテがないことであった。出来ればIZUMOに売り込んで来てくれるのが一番なのだが、果たして交通アクセスも不便極まりない山陰まで来るような奇特な人間なんて、国内にさえいるかどうか。
だからこそ、このレースで最低でも10位以内に完走することで望みをつなげている側面もあった。当初から不相応に過ぎる高い目標だったかもしれないが、それだけの自信も確かにあった。少なくともこのマシンから、トラブルとなる要因は排除されている筈なのだ。
因みに現在、山陰の工場には、35台にも上るマシンが遊んでいる状態なのだが、これは62年シーズンへのフル参戦を見越してレギュレーションに対応していたからである。
翌シーズンからプロトタイプは参戦条件として生産義務が課せられることとなり、最低生産台数が25台以上となることが既に告知されていた。
つまり、理論上ワークスと言えども市販車で臨まなければならないということである。それに対し、35台を生産したのは、何処かのプライベーターへ供給することを意識していたからである。
そのくらいのサービス精神がないと、日本勢が世界へ打って出るのは難しいと判断していたのだ。
尚、プロトタイプ以外は元より生産義務はなく、プリンスやホンダはそのレギュレーションを逆手に取ってエントリーしようとしていた。
それでも大半が最低でも数百台は世に出ている市販車が多かったのは、実績ある車種でエントリーする方が何かと楽だから。その意味でプリンスは、かなりリスクが大きいと言えるかもしれない。
渦海に交代しても、マシンは特にトラブルもなく順調に周回を重ねていく。この時、車内は0.9気圧であった。
「そろそろマシンの挙動変化には気を付けた方がいいな」
耕平は、モニターを見ながらスタッフへ注意を促す。6時間レースの場合、IZUMOでは給油は交代時の1回のみとしていた。頻繁な給油では、静電気がその度に蓄積されるため、それがマシンにどんな影響を及ぼすか分からない。
なので、前半は最初の2時間に考慮しつつ、実は満タンの70%くらいしか入れていない。車内を0.9気圧にすれば、それが可能なのだ。それでも追随してくるフェラーリも正直恐ろしい。
しかし、後半戦では満タンにした上で、ゴール1時間前にピットインしてもらい、ここで5分程クールダウンすると同時に、車内を1.2気圧にする作戦だった。
実は、マシンはまるで生き物の如くゴール前になるとあちこちにガタが出始める。それは、6時間だろうが24時間だろうが変わらない。
しかし、それを防ぐ方法が一つだけあった。要は、理論上満タン状態と同じようにアップフォースとダウンフォースを釣り合わせることなのだ。
ゴール1時間前ともなると、燃料残量は理論上30%程度。これだとアップフォースが勝ってしまい、マシンの挙動や各部品への負担の掛かり方も変わって来る。それがトラブルの原因の一つであることは、案外知られていない。
このため、車重はコントロール不可能なので、理屈上満タン状態と同じダウンフォースを確保することで対処するのだ。それが車内を1.2気圧とする意味である。
同時に、それは富士特有の対処でもあり、標高が高い富士では、ゴール近くになると確実にマシンが音を上げることになるため、ドライバーがそれを感知して疲労が急激に増加する。
それを防ぐ意味合いもあった。寧ろこの場合、後者の方がより重要と言えるだろう。
やがてレース開始から5時間が迫り、そろそろ頃合いだとピットサインを出した。
だが、これが渦海に予想外の事態を引き起こすなど、誰が想像できようか……




