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マン島制覇から、全てが始まった

 昭和35年(1960年)6月。


 マン島に於いて、歴史に残る快進撃が演じられていた。それは、日本の二輪メーカーによる、全クラス表彰台独占である。

 男女に分かれて行われる世界最高峰の二輪レース、WMGPマン島TTでの男女選手権に於いて、一国のメーカーによる表彰台独占は、勿論世界初にして空前絶後。世界中がこの日、大騒ぎとなった。

 あの戦争から、僅か15年。世界はこれを、奇跡と呼んだ。


 その快挙を島根県出雲市にて、静かに見つめている社長がいた。社長の名は、松平耕平 (まつだいら こうへい)。

 窓から陽光射し込む中、新聞のトップ記事を見つめながら、社長室にて独白する。


「オレも、一旗揚げてえなあ」


 その会社の名は、出雲産業。農機及び農機具、そして、産業機械及び工作機械で業界にその名を知られる、世界の最先端を歩む山陰の雄だった。だが、その事実を知る者は、あまりにも少ない。

 何しろ日陰産業だから、それは止むを得ないと言えよう。


 そんな出雲産業を率いる彼もまた、戦争の瑕を背負う一人だった。ふと、窓から景色を見遣り、遠い目をする。


 今から17年前の昭和18年。この年、大学生に対する徴兵猶予が停止され、文系を中心とした学生が、明治神宮外苑競技場に於いて学徒出陣壮行会を行った。

 東条英機の『天皇陛下万歳』の声と、その中で流れる分列行進曲が、今も脳裏に焼き付いている。10月21日のその日、彼はその場所で大勢の友人を見送った一人だった。

 親友だった現在の宍戸重工とSSDを率いる仁八とは東大工学部の同期であり、当時26歳で徴兵猶予期間に相当していたのだが、無論国の危機に二人して戦地に向かう覚悟でいた。


 だが、理工学部の学生は、農学部を除き、それは認められなかった。それ以前に、二人は身体的にも自信があったにも関わらず、徴兵検査でも丙種合格だったことも理由ではあった。

 しかし、学徒出陣には一部に丙種合格者もおり、この決定は、後々まで二人にとって負い目ともなってしまう。


 奇しくもこの年、仁八と共に耕平も故郷に戻り、それぞれ宍戸重工、出雲産業の社長へと就任している。前者は父が会長へと退いたためだが、後者は父の急死が背景にあった。この時、共に僅か26歳。戦後日本の技術をリードしていくことになるとは、二人にはまだ知る由もなかった。


 こうなると、経営者として国を支える立場となり、文字通り寝食を忘れた。それから僅か二年後、終戦を迎えることとなる。

 8月15日の玉音放送は、今尚全文を暗唱できる程に焼き付いていた。

 友人の大半が還って来なかったこともあり、その瑕を隠すかのように、復興へと臨んだ。日本の世界から見ても異様なスピードでの復興には、団結力云々でも説明しきれない部分があるが、それは、日本人の特質も関係していると言えよう。

 日本人は、つらさを働いて忘れようとすることが多い。このため、復員兵が愚連隊をしていても、それは長続きしなかった。それ故、焼け残った工場で働いている内は、焼野原となった風景を見ずに済むので、一日16時間労働でも苦にならなかったという証言も少なくない。


 これは余談だが、戦後、特に高度成長期前後の日本に於いて、何気ない日常をテーマにしたドラマが多く放送されたのは、戦争のつらさを忘れられることが背景にあったと言われている。

 それだけ戦争を生き残った日本人は、復興以上に、何気ない日常を取戻すために死に物狂いだった。


 そんな中で気が付けば17年になろうとしていた。

 島根は日本海が機雷封鎖に遭い、その結果海産物を中心に食糧難に陥ったことや (何と、機雷は宍道湖や中海にまで及んだ)、島根県庁舎が終戦の翌年皇国義勇軍と称する愚連隊によって焼き討ちに遭ったこと(後の松江騒擾事件)を除けば、空襲で市街地を焼かれ住む場所も失った大都市と比べれば、かなりマシな方であった。


 親友の仁八はこの年、自ら率いるSSDが、マン島制覇及びWMGP制覇をも達成することになる。嘗て自身も訪れたことがある戦後も間もない広島の地は、悲壮なんてレベルではなかった。そこから世界を制覇してのけたことが、彼を刺激しない筈がない。


 元より、この出雲産業も様々な形で協力していたのだが、つい先日、マン島制覇を目前に控えた中、請われて仁八を訪ねていた。

「お前の会社のお陰で、今年、SSDは頂点に立てそうなんだ」

 仁八は、産業人らしく世間話もなしに単刀直入で言い放ったものである。仁八にしてみれば、御礼を言いたかったのだが、その一方、耕平も、宍戸重工に刺激される形で何かしらの形で世界に挑戦したいという想いが芽生えており、それで相談に向かったのだが、仁八は事も無げに言い放ったものだ。

「それなら、二輪ではなく四輪でやってくれないか?」

 何だか無責任に聞こえなくもない発言だが、その時の仁八は、笑いながらそう言っても、目は笑っていなかった。


「おいおい、オレのところは農機だぞ。自動車なんて畑違いじゃないか」

「オレが思いつきで何か言ったことって、あったか?実はだな、農機にはレースに使える技術やノウハウが豊富にある」

 そう言って、仁八がお茶の隣に置いたのは、とある部品。それは、クラッチであった。エンジンと変速機の仲を取り持つ、単純ではあるが非常に重要な部品である。

「イギリスのボーグ&ベックじゃないか」


 耕平にとっては、常識過ぎるシロモノであった。尚、日本にもクラッチメーカーは多く、当時代表的なメーカーとしては、小倉クラッチが業界では有名だった。

 一方、戦後になり輸入が解禁されると、出雲ではボーグ&ベックのクラッチを用いていた。クラッチは、単純な割に高度な工作精度が要求される。ある意味、国の工作水準が分かると言われる程だ。

 当時、日本に於いても国産クラッチを高性能モデルに用いることには不安を抱いていた時代である。


 そのボーグ&ベックのクラッチを指差しながら、仁八は真剣な顔で言い放った。

「実はな。これと全く同じ物が、フェラーリにも使われているんだ。あの12気筒エンジンのパワーを受け止め、その上ハイスピードにも耐え抜くんだぞ。その上、農業機械の多くは、超低速で、しかも粘度の高い場所を走行するだろ。何が違うんだよ」

 その一言に、耕平は、仁八が言わんとしていることが即座に分かった。レーシングカーと農業トラクター。実は、スピードと走行条件が異なるだけで、想像を絶する負荷に耐えることが要求される点が共通していたのだ。

 それ故、農業機械は、高度な技術力の結晶と言っても過言ではない。


 仁八は続ける。

「お前の技術がなければ、オレたちは世界の頂点には立てないんだ」

 その一言だけで十分過ぎたと言える。耕平は、納得したような表情を浮かべた。

「分かった。それじゃあやってみようか」

「その意気だ。もしも必要なことがあったら遠慮なく言ってくれ。何でも協力するぜ」

 親友の二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。


 そして時系列は、再び一旗揚げたいと考えるところまで戻る。耕平は、親友のマン島制覇に後押しされるように、決意を固める。全てが始まった歴史的瞬間だった。

「それならやってみるか」

 そう言って、耕平は一人、設計室で図面との格闘を始めた。真っ白な紙に、あっという間にアウトラインが描き込まれていく。


 実は、彼も密かに想うところがあった。

「仁八が目指したのがマン島なら、オレが目指すのは、ルマンだ!!」

 そう、耕平は、ルマン24時間制覇及び、その一戦が組み込まれているWME(Word Motor Endurance)制覇を選んだのである。尚、WMEは、日本では世界耐久選手権と訳されることが多い。

 そして、一枚の図面には、密かに思い描いていたマシンのシルエットが描き込まれていた。それは、実に美しかった。


 この日、山陰の地に於いて、ルマン制覇を目指す長い戦いが始まった……

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