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目撃者たち

「今年のWME最終戦、素晴らしいレースになりそうだね」


 IZUMOによる予行演習の時、ピットの奥にあるVIPルームで密かに観戦していた一団がいた。

 それは、日本政府の面々である。取り分け河野一郎、そして河野洋平の二人はやったぜとばかりに喜色満面であった。 


「これで、今年のWME最終戦を、改めて我が国で開催する自信が付くってものですな」

「ああ、まったくだ。それにしても、谷田部でまさかの400㎞/h超えには驚かされたよ」

 あの時、谷田部には河野氏の知人もいた。彼は、図らずして歴史の目撃者となったのだが、河野氏を筆頭に政府関係者も映像を見ており、更に後日談がある。


 あの後、念のためコースを調べたら、舗装のあちこちに劣化が見つかり、結局一か月掛けて全面的に舗装をやり直すハメになった。元より官営だったので、そこは大した問題ではなかったのだが、これを受けて計算上450㎞/hにも耐え得るよう滑走路並に規格が強化された。この時、他のメーカーによるスケジュールが入ってなかったのが幸いだったが、谷田部が舗装工事に入ったことについては知らされていたので、業界は大騒ぎとなった。

 このため、直後に谷田部に行ってボロボロのアスファルト片を持ち帰るメーカーが後を絶たなかったという。彼らにしてみれば、それは黄金以上に貴重なデータでもあったのだ。

 実はこの時、国産メーカーに紛れて欧州の自動車メーカーの関係者までもが密かに持ち帰っていた。FIA経由で知ったからである。


 皮肉にも、谷田部の舗装がボロボロになったことは、日本の自動車産業が急速な進歩を遂げている証明ともなった。


「それより、富士に参戦するのは、IZUMOだけかね?」

「いいえ。プリンスとホンダがグループ2と1に出走予定だと聞いてますよ」

 共に、史実より早くそれぞれR380とオープンのR381、そしてS500(程なく600も登場)を参戦させることに決めていたのだが、IZUMOによる刺激もあったのは間違いない。

 何しろ急遽決まったWME開催である。予定よりスケジュールが前倒しで、開発部門は徹夜続きだと聞いていた。

 共に市販車部門でクラス別の出走となるのだが、特にホンダは史上最小排気量での出走となり、別の意味で世界を驚かせることになる。

 翌年IZUMOと並び、ホンダもルマンへスポット参戦を決めるのだが、実は1000㏄以下での参戦は前代未聞であった。


 因みに、WMEではクラス別に走行タイム規定が存在し、コースを事前に試走してトップタイムの200%以内でなければ出走はできない。

 例えば、とあるサーキットでのタイムが、あるクラスで一周3分だったとすれば、その200%なので、9分以内でなければ出走資格を失うことになる。

 2000㏄以下のクラス1は比較的緩いとはいえ、何気に激戦区でもあり、実は出走数の多さから200%以内ルールを満たせず出走見送りとなるケースは意外と多いのだ。

 なので、ホンダの参戦が如何に驚異的な出来事であるか御理解いただけよう。


 この時、ホンダでは水面下でF1プロジェクトを密かにスタートさせていただけに、よくそれだけのリソースがあったものだと言わざるをえない。

 何しろこの時、二輪でもかなりのリソースを注ぎ込んでいたし、更に市販車でも四輪への進出を企図していたことは、S500の発表からも明らかであった。

 高度成長期ならではのイケイケアゲアゲの風潮もあったろうとは思うが、この時のホンダは、間違いなく世界で最も勢いある企業の一つだったに違いない。

 尚、スポットとはいえルマン参戦に当時社長の本田宗一郎は反対だったと漏れ伝わっており、主に若手技術者からの突き上げに折れた結果だという。


 本田宗一郎が世を去った直後に判明することだが、社内クーデターとも言えるルマン参戦の首謀者は、何と後にニ代目及び三代目社長となる河島喜好、久米是志であった。

 その理由は、自動車メーカーとしてのホンダの将来を鑑みた判断であったという。何故なら純粋に速さを追求するフォーミュラーレースは、ブランドイメージ向上には貢献するが、市販車には格段の耐久性が要求されることを、初代クラウンの輸出失敗から学んでいた。

 つまり、ホンダとしては、アメリカで通用する商品力がなければいずれ自動車メーカーとしては立ち行かないことが分かっていた。そのためにも必要な商品力を手にするには、ルマン参戦が手っ取り早いと判断したのである。

 

 尚、この歴史が明らかとなったことで、後世の歴史学者の中には、ホンダはこの時を以て本田宗一郎のホンダから、世界のホンダになったのだと解釈する者もいる。

 つまり、あのクーデターの時点で、ホンダは実質的に創業者の手を離れ、自立を始めていたのだと。


(それにしても、最大の懸念は、あの二人が完走まで持ち堪えられるかどうかだな……)

 洋平は、ヘロヘロで担ぎ出された風也に不安を抱いていた。そもそも富士自体が前代未聞の条件下にあるサーキットであることは承知していたが、これ程とは思ってもいなかったのである。

 以前のこけら落としのアマチュアレースとは、さすがに訳が違った。何しろこちらは本格的なレーシングマシンなのだ。


 実を言うと、標高がここまで高い場所にあるサーキット自体が世界的にもそんなに多くない。欧州の主だったサーキットは、当時大半が森を切り拓いて作られていたが、山の中に作られたサーキットとなると、海抜700m近い場所にあるエステルライヒ・リンク (1997年からレッドブル・リンクに改称)くらいしかない。

 次点ではクレルモンフェラン、ニュルブルクリンクくらいか (共に標高差が300m以上ある)。


 世界でこれを上回るサーキットと言えば、メキシコにある標高2240mのメキシコシティ・サーキット (史実のエルマノス・ロドリゲスサーキット)くらいである。

 だが、富士が大きく異なるのは、当時としても珍しくなりつつあった超高速サーキットであることだ。洋平をして、世界で最もドライバーに厳しいサーキットの一つである。何しろ鈴鹿とは別の意味で息つく間がない。


 あの様子から、脱水症なのは間違いないと確信しており、これは参加者に周知して情報を共有してもらわないと危険だと思った。


 そういった懸念を抱いていた一方、洋平は何処か楽天的でもあった。

「出雲のことだろう、参戦までには必ず手を打ってくるな」


 だが、富士に於ける懸念は、それだけではなかった。それは、開催時に明らかとなる……

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