予行演習
IZUMOの正式なデビューまでこの時点であと3か月。
マシンが一定の完成をみたところで、一行が向かったのはデビューの地となる富士スピードウェイ。
この世界では、史実より5年早いオープンとなり(こけら落としのレースはそれより一年前)、また、敷地の有効活用のため、ゴルフコース、更にダートコースが設けられ、後の鈴鹿と同じくレジャーランドとしての顔も持つ。
因みに当初はホテル建設も予定されていたのだが、周囲には戦前から続く老舗の旅館、ホテルが多く、客の取り合いになって寧ろこちらの経営まで悪化させかねないとして却下となったのだが、その名残としてクラブハウスがコースの近くにある。
元より伝統あるサーキットには付帯している施設なので、国際格式を当初から意識していたのは明らかであり、その後レース以外でも各界の名士が集うようになり、富士社交クラブと呼ばれることに。
ドライバーズミーティングもここで行われるし、FIA関係者のための宿泊機能や、貴賓室まであり、天覧観戦までも視野に入れていた。
全体に高低差の少ない平坦なコースであるが (但し、バンクの入口と出口の高低差が80mもある)、コースのある標高自体が600m弱と高く、その上コース全景を見ると開けているように見えるが、実は山腹に造成されており、周囲は森に囲まれている。このため、環境的にはニュルブルクリンクの頂点部に近い。
要は、マシンにとってもドライバーにとっても鈴鹿とは別の意味でハードなコースであることを意味していた。
30度バンクのお陰で世界的にも類を見ない超高速サーキットでもあるため、ドライバーはとにかく気が抜けない。しかもこの30度バンク、広い幅のために気付きにくいが徐々に径が絞められていく形状になっており、ヘタにオーバーテイクは出来ず、結果、コースラインは事実上一本しかない。
しかし、これによって差を詰められるというメリットもあり、ドライバーにはスリップストリームに入ることでチャンスを得ることができる。
そして、全長が6㎞というのも実に絶妙で、リセットされるまでの距離としては比較的長く、かといってロングコースにありがちな精神的負担は軽減される。
だが、これによってチャンスが生まれるということは、逆を言えば激しい下克上が展開するということでもあり、その意味でドライバーは気が抜けないのだ。
後に富士でWMEが開催されることになった時、6時間としたのは、レースの歴史が浅い日本で24時間レースなんか出来る訳ないだろというFIAなりの配慮だったのだが、フタを開けてみれば、WMEに於いてルマンに次ぐハードなレースとなる。
ゴール後のレーサーは皆ヘトヘトになるのだった。また、完走率は非常に低く、時代が下ると波乱の展開の中で、僅か数台という事態も発生することに。
見た目に反して、実は非常に緻密に設計されたコースである。
だが、このハードな環境の中で、日本の自動車産業は大いに鍛えられることになるのだ。
途中にはいくつかバイパスも設けられており、必要とあらばテクニカルコースとしての使用も可能で、後に富士を舞台に様々なレースが繰り広げられることになる。
同じ富士でもコースの性格が全く異なるため、更に季節によっても性格が大きく変わることから、走り慣れているレーサーでも飽きることがない。
「これは実にスゴイわあ。こんな風景見てると寧ろお参りしたくなっちゃう」
「ていうか、富士山を眺めながらレースだなんて贅沢の極みだよね」
それが渦海と風也の偽らざる感想である。尚、二人は戦後間もなく、富士山に登頂した経験があり、その頃の様子も憶えていて、まさに深い森であった。
それがまさか、こんなに素晴らしいコースが出来るとは、夢にも思っていなかった。感慨一入も当然であろう。
「オレも、こんな場所を見てるとゴルフがしたくなるな」
耕平の意外な趣味がゴルフであり、休みの時は仲間内と、山陰のとある場所で地形を活かしたゴルフをしており、別名山陰マスターズを自称していた。
尚、その腕前はプロ並みで、ハンデは何と8。当時の日本で、ここまでのハンデを持つゴルファーがどれだけいただろうか。
戦前、中学時代からの趣味だったこともあり、大学時代にはプロテストを受けようと本気で考えたこともある。
しかし、直後に戦争状態となったため、結局諦めざるを得なかった。
そして、ここにゴルフコースがあることを知っていての発言である。
これは余談だが、アスリートのリハビリのため、ゴルフを勧めるスポーツドクターは多いという。アスリートにゴルフ仲間が多いのも、リハビリなどの過程でその面白さに嵌ったというのも珍しくない。
特にレーサーには多く、かのナイジェル・マンセルに至っては、ハンデが2だった時代もあり、チャンピオン獲得後はプロゴルファーになるのではという噂もあった程だ。
「だが、今回来たのはゴルフじゃないぞ」
それは、果たして自己弁護だったのか。周囲は当然趣味を知っているので、絶対ゴルフに来たんだろと半ば冗談なのを分かっていて、そういう目で見ていた。
だが、その一方で、事務的に準備が進んでいく。マシンがピットロードに運び出されると、いよいよかと二人はアドレナリンが上昇するのを感じた。
でもって、ピットからホームストレートを眺めて風也は一言、
「それにしても長いストレートだなあ」
「だろ?何しろ1マイルだからな (=1610m)。最高速でかっ飛んだらスゴイことになるぞ」
それは、あの超音速現象のことである。
当時、富士のストレートは日本最長であったのみならず、世界でも屈指の長さでもあり、これを上回るのは共にフランスのサルト、後にオープンするポール・リカールくらいである。
尚、とある関係者の証言として、ストレートは最大で1マイルまでとすべきだという。というのも、これ以上長いとマシンは最高回転数で長時間走り続けることによる負荷の増大に伴うリスク、更にドライバーも長時間強度の緊張に置かれ続けることによる精神的負担による事故リスクの増大に繋がりかねないとのこと。
かといって、あまり短いとコーナーなどに何らかの工夫を凝らさない限り、レースの面白味を削いでしまうばかりか、コーナリングリスクによる事故リスクの増大に繋がる可能性もあるという。
そして、ストレートは1000m以上1600m以下が適性ということになる。これを最低一本設けるべきであると。
偶然にも富士のストレートは、こうした条件に合致していた。もしもだが、上述の件まで見越して設計していたのなら、驚く他ない。
もしも事実であるなら、全てが一定の意図を以て設計された世界初のサーキットということになるのだ。というのも、その多くが地形を活かした結果であるなど、偶然の産物なのである。それは当時の鈴鹿も例外ではない。
マシンに火が灯され、OHV特有のプッシュロッドのカタカタ音しか聞こえない程、周囲は静寂に包まれていた。それに、現在ここには自分たち以外おらず、余計に静寂さが際立つ。
まるで、神々に包み込まれているかのようだった。
「神社が近くにあれば、お参りしておきたかったな」
耕平をしてそう言わしめる程、この静寂が神聖な物に感じられた。何しろ背後には聖峯富士山が聳える以上、そう感じるのも当然だろう。
マシンには風也が乗り込んでスタンバイしており、メカニックは計測器で各部の温度をチェックしている。尚、マシンの準備完了の基準として、概ね水温80℃前後が一つの目安だ。
ドライブレコーダーから送られる波形も安定しており、頃合いと思われた。
「よし、いいぞ!!」
耕平の合図と共に、ロリポップが赤から青に翻され、マシンは待ってましたとばかりにコースインしていく。
予行演習は、始まったばかりだ……




