スリップ・ストリーム
スタートした60台余のマシンは、一斉に30度バンクへ雪崩れ込んでいく。
その際、ミーティングやテスト時の下見の甲斐あって、誰もが走行ラインを厳守しており、懸念された混乱は起きなかった。
しかし、この間モンツァ以上に長い時間縦Gが加わるため、ドライバーは必死で耐えていた。
レースは、このバンクを抜けたところからが本当のスタートである。富士は、まさにそれを意図して設計していたのだ。その方がスタート事故が発生しにくいのである。
バンクの終わりごろから、徐々にフォーメーションが崩れていく。2コーナーから先は、予想通りポジションを巡って苛烈な争いが展開していた。その割に、意外にも混乱は起きていない。
実を言うと、そこが設計の妙で、富士は単純に見えて、その正体は鈴鹿以上にえげつないコースなのだ。嘗ての経験者は言う。
『富士は日本で最も恐ろしいコースだ。ニュルブルクリンクの比じゃない』
息つく間もなく高速でマシンをこじくり回すため、実は二輪の開催も想定していたものの、そんなに多くはなく、WMGPでの開催は62年の一回だけ (鈴鹿がFIMからその危険性を指摘された150Rを130Rへ改修工事のため、代替開催)。また、スーパーバイク選手権もこの年の一回だけであり、ライダーからこんなに疲れるコースはないと苦情が殺到するハメになり (表彰台で倒れたライダーも多かった)、予定していた国内選手権も中止に。以降事実上四輪専用となる。
とはいえ、四輪でも開催地の標高の高さや、実は距離比であのニュルブルクリンクにも匹敵する高低差も重なり、レーシングスピードで走るのは非常にキツい。
そんな中で、一台見事なまでの走りを見せているマシンがいた。そう、IZUMOである。
バンクに入った時点ではビリに近かったものの、ヘアピンに入る頃には何と中団に位置していた。その間も驚くほど混戦を見事に躱しており、コントロールも見事だった。
それに実はフェラーリも必死に追随している。
尚、スタート時がそうであったように、IZUMOのマシンはスタートでは圧倒的に不利な構造だ。しかし、耕平はそれも勿論計算済みで、耐久に於いてスタートはそれ程重要ではないことを理解していた。
だが、大半の技術者はそうではない。その意味で、このような発想をする者は稀というより、変人に属すると言った方がいいかもしれない。何故なら何が何でも先頭に立とうとするのはレース関係者なら常識だからだ。それは技術者とて例外ではない。
しかし、耐久は長丁場であり、レース初期に先頭に立てても、終了時に先頭に立てている保証などない。だからこそ耕平はスタートを重視していなかった。
そんな物はピット戦略でいくらでも覆せるし、それに、それだけの戦略を実施できるだけの技術力にも自信があった。
ヘアピンでの様子を映像で見ていた耕平は、順調に推移していることを確認していたのだが、ちと速過ぎはしないかと思っていた。
「ていうか、あのマシンが思った以上の戦闘力ということか」
挙動に無理をしている様子が見られないので、そう解釈していた。しかし、それを必死で追随しているフェラーリが脅威だった。中でも特に脅威に映ったのが、スクーデリア・モデナの黄色いフェラーリ、275Pである。
「動きからして、ワークスの250より圧倒的にバランスが良い。これは侮れないぞ」
その違いは、表面上は排気量が3000㏄から1割増しの3300㏄となっているに過ぎないのだが、それに合わせて全ての箇所に手が加えられているに違いない、或いは、これこそが本命ではないかと読んでいた。
つまり、275を走らせているスクーデリア・モデナはサテライトチームであり、言わばワークスに供給する前の実験台でもある訳だが、それは建前で、実はコメンダ・ドーレから寵愛を受けているのはこちらではないかと耕平は推測していたのだ。
それもそうで、フェラーリの本社はモデナ市にあり、加えてフェラーリの本来のコーポレートカラーはジアーロ・モデナと呼ぶ黄色である。意外にもこの事実を知る者は、フェラーリ・オーナーでさえ少ない。
そして、二人のドライバー、ロレンツォ・バンディーニとルドヴィコ・スカルフィオッティが、彼の寵愛を受けていることは公然の秘密だった。
その二人が、ワークスではなくサテライトチームにいる時点で、本命は明白だと言わざるを得ない。尤も、250Pとてトータルバランスは非常に優秀で、侮れない相手であることに変わりはないのだが。
そして、この時点で実は優勝候補はIZUMOとフェラーリの2チームに絞られていた。
ヘアピンを過ぎると、長い最終コーナー。大半のマシンが定石通りの緩いアウトインアウトで走り抜ける中、風也はマシンをアウトベタで四輪ドリフトで走らせ何とゴボウ抜き。当然ドライバーはアウトから躱していくIZUMOに激しく狼狽する。
「おいおい何だあのマシン。アウトからあんなスピードで走り抜けていくなんて」
だが、そんなIZUMOに追随しているのが一台。そう、あの275である。何と、よりによって暗黙の禁止行為であるカーブでスリップストリームに入っていた。何しろドライバーはドリフトを得意とするロレンツォである。
実は、ドリフト走行だとカーブでもスリップストリームでコントロールが利く上、然程スピードも落ちない。
因みに1988年、F1フランスGPにてアラン・プロストがアイルトン・セナ相手に終始スリップストリーム状態で走っていてコントロールを失わなかったのは、実は細かなドリフト走行をしていたためである。
最終的にプロストが勝利し、セナは2位に終わったが、マシンを降りるセナは文字通り疲労困憊状態だった。
実は、コーナーでのスリップストリームは、追う側以上に追われる側にとって非常に負担の大きな行為なのである。マシンに負担が掛かっているし、追われる側がコントロールを乱される上、グリップ走行だと二台分の横Gがドライバーに掛かるのだ。
更に、開催地であったポール・リカールは、グリップ走行に有利なコースであることも皮肉にも災いしている。というのも、当時はまだミストラル・ストレートは非常に長く (現在はシケインが途中にあるが、当時でも1600m、嘗ては1800mあった)、スリップ・ストリーム合戦が各所で繰り広げられていた。同時に、意外にもカーブで本来コントロールが利かない筈のスリップ・ストリームが可能な、数少ないサーキットでもあった。
プロストは地元勢なのもあって、そのことを知り尽くしていたとしか思えない。だからこそ慎重派の普段からは考えられない鬼神の走りを見せたとも言える。その上、この年僅か2回しか記録していないポール・ポジションを獲ったレースの一つでもある。
因みにこの年、セナは何と、13回のポールポジションを記録した。
これは余談だが、セナはフランスGPではこの時の2位が最高で、とことんツキには恵まれなかった。プロストは生涯で6回の勝利を記録したのに対し、一度も勝てなかった。
話を戻そう。
富士は、最終コーナー出口が大きく絞り込まれているのが最大の特徴で、しかも慣れていないと突然何の前触れもなく急カーブに差し掛かったような錯覚に陥るため、その意味では非常に恐い。
それが分かっていたからこそ、FIAは事前に最低でも一週間を掛けて海外勢に走り込みを行わせたのである。無論、そのように判断したのは、洋平が見せた、あの映像が大きかった。
全ては河野父子によって、強かに仕組まれていたのである。
それでもやはり慣れない異国の地であることも災いしてか、急に現れる急カーブに対処しきれずコースアウトするケースが続出。この一周目で消えるハメとなったマシンは、全体の1割に上った。
ただ、急カーブになっていることが幸いして、急減速せざるを得ないため、然程スピードが出ないことからコースアウトしても致命傷となる可能性はまずなかった。
意外かもしれないが、最終コーナーで縺れ合っての大惨事は少なくない。61年イタリアGPに於いて、フェラーリに乗るフォン・トリップスが最終コーナーのパラボリカでコースアウトし、観客席に突っ込んで当人を含む14人が犠牲となったのはその典型である。
もしもこの事故がなければ、最終戦だったこともあり、61年のF1チャンピオンはフィル・ヒルではなく、ウォルフガング・フォン・トリップスだった筈であり、ドイツ人初のF1チャンピオンの栄冠をも手にしていたことになる。
尚、ドイツ人初のF1チャンピオンは、94年のミハエル・シューマッハまで待たなければならない。
多くのサーキットが、実は見せ場として最終コーナーのスピードを高めに設定していることが多く、その上ファイナルラップともなれば、その先はもうチャンスはないため、猶更レーサーの焦りを煽ることにもなる。それが大惨事に繋がる最大の原因だ。
上述のパラボリカと富士の最終コーナーは、似ているように見えるが、その性格は全く異なる。
「ちくしょう、こんな所で置いてかれてたまるか!!」
ロレンツォは、IZUMOを必死で追っていた。とにかく、コレをマークしないことには勝利は覚束ないと判断していたし、作戦会議でも、やはり本命を徹底してマークすることが勝利への近道であるという点で全員が見解の一致をみていた。
ピットでは、スタッフまでもがIZUMOの動静に神経を尖らせていた。どんな些細な変化をも見逃さぬように。
最終コーナーを二台で立ち上がっていく様子に、観客も総立ちで大興奮。また、報道陣もこの二台にフォーカスして必死で追う。
「案の定というか、もうレースの主導権がこの二台に絞られてきてるな」
覚醒した功も、勿論シャッターチャンスは逃しはしない。最終コーナーでの二台の様子はバッチリ捉えていた。因みに彼は特別にピットから撮影している。後にこれが大問題となるのだが。
というのも、後に刊行されたモーター月報特別号は、確かに国内では売れなかった。
しかし、一部が海外へ流出し、そこにはピットにいなければ有り得ないスクープの数々が掲載されていた。その上、どれも見事過ぎる程のベストアングルであり、後には当時の耐久レースを知る貴重な資料ともなるのだが、実は独占撮影であったことが発覚し、これで大いに非難を浴びたのが、よりによって日本政府であった。
そもそもが富士での耐久レース自体が河野父子の独断先行で進められた側面もあったため、皮肉にも河野一郎失脚の最大の原因ともなってしまった。
結局、河野一郎はこの時の責任を取る形で、二年後の昭和38年解散総選挙での不出馬を表明し、政界からの引退を表明することになる。
何でこんなことくらいで責任を取らされるのかと思うかもしれない。それは、当時の日本の国際社会での立場が大いに関係しており、2025年現在と異なり、敗戦国だったのもあってその立場の弱さは、現在からは想像もつかない程だった。
FIAを支える自動車産業が政商そのものであったことを考えると、FIAからの苦情申し立てを突っ撥ねることは不可能だったのである。
そんなことをすれば、日本の国際的な立場がどれだけ危うくなるか知れない。最悪の場合、アメリカによる日本完全占領すら有り得たのだ。
何しろこの前年に締結された日米安全保障条約が、(表向きとはいえ)アメリカにとって圧倒的に有利な内容であり、その上NATOという形で欧州にも睨みを利かせていたことを考えると、日本がもしも突っ撥ねれば欧州のパワーバランスが危うくなる可能性がある以上、秩序引き締めのためにも、その可能性は否定できなかった。
実は戦後間もない頃から、日本の影響力は何気に大きかったである。
このため、翌年の開催からは、FIAによる公認パスを交付された関係者はピットに入ることが許されるようになる。
それまでもピットで撮影した写真は存在するのだが、それは全てチームが趣味で残した物が殆どである。
因みに進藤功は、実は世界で初めてピットから撮影したカメラマンとして世界にその名を残すことに。同時に彼が世界的な写真家の一人として、更にモーター月報が世界的なモーター誌になる切っ掛けともなった。
これは余談だが、功が残した写真は、後にピットでの撮影の動線の参考にもなっている。後年、70年代に入るとテレビカメラもピットに入って来るようになるが、勿論功の写真が参考になっている。
富士での取材は、功にとって、入社していきなりの大仕事となったばかりでなく、彼を世界的な有名人へと押し上げたのだった。
再び話を戻して、オープニングラップでトップを走るのは、くじ引きで前を引き当てたのもあり、ワークスのポルシェ906。次いで二台の904が追随する。
IZUMOはこの時、まだ20位台だったが、ビリ近くのスタートであったことを考えると、驚異的な追い上げである。更に275を筆頭にフェラーリが続く。
その様子に、耕平は戦慄した。これが、世界のレベルなのかと。無論、文献や映像で分かってはいたが、実際にそれを目の当たりにするとなると、話が違う。
「これは……想像を遥かに超える光景だな」
耕平は、既に波乱の展開を確信していた……




