表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

出雲大社

 図面は、何と僅か一週間で描き上げられた。彼一人が連日夜遅くまで無我夢中で描いたのである。


 それはまさに無心だったと、耕平は後に述懐している。実は、歴史に名を残す物が生まれる時、それは意外にも頭を痛め尽くして考え込んだ末ではなく、文字通り無心の中で生まれることの方が圧倒的に多い。


 その図面の量は、この時点で1000枚以上に上った。


 そして、耕平としては、真先に試したい、ある技術があった。

「こいつが完成するか否かが、このプロジェクトの成否を左右するだろう」

 そう言って、倉庫にある材料置場にて、白く光り輝く金属の塊を見つめていた。その正体は、業界用語ではA2024。超ジュラルミンである。

 

 尚、ジュラルミンには現在三種類あり、一つは所謂ジュラルミンとして知られるA2017。更に、超ジュラルミンをも上回る、嘗て日本軍の航空機に採用されていたことで、その名を世界に知られた、超々ジュラルミンこと、A7075だ。

 実は、ジュラルミンという金属は存在しない。アルミをベースとした合金であり、ジュラルミンは1909年にドイツで、超ジュラルミンは1928年にアメリカで、そして、超々ジュラルミンは、1936年に日本で誕生した。

 その超々ジュラルミンは二種類あり、1943年にアメリカで75Sと呼ぶジュラルミンが開発されており、現在はほぼこちらが主流で、日本が開発したのはESDと呼ばれ、主に航空機に採用されている。

 余談ながら、嘗て超々ジュラルミンによるスマホケースが販売されたが、恐らく75Sであろう。というのも、ESDの方が軽く強度も高い反面、切削加工が困難なためである。


 なので、よくマンガや小説で登場するアルミ合金とは、ジュラルミン合金と思って差し支えない。 

 

 ジュラルミンによる軽量化効果は絶大で、身近なところでは、ノートパソコンのカバーがジュラルミンだし、我々は日常生活の様々な場面で恩恵を受けていると言っても過言ではない。


 そのジュラルミンを、何と、エンジンブロックに使おうと考えていたのである。

「コイツは、農機の心臓部だからな。それをレースに使うのは、訳もないこと」

 そう、出雲産業が販売していた農業機械のエンジンブロックは、何と超ジュラルミン製だったのだ。何故かと言うと、農機にはほぼアイドリングでの超低回転で長時間回ることが要求される。

 加えて、特に日本の土質は粘る上に重く、その中で機動するため図太いまでのトルクも要求された。平たく言えば、牛のような歩みで長時間荷を背負い山道を歩き続ける能力だ。


 実はこれ、素人からすれば至極簡単なことに思えるだろう。だが、実態は全く違う。回転による惰性が事実上利用できないため、エンジンには想像を絶する負荷が掛かる。自動車用エンジンでこんなことをすれば、数分ともたずにクランクシャフトが折れるだろう。

 

 それを防ぐため、出雲ではジュラルミンを選んだ。というのも、ジュラルミンはクランクシャフトの捩れを吸収する作用があるのだ。クランクシャフトを強化するより、それなら捩れるのを受け容れ、受け流せばいい。また、クランクシャフトはこのために組立式として、シャフト自体が捩れてもそこで負荷を吸収するようになっていた。

 農機のエンジンは精々4気筒もあれば十分なので、問題はなかった。因みに、組立式クランクシャフトは、6気筒以上には基本的に使えない。長くなれば捩じ切れるのは確実だからだ。

 このため、自動車用は基本的に鋳造による一体式クランクシャフトを使う。現在は切削加工が主流だが、鋳造品は今も現役だ。というのも安価だから。


 だが、耕平はジュラルミンのブロックを見つめていて、ふと暗い表情になる。


 その理由は、戦争であった。


 昭和18年10月21日のこの日、明治神宮外苑競技場に於いて、大学生を前線に送る学徒出陣壮行会が、大々的に行われた。

 分列行進曲が流れる中、トラックに響く軍靴の音。徴兵の対象外であり、その上前日に社長に就任したばかりの耕平にとって、嘗ての同級生を観客席から見送るのが、如何に耐え難いものであったか御理解いただけよう。

 何故なら、仁八と同じく国の存亡が掛かっていた状況下、友人と同じく命を投げ出すことが許されないことが、どれ程つらいことか。


 あの時、隣には仁八もおり、共に社長として家業を継いでいた中、学生服姿の友人を背広姿で万歳斉唱していたのだが、二人だけでなく、前線行免除となった友人は、皆涙を流していた。これが、今生の別れになると悟っていたからである。

 実際、戦後に復員できた学徒は、全体に3割と言われているのだ。その多くが、特攻に散っていった。かの神風特攻隊の大半がその学徒であり、彼らだけでも4000人を超えるという。


 耕平が故郷の島根に戻ったのはその直後なのだが、戦前から宍戸重工と同じく知名度は低かったものの、出雲産業が世界の最先端を歩む数少ない日本企業の一つであったことは、政府のみならず軍部も熟知していた。

 このため、彼らの技術は特攻兵器にも活かされた。つまり、自身の製品が、友人を二度と戻らぬ世界へと追い遣るのだ。

 その時の心理状態が、如何に想像を絶するものであったか。


 結局、特攻兵器の生産は、僅か二年足らずに過ぎなかったが、その間に散っていった友人はもう、戻って来ることはない。その負い目が、復興への我武者羅な想いへと昇華していった。

 あの頃、一年の内、一体何回休んだか覚えていないという。そんな状態が三年は続いた。とにかく、あの頃は工場に籠っている方が、とにかく楽だったし、工場そのものが楽園だったと、耕平は後に語っている。


 それからまだ17年。耕平にとっては、昨日のことでしかない。いや、あの戦争を生き延びた全ての人にとって、何十年経とうが、昨日のことでしかないのだ。

 それが、あの学徒出陣から僅か17年となれば、あの時の記憶は猶更鮮明であっても当然だ。


「ふっ、情けない……」

 耕平は、あの時友人に触発されて一旗揚げようと決意し、憑りつかれたかのように図面まで描きながら、いざ製作に入ろうとすれば、あの時の記憶が蘇って手が止まることを、自嘲気味に呟く。

 心の奥底では分かっていた。友人が、自分のそんな姿を望んでいる筈などないことを。それでも、特攻兵器に携わった負い目が、重く圧し掛かる。

 理由は簡単であった。レース用マシンも、特攻兵器と何ら変わらないという事実を認識したからである。


 耕平は、何度も手が止まった。その上、日に日に窶れていく様子に、家族からも心配される始末。そして、見るに見かねた母方の祖母に忠告された。

「いっそのこと、出雲大社にでも行ってみなさい。こういう時こそ、神様に御すがりすべきじゃ」


 翌日、珍しく欠勤した耕平は、出雲大社へと足を運んだ。


 その社殿は、いつ見ても包み込むような温かさに満ちていた。だが、戦時下に於いて、ここ出雲大社でも出征していく兵士に対する壮行会が行われていた。

 その御利益だろうか、復員した兵士は多かったと伝わる。それは、地縁のためであるとも。出雲大社は縁結びで知られるが、縁結びというと、一般的には結婚を指すことが多いものの、その縁は実は様々なである。


 また、産業振興でも所縁のあることは、あまり知られていないが、ここへ参拝する企業家は少なくない。母方の祖母が忠告したのは、終戦から今日まで、出雲大社に参拝に行っていないことで経営が行き詰まっているのではと暗に懸念していたのだ。

 確かに、解釈のしようによってはそう受け取れなくもない。実際、社運を賭けたプロジェクトは、早くも暗唱に乗り上げようとしているのだから。


 今となってはバカバカしい話に聞こえるかもしれないが、もしかしたら現在の日本の不況の一端に、こういったことが軽んじられるようになった所為でもある可能性を、誰が否定できるだろうか。


 出雲大社では無心で祈りを捧げた後、近くのベンチで休んでいると、一人の老人が隣に座り、覗き込みながら声を掛けて来た。

「もしかして、相当深い悩みを抱えておるんじゃろう。話してみなさい。それだけでも違うぞ」


 耕平は、何故かその老人に対して、話さなければならないような気がした。

「じ、実は、これからレース用のマシンを製作しようと意気込んでいるのですが、特攻に散っていった友人のことが頭に浮かび、手が止まってしまうのです。無論、それではいけないことは分かっています。しかし、レーシングカーも結局は、若者を死地に追い遣ることに変わりはない。そう思うと、手が動かない……」


 そう聞いた老人は、にべもなかった。寧ろ突き放すように捲し立てる。

「何をバカなこと言っとるんじゃ。死地に赴くだあ?彼らは死にに逝ったんじゃない、未来を信じて向かって行ったんじゃ。そう考えるなど、特攻に散った方々に失礼じゃぞ!!レーサーはな、未来のために自分の命を託しとるんじゃ。自分の走りが未来に繋がると信じてな。生き残ったお前が、彼らが遺した未来を信じてなくてどうする」


 耕平は、そう諭され、ハッとなった。だが、隣にその老人はもう、姿を消していた。その話を聞いて、憑き物が落ちたような気がした。

 後には、清々しい思い、そして、友人が見守っているかのような、温かい気配を感じた。


 その日から、ルマン制覇に向けた、試行錯誤の日々が始まる……


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ