谷田部は黄金の輝き
ルマン観戦から戻って来て一週間後、マシン開発は佳境に入っていた。
その間、国内に残った技術陣の手で、様々な改良が加えられていた。そして、一定の完成をみたマシンは、ある場所へと送られることに。
それは、日本自動車研究所。通称谷田部。オーバルコースを基本に、様々なテストが行えるようになっており、オーバルから途中のコース変更も勿論可能で、実は世界中の主なサーキットを参考に、考えうる限りの難所が詰め込まれていた。
再現不可能だったのは、ニュルブルクリンクとモナコくらいだと言われる所以であり、戦後日本の自動車産業及び二輪産業の急速な発展に大いに貢献した、日本産業にとって聖地とも言うべき場所である。
今、とあるメーカーの自動車がテスト走行中であった。当時、日本で主力だったのは、主に800~1200㏄クラス。今走っているのもほぼそのクラスであり、現代の基準から見ると、ほぼコンパクトカー並である。
それでも買える人はまだ僅かで、マイカーブームが本格化するのは、最低でも5年は待たねばならない。かように、欧米の大衆車にすら及ばない。
二輪が世界を制する程に急速に高性能化していた中、四輪はまだまだ発展途上だった。
時系列的にはかなり後の話にはなるが、当時の国産車事情を知る上で恰好のマンガが、池沢さとしを一躍人気作家に押し上げた『サーキットの狼』である。
因みに池沢氏は軟派な作風が特徴なのだが、このサーキットの狼は珍しく硬派な作風であり、氏の中ではある意味貴重な作品でもある。
一連のテストが終わり、上々のデータに満足して撤収しかけていた中、順番を待っていたメーカーから、一台のマシンが降ろされていた。
ギャバジン織の淡い稲穂色の布地が掛けられているが、異様に低いシルエットが見てとれる。
その様子を見た技術者の一人は、
「あんなに低いシルエット、間違いなくレーシングカーだろうな」
「けどよお、国内で何かレースなんてあったか!?」
誰もが疑問に思うのは当然かもしれない。当時、日本国内で二輪以外本格的なレースなんてまだなかった。言わばその前夜だったのだから。
尚、SSDがワイルドカードで、ルマンを圧倒的な速さでリードしたことは既に知れ渡っていたが、まさかそのルマンに、本格的に殴り込みを掛けようとするメーカーが日本にいるなどとは、思いもしなかったろう。
やがて、そのヴェールが剥がされていくと、その下から現れたのは、シンプルに日の丸が入っただけの、黄金色に輝く美しいシルエットのマシンであった。暫し見惚れる。
「な、なんだありゃ!?もしかして外国製かよ!?ていうか、外国のメーカーが谷田部に!?」
目撃者がそう思ったとしても無理はあるまい。当時、日本にこんなマシンを作れるなどとは思えなかったとしても。
無論、それは自虐ではなく、彼我の差は、彼らが一番痛感していたことだ。
しかし、周囲を取り囲んでいるのはどう見ても日本人だし、と、技術者の一人が、マシンに輝くエンブレムを見て気付いた。
「おい、ありゃ出雲産業のマークじゃねえか」
「な、何だと!?出雲産業といや、確か農機が有名だよな」
そう、自動車業界でも、出雲産業は農機メーカーとして遍く知られていた。まさか、その農機メーカーがこのようなレーシングマシンを作るなどと、誰が思うだろうか。
しかし、備に観察すると、海外に該当するシルエットのマシンはいないし、かのフェラーリとて、ここまで繊細なシルエットではない。全てが日本的だった。
「やはりこれって、国産なのか!?」
そう感じるのは、やはり日本人だからだろう。シンプルなシルエットの中に、ぱっと見には分からない緻密で計算された痕跡がいくつも見てとれたのだ。
「ど、何処をどう見ても、ムダやスキがない……」
その時のことを、20年後にモーター月報で、とある技術者はこう述懐している。
『全てが文字通り黄金比でまとまっているのは、当時車体を担当していた私には、すぐに分かりましたね。しかし、普通は何かしらのシガラミで妥協せざるを得ないことが殆どなのに、一切の妥協の痕跡がカケラも見当たらないんですよ。当時最強のフェラーリでさえ、よく見たら一定の妥協が見られるというのに。まさに、レーシングカーの見本のようなマシンでしたね』
周囲の注目の中、出雲産業のマシンは、静かにその時を待っていた……




