谷田部は黄金の輝き その2
ピットロードに待機する出雲のマシン。
そこへ、二人のドライバーが現れ、周囲は更なる驚愕に包まれる。
「な、な、ドライバーは女の子おお!?」
そんな驚愕をよそに、こちらは淡々としたものだ。耕平が二人に説明を行う。
「今回の目的は、高負荷状態で24時間走り続ける。言わば予行演習だな。今年の11月に開催が決まった富士での耐久だが、まだ時間数が決まっていない。それでも一応用意はしておいて損はない。何しろルマンは24時間だしな」
耕平の説明に、二人は頷く。
最初に乗り込むのは風也。尚、今回からヘルメットには正式にカラーリングが施された。風也は白をベースに黒染の雉が舞う。要は巫女時代に着ていた千早がモチーフだ。
渦海は赤をベースに五文桐花が側面に白染で描かれていた。実はいずれも染付職人による入魂の仕上である。
注目の中、エンジンが始動すると、意外な程大人しいと誰もが思った。普通、レース用マシンの音はもっと猛々しいことは、当時まだ本格的なレーシングカーは稀少だった日本でも想像がつく。
しかし、それは今の内だけだ。
コースインしていくと、最初は流す程度で、やはり大したことはない。この間異常がないかどうか、風也は挙動から確かめていた。
だが、二周目を過ぎた辺りから全開走行のピットサイン。それを見て、風也はアクセルを床まで踏み込む。
「いよいよ地獄へ逝けってことね」
そして、マシンは本性を顕わにした。全開走行のサインが出る前から、スタッフはヘッドフォンをしていた。谷田部は反響音が物凄く、以前SSDが二輪にも関わらず信じられないような轟音で駆け抜けていった教訓が活かされていた。
だが、それを知らない者は、不運だった。
「ぎえええ!!な、何だよあの音は!?う、うるせええええ!!」
そのサウンドの大半は、ルーツ式スーパーチャージャーから発していた。恐らくこの時点で10万回転以上。元より動力源はエンジンからではなくミッションから取っているとはいえ、動力源の負荷に打ち勝って回り始めたブロワー内部ではプラズマが生じており、文字通りカミナリ製造機と化していたのだ。
遠心式と比べると、ルーツ式は脈動がある分うるさい。その上、この時目撃者は、ある現象を体験していた。
「うそだろう!?走り去った後に音が聞こえるなんて」
そう、彼らが体験していたのは、超音速現象。発生源は静止しているにも関わらず、マシンは移動しているため、理論上音より速く移動しているのだ。
その一方、
「今頃周囲はうるさくて敵わない筈だけど、こっちは至って静かよね」
そう、超音速現象のため、内部は非常に静かなのであった。それ故アクセルレスポンスなど、エンジン音によるコミュニケートはとれないため、情報源はタコメーターしかないが、慣れればどうということはない。
それに、偶力振動でもおおよそのコミュニケートは取れるからだ。
順調に周回していくが、オーバルコースを走るのは、見た目に反して楽ではない。
というのも、ホームストレートとバックストレートで風向きが全く異なるし、横風が吹き付けても恐い。その上、最高速でずっと走り続けるのは、想像以上に神経が磨り減る。
昼過ぎからスタートして特にトラブルもなく順調にスケジュールを消化していく。そして、世が明ける頃、変化が訪れる。
「こ、これは……」
耕平が、ドライブレコーダーから送られるデータを見て驚愕した。
尚、当時のドライブレコーダーは原始的なもので、鉱石ラジオの原理を応用しており、速度や回転数、水温、油温、油圧、電圧などを電波に置き換えて計測していたに過ぎなかったが、それでも当時としては最先端の装備であった。
しかし、シンプルな分相関関係が分かりやすく、21世紀現在でも世界中で現役である。尚、ドライブレコーダーと言っても、所謂データレコーダーである。
驚愕の理由は、午前6時2分、この時最高速度は何と、403.76㎞/hをマークしたのだ。それは、日本に於いてのみならず、非公式とはいえ、レーシングマシンが初めて400㎞/hを超えた瞬間であった。
尚、公式レースに於ける最高速度記録は、1988年に405㎞/hをマークして以降、シケイン設置などによって到達すること自体が不可能となったため、破られていない。恐らく永遠の記録として残るだろう。
因みに、薄暮、特に明けの明星では太陽による引力の関係で無風になりやすく、最高速度が最も出やすい条件であもある。
「おい、この時の風の状態は!?」
「東の風、風速は3m/sです」
何と、弱いとはいえ横風だった。それでもマシンは動ずることなくあのスピードを記録したのだ。実は、それが可能だったのは、空力の妙である。
出雲では、SSDと同じく、理論上静止状態を再現すべく、アップフォースとダウンフォースを釣り合わせるよう空力を設計していた。
当然のことながら、静止状態の時が、最も安定している。また、この時は共にプラスマイナスゼロだ。それを追求したのであった。尚、厳密にはダウンフォースがアップフォースを2%上回っている。これがベストな数値であることが分かっていたからだ。
理論上静止状態であるため、マシンは横風を受けてもハンドルを取られない。
その後も周回は順調に消化し、午後1時、24時間を無事に走り切った。それによってどんな異変が起きているかは、本社に帰って調べることとなるが、耕平はマシンに自信を持っていた。
そしてこの時、平均周回記録は何と、300㎞/hを悠に超えていた。
この時代、谷田部のスケジュールは大変押しており、いつの間にか見物客が多く集まっていて、誰もが唖然として、撤収していく出雲の集団を見つめていた。
何か、信じられない物を見たといった様子である。それも無理のないことだが。何しろこの時目撃したのは、国産マシンが400㎞/hを超えた瞬間なのだから。
それも、どんな最先端技術が用いられているのかと思えば、メカニズムは当時の水準でもとことん古いのである。レースの世界に於いて、既にOHVは古典となりつつあり、その上ターンフローとか、ふざけてんのか?と言われるに違いない。
その上、日本国内ですら徐々にディスクブレーキがレースに普及し始めていた中、ドラムブレーキを使用しているのだから、それを知ったら開いた口が塞がらないだろう。
しかし、その古典的なメカニズムに、極限まで磨き抜かれた最先端技術が注ぎ込まれているのだ。何より、シンプルでもあった。それが400㎞/h超の正体なのである。
谷田部には、黄金の輝きが強烈に焼き付くこととなった。
余談だが、二人はその後谷田部の街に繰り出し、特産品であるネギを大量に購入したのであった……




